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クロース・トゥ・ジ・エッジ(15)




「まいったな……」
 ゾロは地下の湿った地面の上に直接座ってそうつぶやいた。四方は石の壁。切り出したままのごつごつとした感触を背中にして手を頭の後ろで組み、なるたけ楽な姿勢をとっているが、ひんやりと湿った空気はやはり居心地がいいとは言えない。
 問題は山積みだ。昨晩追っ手に囲まれた時点で、そのままあたりかまわず斬り結んで退路を開くことは可能だったが───。
「まあ、今さらしょうがねぇ」
 ゾロはとりあえず今できることはないと判断して、そのままの姿勢で目を閉じた。昨晩はアイツの夕食を食べ損ねたなとふと思ったがそれも全て「しょうがねぇ」ことに入れて、いつもの──船の上でもどこでもこれは一緒だ──睡眠の中へとすとんと落ち着くことにした。



「おい、眠っちまってるぜ」
「ほんとかよ、大した神経してるな」
 ゾロが捕らわれている地下牢の、その扉についている小さな覗き窓から中を窺って二人の男達が小声を交わしていた。正確には、この牢は完全な地下ではなく、扉の反対側にはまたこれも鉄の格子がはまった明かり取りの小窓があり、それは外の地面より十センチ程度高いくらいの位置に固定されていた。
 つまりこの牢は、地中に9割ほどは埋まっているものの、天井からの残り一割程度の部分は地面よりも上にある。そうは言っても唯一の外界との接点である小窓は、手が届かないほど高い位置にある上に、人間の顔程度の大きさしかない。万が一、台か何かで手が届いたとしても、開口部が小さすぎてそこから脱出などは到底不可能だった。
「ふてぶてしいツラしてやがる。やっぱり荒ごとに慣れてるって感じだよな」
「もうひとり、早く捕まるといいな。俺、昨晩こいつら見たけどよ、あっちのやつはそんな強そうには見えなかった。多分逃げるのは得意なのかもな。まあ、それにしても時間の問題だと思うぜ」
「そうだな。とにかく早く終わって欲しいよ。平和な島なのに」
「まったくだ」
 見張りの男達の声は、既に深く寝入っているゾロの耳には届かず、代わりに冷たい石壁だけが音を吸い込む。男達が去った後は静寂が訪れ、それをふとかき消したのは時計塔の鐘の音だけだった。
 石壁は同様に音を吸い込んで飽くことなくそれも静寂に変えた。
 
 



 同時刻。
 またしても狭い食料庫でサンジとノービイは立ったまま向かい合っていた。
 手にしているのは、一枚の紙きれ。
 先ほど出て行きしなに、男がノービイに手渡したものだった。
『そんなに大きな島ではないので、すぐに捕まえられると思うのですが、万が一ということもありますのでね、領主代行様はこういうおふれを出したのですよ。これならどこにも隠れようがなくて、すぐに捕らえられることでしょう』
 その紙にはこう書いてあった。

『時計守アテナイ殺害の容疑者のうち一人は既に捕らえた。もう一人を速やかに捕らえるべく島民はなべて協力をすべきこととする。怪しい人影を見かけたらただちに通報せよ。
 ただし、逃亡中の自称土壌研究家、サンジが自ら出頭してきた場合は、改心の意志ありとみなして裁判の際に多少の斟酌を与えることを約す。しかし、このまま逃亡を続ける場合、見せしめの意味も込めて捕らえている助手については、二日後の正午に処刑するものとする』

 ノービイは男達が小道の向こうに消えてゆくのをじっと見つめ、すぐに食料庫へとって返して縄梯子から降りてきたサンジに押しつけるようにこの紙を渡した。
 ノービイの顔はロウのように真っ白だった。
 サンジは読み終わると黙ってくしゃりと紙を握りしめた。
「………」
「大丈夫。ノービイちゃんが心配するこっちゃねぇ。もし何かあっても、ノービイちゃんには迷惑がかからねぇようにするから」
「ちがっっ! サンジさんったら何言ってるの! サンジさん達の身が危ないのよ? あの代行の脅し、読んだでしょ? ゾロさんを処刑するだなんて、そんなこと言ってサンジさんを釣ろうって!」
「ああ、わかってる」
 サンジは自分の手の中の紙をみつめ、繰り返した。
「わかってるさ」

