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パラキシャル フォーカス(30)




 翌朝。
 観光パンフレットによれば、ステンドグラスが見事な教会の廃墟があるという。夏期のシーズンのみ観光客にオープンするそうだが、あいにくと今は中へ入れないらしい。
 教えてくれたホテルのフロントのお姉さんにたくさんの笑顔と美辞麗句を注ぎつつ、景色だけでも見てみるよ、とサンジはそこへ向かった。

 さわさわと風がそよき、空はあくまでも青く、高い。日光は柔らかい光をあたりに惜しげもなく降り注ぎ、穏やかな田舎の風景をまるで絵画のように描いていた。日曜画家の、どこにでもある平凡な作品のように。
 その教会は海を望む丘の上にひっそりと佇んでいた。シーズンオフということで、辺りには人っ子ひとりいず、どこまでも聞こえてくるのは風が草を渡ってゆく音だけ。
 門の鉄格子には鎖がかかっていて、確かに誰も中へ入れないようになっている。
「ふーん」
 ひとつ首をすくめると、二、三歩後じさってから軽く助走をつけ、ぽーん、と塀に向かって飛び上がる。塀のてっぺんにとん、と両手を突いて、飛んだ勢いのままにそのままくるっと空中で一回転すると難なく向こう側へと身体を運んだ。

 何て身の軽さだ、とここまでサンジをずっと追跡してきたやぶにらみの男がそのひしゃげた眼差しを可能な限り大きく見開いて内心唸った。信じられねぇ。まるで、猫だ。
 だが、ヤツと同じ道を辿って中へ入ることは不可能だ。後を追うにはどうしたらいい。脳みそをフル回転させて考えるが、上手い知恵が浮かばない。
 とりあえず、門の隙間から中の様子を覗き見る。ヤツは今度は建物を一周して、建物の中へ入ろうと画策しているらしい。微かにぱりんとガラスの割れた音がした。してみるとヤツは窓から侵入するつもりなのか。中には一体何があるのか。
 応援を呼ぶべきだ。今すぐ。男は子電伝虫をとりだしてオキーフに連絡をとろうとした。まさにそのとき。
 サンジが何事もなかったかのように姿を表わした。すたすたと塀の中を男の方へ向かって歩いてくる。
 このままでは見つかってしまう、とあたふたとその場を離れて、とりあえず草むらの中に身を隠して自分の今いたあたりを睨んでいると、またしても先ほどの見事な体技を披露して塀を飛び越え出てきた。
(いってえ、何なんだ)
 首をかしげながら男はサンジを見守っていると、中から出てきたサンジはすたすたと教会を背にしてまっすぐ丘の中腹にある木陰へと歩を運び、木に背を預けて地べたへ座ると、のんびりと煙草をくゆらせながら海を眺めだした。
 長い足を気だるげに放りだし、黒布に隠されていない方の目は半眼で、煙のゆくえを見ているとも遠くの船影を見張っているともどうとでもとれる。
 そのまま残りの半日余りをサンジはそうやってほとんど動かずに海を見て過ごした。





「……からの定期船は明後日に到着するわ。そして船荷を降ろして、新しくここからの羊毛やなんかを積んで出航するの。それがさらに二日後」
「へぇえ。ルナちゃんて何でも知ってるんだねぇ。こんなにカワイくて、そして博識で、そうしてこんなくたびれた旅人へも分け隔てなく親切なんて、野郎どもが放っておかないでしょ?」
 フロントの女の子はまだあどけなさを残す笑顔でくすす、と笑った。笑いながらサンジが伸ばしてきた手をさりげなく払う。
「ほんっとサンジさんってば可笑しいのね。こんなこと、島の人間なら誰でも知ってるわ」
「あ〜ん、謙遜するなんて、なんていじらしいんだ……そしてそんなキミの笑顔はボクにとっては爆弾のようだ……ボクの胸が破裂したようにドキドキ言ってるのがわかるかい?」

 何を言ってるんだ、あの金髪野郎は。
 ロビーの片隅で新聞を読みながら様子を窺っている一見ビジネスマン風の中年男は、サンジとフロントサービスの間に交わされる会話をそっと聞きながら苦虫をかみつぶしたような表情になってしまう。まあ、新聞で顔を隠しているからどんな表情をしようと誰にも見えはしないが。
 ああ、反吐が出そうだぜ。



