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パラキシャル フォーカス(5)




■石の街
石畳の坂道をコツコツと無心に歩く。
この島の街は、坂にへばりつくように石造りの家いえが建ち並び、その合間を石で覆われた細い路地が曲がりくねりながら伸びている。
サンジは、胸ポケットから煙草を取り出し、慣れた動作で火をつけると胸いっぱいにニコチンを吸い、ふううぅーーーーっとタメイキのように細く長く吐きだした。
石の上を歩く感触は好きだ。
いつも歩いているのは板張りの甲板で、ぎしぎし、みしみし云う箇所もすでに長い航海で知り尽くしている。揺れる甲板を歩くのはそれこそ物心つくかつかないかころからやっていることなので、それこそ「陸者(おかもの)」が初めて海に出ておっかなびっくりよたよた歩くようには、逆にやろうと思ってもできないくらいだった。
でもたまには、「まったく揺れない」足もとを、固い石の感触を確かめるように歩いているのも悪くない。
コツコツ、コツコツ。
見上げれば、狭い、空。
いつも空は三百六十度頭上に開けているのがあたりまえだったが、ここでは石造りの家が左右に連なって、その合間から少しだけ切り取られて見えるだけだ。

今朝がた、島の西寄りの入り江にひっそりと船を停泊させ、船長始め皆思い思いに上陸して行った。
コックであるサンジは上陸時はたぶん一番忙しい。
島影が見えるといつも、食料の在庫をすべてチェックし、不足品のリストを作成したり、買い出しプランを練ったりと、常時のルーティンワークにプラスして働かなくてはならない。
別にそれが不満ということは全くないし、上陸もこれが初めてではないのだが、さすがに今日は、昨晩の性交の名残りがまだ腰のあたりにたゆたっているようで、鈍いだるさがいつまでも消えないでいる。
(ち)
昨晩の格納庫でのセックスを思い出して、ふとサンジは眉をひそめた。
(なんだか妙な雰囲気になりやがって)
(なんでまたあのヤローはこんなモン欲しがるんだか)
いつもはほとんど会話も交わさない。お互い好きなように動き、好きなように相手の体をまさぐり、好きなように快感を追い求めるだけだ。
それでいい。それ以上はヤバイ。
何も言わないが。頭の隅で本能がそう告げている。
 
なのに昨晩は。
(あのヤローが変なこと言い出しやがるから)
───心が。
焦った。
ゾロの言葉にヤバイくらいに動揺していたのを、必死で押し隠していたサンジだった。
(あんなに近くからこの目を見られたことはなかった)




 『大事にするんだ─』
 『それがいつかお前を導いてくれる』
 『それまで誰にも─』


 『────────ちゃいけねぇ』



おぼろげな遠い記憶。言葉の意味は未だに判らないが。
ただ繰り返し繰り返し囁かれた言葉は、頭の隅にけして消えないさざ波となり、時折ふとしたひょうしにサンジの耳の奥にその音を響かせるのだった。
今もまた、石だたみに反響する自分の足音に重なって、その「誰か」の声が微かに頭の中に聞こえたような気が、した。

ツキ、と。
視力のない左目の奥が、少しだけ熱をもった感触。
思わず、煙草を指にはさんだままの手をまぶたの上からぎゅっと、押しつけてしまう。
いつなくしたか、覚えてねェんだ。
生まれつき、てヤツじゃねェの。
そう言った自分の声がなくした目の奥に響いた気がして。
は、と口が妙な形に歪む。