 キッチンには昼前の穏やかな日差しが差し込んでいる。空気も暖かで、こんな日は外の農作業が気持ちよくはかどるだろう。開け放った窓からは、窓下に咲くハリエニシダの茂み目がけてぶんぶんとやってくるハチの羽音が聞こえてきて、のどかを絵に描いたようだ。遠くで山羊が仲間同士で呼び交わす鳴き声が聞こえた。と、すべての自然の音をかき消して、時計塔の鐘の音があたり一帯を支配する。

 ────ォォォォォォォォンンンン───

 長く余韻を響かせてきっちり時刻分鳴り終えたあとは、耳がまた通常の音を拾えるようになるまで空気中にまでその金くさいニオイが漂っているようだ。
(長く暮らして慣れてしまえば、毎正時のこの音も気にならなくなるんだろうけどよ)
 突然苛ついてサンジは胸ポケットの煙草をさぐった。そそくさと銜えて火をつける。本当は煙草の臭いをここに籠もらせてはいけないことはわかっていたが、どうしても身体が、というより心が欲しがった。
(マリモの処刑まであと───きっちり二日か)
 四十八時間と言い換えてもいいがどう言っても短くも長くもならない。
 何がなんでもゾロを処刑させるわけにはいかないが、ふたりで逃げても狭い島から逃げる算段はないのだ。迎えが来るまでは。それに。
(アティさんを救って、俺らの濡れ衣を晴らさねぇと)
 二人が逃げるだけならなんとでもなる。追っ手全てと戦って戦い抜いて、塹壕を掘って立て籠もって迎えが来るまで保てばいい。しかしあの領主代行の部下が全員そのまま彼に同調しているわけでもあるまい。追っ手と言っても村の自警団の純朴な人々だったりするのだ。実際のところ海兵でもないそんな人々と真剣に闘りあうのも気がひけるし、何より自分たちに掛けられた嫌疑をそのままにしておくのは非常に癪だし、それこそ逃げたような気がしてプライドに障る。

 じりじりと煙草の火が指の間で燃え進み、長くなった灰がとうとうぽとりと落ちた、が、じっと見ていたノービイがさっと灰皿を出して床にまき散らすことなく受け止める。
 サンジの蒼い隻眼がゆっくりと伏せられて、再び開いたときにはノービイの目を真っ直ぐ覗き込んでいた。
「まずは最初っからやっつけていくしかねぇ。あの代行の真意を知るところからだ。ノービイちゃん、一番最初のところから全部話してくれないか。あの代行がこの島にやってきたところから」
 ノービイは真剣な面持ちでこっくりと頷いた。