「なあ、おっちゃん、煙草ってこれしか種類ねぇの?」
「ねぇ」
「うーん、この軽さもたまに吸うには悪くねぇんだが、いかんせん飽きるぜ。俺としてはもちっと味がこう…濃いというか、ニコチンの味があるっていうか…」
「煙草なんざ、百害あって一利なしだ。この島はこの種類しか輸入してねぇ。これでもギリギリなんだぜ。気に入らなきゃ干し草でもいぶして臭いを嗅いでろ」
「おいおい、つれないこと言うなよ。わあった。わあったよ。じゃあこいつを一カートンくれ」
「へいよ。毎度あり……だがよ、あんた、売っておいてこんなこたぁ言うのはおかしいんだが、少し本数減らすとかしたらどうだ。そのうちタールで肺が真っ黒になっちまうぞ」
「へへ。ご心配あんがとよ。くたばっちまってからなら少しは考えてやってもいいな」

 ああ、さっさと煙草の吸いすぎでくたばっちまってくれ。そうすれば俺らがこんなに苦労しててめぇにひっついている必要もなくなるんだが。
 店の片隅で雑誌と新聞を選びながら耳をそばだてている顔色の悪い男は、店主とサンジの会話にひっそりとため息をついた。こっちの気も知らねぇで脳天気に楽しそうにしてやがって。
 ほうっともうひとつ雑誌の陰にため息を落とす。
 我慢だ、我慢。


「……そうそう、丘の上の教会な、アレは観光パンフレットによれば六百年ほど前の建築ってことだけどもよ、なんで無人のまま放っておいてあるんだ?ちゃんと神父、つーの?牧師、つーの?なんでもいいけどよ、そういう人はいねぇの?」
「おめぇ、ちゃんとパンフレット裏まで読んだのか?この島に住む人間は、もともとこの島のモンじゃねぇんだよ。せいぜい三代か四代前くらい前に入植してきたんだ。で、その前からあの教会はアソコに建ってた。どこの誰が建てたか知んねぇが、信仰の場所を破壊するのは偲びないし、罰あたりってもんだろ。かと言って、俺たちの宗教のために使うのもまた、前の住人たちがいい気はしねぇだろうぜ。
ただ、あのステンドグラスは美術品としても一見の価値はあるからな。教会としては使えねぇが、美術鑑賞のためと称して少しばかり維持費を稼いでもらっているのさ。ああ、今はクローズしているから見れねぇか。残念だったな」
「……そうなのか。建物がしっかりしてる割に人気がないから変だなと思ったんだが……なるほど。尖塔の十字架見てちょいと変わった宗派だとは思ったんだが、先住民のモンだとはね。今じゃステンドグラスが財源の一つってのがちょいと泣ける話だな。あんがとよ。また寄らせてもらうぜ」
「──いっくら軽い銘柄っていっても、数吸えば同じなんだぜ!少しはセーブしろ!」

 黒いスーツがくるりと背を向け、片手がひらひらと店のオヤジへ返事を返す。キィ、とドアを開けて通りへ一歩出た瞬間に買ったばかりのカートンをぺりり、と破り真新しいパッケージを取り出した。

 五歩目でパッケージの封を切り、
 八歩目で新しい煙草を銜え、
 十一歩目で火をつけ、
 十五歩目で立ち止まる。

 ふううーーっっと空に向かって煙を吐き出す。

(街の中じゃあ仕掛けてこねぇな、やっぱり)
 煙草を銜えなおしながらちらりと素早く視線を左右に巡らす。おそらく左側に配置しているのだろう。視界には入ってこないが、微かに視線を感じる。このところずっとこの状態なので、特に不快感はないが、逆に自分が過度に反応してしまわないようにする方が気が張って疲れる。

 ───やっぱり。
 途切れかけた思案を元に戻す。
 やっぱりあの教会がうってつけだろう。巻き添えをくう人間は出ない。人目にもつかない。せいぜい謎めかして入り浸っていればしばらくは時間が稼げるし。それに何より───
 うし。決めた。
 同じ歩調で再び歩き出す。が、ほんの少しだけ歩幅が大きくなっていることに気付いた者はいたかどうか───




 

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