煙草の火がじりじりと伝い、少しづつ指へ近づいてゆくにつれ、徐々にサンジは緊張を解いた。
そういえば、とサンジの思考がまたふらふらと別の方向へただよっていく。
(確か、こんな地面だったような気がする)
サンジが生まれた故郷は、ノースブルーの暗い海の、街全体が灰色にけぶるようなそんな島だった。
(あまりはっきりとは覚えちゃいないが)
いつもどんよりとした空は重くたれ込めて、時折タメイキのようにちろちろと雪が舞う、そんな冬を思い出す。そしてその街はこの街と同じような石だたみで覆われていたように感じた。
(いつも腹ァ空かせていたっけ。寒ィのにケツっぺたを地面につけて座ってるからますます凍えンだよなぁ)
寒くて、お腹が空いていたから。ふらふらと匂いに惹かれて客船の厨房にもぐりこみ、出航した後で密航が見つかり、帰るすべも、帰るあてもなかったのでそのままその船の雑用となった。
暖かく、いつもよい匂いのたちこめる厨房が好きで、手の空いているときはいつもその隅で膝をかかえてコック達が作業をするのを眺めているのが好きだった。
少しづつ、少しづつ。ただの雑用から厨房の下働きになり、コックを志願するようになったころには、サンジの一つ残った生身の目は生き生きと未来を望み、まだ弱々しくても光を宿すようになった。
そしていつだったか。
コック仲間から聞いた単語。
オールブルー。
不思議なことに、その言葉はするっとサンジに溶け込み、胸の奥でぼわっと火がついたようにそこを熱くさせた。
(なんだろう)
(初めて聞く言葉のはずなのに)
(なぜこんなに胸が騒ぐ)
トクトクトクトク。心臓の鼓動が早い。肌がちりちりする。
訳などわからずに、でもサンジはその単語をしっかりと「そこ」にしまい込んだ。以来おき火のようにずっとそこでサンジを暖めている。
いつか行くんだ。そこへ。オールブルーへ。
どんなに他のコック仲間に笑われようと、人生の目的が出来た今、サンジは生まれて初めて幸福を感じていた。ただ生きているのではなく、生きよう、と思った。


(そしてジジィに会ったんだよな)
客船を襲った海賊団。せっかくまともに食べられるようになり、まともに毎日を過ごすことができ、まともに未来に夢を見られるようになったというのに。
オレの夢を奪われてたまるかよ、と無我夢中でむしゃぶりついた。必死だった。何も持たず、幸せな記憶など何一つなかったからっぽの自分が、ただひとつだけ胸の中で暖めていたものを奪われてたまるもんか、と思った。
だけれどもその夢が。
大海賊団の頭領ともあろう男と同じものであったとは。
不思議な縁、と言えば言えるのかもしれない。サンジが口にした「オールブルー」という単語が奇しくもサンジの生命を救ったことになった。
サンジはその頭領、ゼフに助けられ、そして彼らは生き延びた。少なからぬ傷を心にも身体にも残して。

そしてサンジは「オールブルー」を封印した。
いつかは目指す、といいながら、そのいつかはけして来ないだろうと思っていた。
ひとり、生き延びたこと。コック仲間も客船の乗組員も綺麗に着飾った客たちも、そしてゼフの海賊船の仲間も、みんな死んだ───。
ゼフも生き延びたが代わりに脚を失った。もう二度と海賊としては生きられない。
なぜ自分だけが生き残ったのだろうか。北の街では誰からも顧みられなかったちっぽけな自分なのに。ジジィはオレの言った「オールブルー」という言葉のために脚を落とした。
・・・・・自分だけが夢を叶えるなんてことは許されない。死んだ人間たちだってみんなそれぞれの暮らしを家族を夢を抱えていたのに。
せめてゼフの夢の一端なりと、と助かってから開いたレストランでひたすら働いた。オールブルーはいい。いつまでもオレの胸の中でだけ輝いていれば。

そんなサンジに再々度人生の転機が訪れた。
羊頭のマヌケづらな船と共に。
一瞬で──サンジが固く守ってきたそれまでの暮らしから引き剥がされて、羊頭の船の一員となっていた。

(はは)
(ジンセイってヤツァ面白ェなァ)
(つうか、運命の女神、ってヤツなのかね?いやアイツラは女神の親戚ってツラしてねぇし)
実際は神とか運命とかいうものは全く信じていないサンジだったが。

コツコツコツコツコツコツ。
無心に歩く。

縁、てヤツは信じてもいいかも知れネェ。
実はそれくらいには人のつながりはあるのかもしれない。もしくはモノのつながりとか。
しかし、まあ。
まだ二十年も生きてきていないなかで、身に染みて知ったことは、出会いと別れはワンセットということで。
出会えば人とは、必ず別れるものだ。
どんなに気のあった仲間でも、いつかは別れるときが来る。それは死であったり、旅立ちであったり、単なるすれ違いだったりとその形は様々だろうけれども。



 

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