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硝子越しの情景  終景「La vie en ambrée」より(部分)

 







 

「よう、クソコック」
「んだ、酒ならねえぞ」
 何度も繰り返した会話。そして同じような押し問答が今日も始まる。
 結局は妥協してボトルを出し、文句をいいつつもそれに合った肴も突き出される。いつもの光景。いつもの空気。
 そしてひととおりどうでもいいような会話がぽつりぽつり交わされたあと、ふと沈黙があたりを支配する。
 来た。
 結局これもいつもの通りだ。
 ゾロが纏う空気の質が変わった、とサンジには解った。名残惜しげに最後に長く煙草を吸い、ふうっと天井に向かって長く煙を吐き出す。
 ゾロを視界に入れずにそのまま煙草を灰皿に押しつけて消した。
 灰皿へ落とした視線をそのままに、俯くサンジの腕を乱暴に掴むと、ゾロはそのままサンジの身体をぐいと引き寄せ、がつ、と音がするほど強く唇をサンジの半ば開いたままのそれに押しつける。
「う…」
 サンジはそっと目を伏せ、ゾロが口腔内へ激しく攻め入ってくるのをおとなしくされるがままに受け入れた。
「苦え」
 ゾロは一瞬口を離してそう言うと、再度角度を変えてサンジの口を思うがままに犯した。
 ランプの光に映し出されたゾロの瞳は、昏い光をたたえている。昼間は何の変哲もない茶色という色味が、夜のこの空気の中ではぎらりとそれ自体が金色に光っているようだ。
(獰猛な肉食獣の目…)
 サンジはその目を見るたびごとに、同じような言葉が脳裏に浮かぶのを、今夜もまた繰り返していた。
 また俺は喰われる。この獣に。
 ぞくり、とサンジの背筋を昏い歓びが駆け上がった。口の端がにいっと上がる。
 ゾロは今まで無色透明だったサンジの気配にようやく色が付いてきたのを感じ取り、さらにサンジの首筋に舌を這わせ、ネクタイをもどかしく引っ張り、そこに現れた白い皮膚、その鎖骨にがっと噛みついた。
「慌てンな、このケダモノ野郎」
 サンジがゾロの短い髪の毛を掴み、ぐいと自分の肌から引き離した。二人の視線が今晩初めて交錯した。
「へ。その気になるのが遅えんだよ、テメエは」
「言ってろ。喰うことしか頭にネエくせしやがって」
 ゾロの視線に絡むサンジのそれも底光りをしている。夜のサンジの目はほとんど黒に近い藍色だ。それが底にゆらゆらと欲望の影をゆらめかせている。
「ああ、喰うことは大事だろ。俺も、そしてテメエもだ」
 俺たちは、所詮ケダモノ同士さ。わかってるじゃねえか。

 あの頃の俺たちはケダモノだった。毎晩躯を重ねて、お互いをむさぼりくらった。ゾロが俺に突っ込んでいたが、別に俺はこだわっていなかった。突っ込まれようが突っ込もうが、体熱はお互いに同じだったから。
 それでも若い俺たちは熱を持てあましてよく衝突を繰り返していた。そんな俺たちの関係を何と呼ぶのかはわからない。恋人というような甘いモノではけしてなかった。同じ船の仲間であることは確かだったが、俺たちの関係はその範疇をすでに大きく超えていた。甘い語らいは一切なく、罵りあい、けなしあい、それが行き過ぎると怒鳴りあい、さらに過ぎると殴りあった。まあ、俺の方は手より足の出る方が多かったけれど。

 いつごろからだったろうか。
 俺たちはそれなりに上手くやっていたと思っていた。昼間は昼間の顔で、そして夜は夜の顔で対等な関係を保っていた、と思う。
 しかしそのバランスが微妙にズレてきたように感じられてきた。何が、という具体的な目印は何もなく、ただ空気が、としかいいようがない。
 ゾロは感づいているのだろうか?
 自分だけが違和感を感じているのなら、そっとやり過ごしてまたバランスを取り直すことができないだろうかと思い、できるだけさりげなく気づいていない風を装った。しかしゾロは持ち前の野生の勘というやつだろう、おそらく俺よりも早く感じとっていて、さらに間の悪いことに俺が気づいていないふりをしていたことも解っていた。
 ダメだ、と俺は思った。
 俺たちはこの距離を保っていなければダメだ。このぎりぎりのところで熱だけを分かち合う関係でいなければダメだ。両側がぴったり同じ重さでつりあっている天秤はかりのように、同等でいなければ。
 ゾロ。そこから一歩でも踏み込んでくるな。俺のなかへと踏み込んでくるな。
 俺は逃げた。
 
 ある島で、ゾロが船番のときを見計らって、上陸したときに船長に願った。俺は船を降りる、と。
 船長はなかなか首を縦に振らなかったが、俺が頑として言うことを聞こうとしなかったため、最後には折れた。ただし、下船ではなく長期休暇という名目にすることだけは交換条件として受け入れさせられた。
「いつか必ず、休暇を終えて帰ってこい」
 そう言われて別れた。
 俺はその足でその港から一番早く出る船に乗り組んだ。行き先はどこでもよかった。ただゾロが俺に向ける執着から逃げたのだった。