「あれは三年前だったわ。初めてあの代行が島にやってきたのは。珍しく穏やかな日が続いて、いつも狭い範囲でしかできない漁業でも、たくさんの魚が獲れた。そしてちょうど渦が消えて親島との航路が開く日、『海』に『漣(さざなみ)』と書いて『海漣日(かいれんじつ)』っていうんだけど、みんな張り切っていつもは渦で阻まれている向こうがわまで広い領域へと漁に出たの。そんな日だった、彼がやってきたのは。
 なぜ憶えているかというと、そんな穏やかな日だったのに、まだ日が高いうちに一転して大嵐になったの。どんどん空が黒い雲で覆われていってね、時々稲妻が光ってとても怖かった。
 当時は野菜の仲買人だった彼は、領主館に客人として泊ったわ。だってしょうがないもの。あんな嵐では誰ひとりとして船を出そうなんて考える人はいやしなかったでしょう。
 遠くまで漁に出ていた人たち、還ってこなかった人が何人もいたわ。あまりにも急な天候の変化に、もともと沿岸で細々と魚を獲っていた程度の船ではとても耐えられなかった。
 嵐が去って、大勢の人が哀しみにうなだれていた。畑や家畜も大なり小なり打撃を受けていて、それらを修復したり手当をしたりしなきゃならなかったけれど、漁に出ていった人たちの万一の帰還を期待して皆海ばかり見ていたわ。
 こんな小さな島では誰もが知り合いで、見知った顔がごっそりいなくなったことで村全体が沈みきっていたわ。
 そんな中、島に留め置かれた形となった今の代行が、せっかくだからと手を貸してくれるようになったの。どうせ暇なんだし、と家の修繕やら家畜の世話やら、崩壊した畑の水路をつるはしをふるって治している姿も見たわ。
 次第にみんなの中に溶け込むようになって。ちょうど哀しみから立ち直ろうとしていたところで彼の無償の援助は素直に受け止められたの。そして村の大勢と顔なじみになったところで、それから頻繁に、というより一ヶ月に一日の海漣日(かいれんじつ)は必ず来るようになった。季節のいい時期はそのまま一ヶ月間領主様のところに逗留したりね。
 領主様とはとてもソリが合ったみたい。よく道を並んで散歩しているところを見かけたわ。そんなときふたりともとても楽しそうに笑ってた。島にいるときは、ほとんど領主様とご一緒だったんじゃないかしら。もちろん、仲買の仕事をしてるときなんかは別だけど」
「でも、半年前、領主様はいきなり病気になったんだよね?」
「ええ、そうよ。ある日いきなり領主様がご病気だ、って彼が駆け込んできて、お医者様をせっついて連れて行ってしまったの。そこにいた人たちは皆心配しちゃって。でもご病気って私たちには何も出来ることがないでしょう。お医者様はもう領主様の元へ行っているんだし、ただ回復を祈ることくらいしかすることはないの」
「待って。『彼が』って言ったよね。つまり今の代行、ディノンが『領主が病気だ』って言ったわけ?」
 こくり、と小さな頭が頷く。
「せいぜい、滋養のあるものを召し上がっていただこう、と村のみんなは自分の畑でとれた一番いいものを領主館に届けるくらいしかできなくて。でも領主様の容体が思わしくないって言われて、お見舞いには誰一人行けなかったわ」
「じゃあ、誰も領主の姿は見てないの? 今までずっと?」
「ううん。一度ね、村の代表者がこのままでは心配でいられない、って言って細心の注意を払うことを条件に領主様の病室を訪ねたことがあるわ。三名。粉屋のクラウディさんと、果樹園持ってるライナスさんと、あとうちのかあさんとで。だから私は直接かあさんからその時の様子を聞いたの」
「それは正確にいつのこと?」
「うーんと、確か領主様が病気、って聞いてからおよそひと月後ね」
「その時の様子をできるだけ詳しく」
 しばらくノービイは目を閉じて、アティから聞いたというその話しを細部まで思い出そうとした。
 ややあって。
「領主様は、とてもやつれていて、ベッドの上から起きあがることができないくらいだったって。点滴の管が伸びていて、腕に固定されていたそうよ。母さんたちがそうっと病室に入ったときは静かに眠っているようだったので、しばらく寝顔を見ていたけど、そのうち静かに目を開けて、母さんたちを見たんだけど、かあさん達のことがわからない様だったんだって。でも何か思い出そうとする様にじっと見ていてそのうちにがたがた震え出して頭を抱えて唸りだしたそうよ。その様子がとても苦しそうでとてもお話をできる状態には見えなかったので驚いていると、すぐに隣室からお医者様が来て鎮静剤を注射したのですって」
「結局、会ったけど、話しはできなかったんだ……」
「そう。でも領主様がご病気だってことは本当だった。それもかなり悪い状態だって、見舞いに行った人たちの言葉で皆納得したの。できれば信じたくなかったけどね」
「それからどうしたの?」
「それからって……どうにもしようがないわ。お医者様は常に領主様に付き添っていて、病状は一進一退を繰り返すだけ。たまーに領主代行が病状を公表してくれるけどいつも同じ。弱り切っていてほとんどベッドに寝たきり状態で、一日中うつらうつら浅い睡眠を繰り返しているだけみたい」
「そんな状態でよく領主代行を指名できたね?」
「それは…最初に文書でそう書いてあったって、かあさんが。領主様がご病気で倒れられてすぐに領主様がお医者様に手渡されたそうよ」
「倒れたっていう急な状態だったろうに、よくそんなことができたもんだねぇ。誰も不審に思わなかったの?」
「そういえばそうよね。あらかじめ用意しておくなんて、遺書みたい。でも死んでいるわけではないし、望んで病気になったわけでもないでしょうから、遺書とは言えないけど」
「その文書、今は誰が持ってるの?」
「領主代行が。でもその文書を発表するときは大勢の人がちゃんとその文面を見て、書かれてあることや領主様のサインとか確認したから、領主様の意志は間違いないのよ。代行、ディノンだって島の人間ではなかったけれど、皆あっさりとその代行指名を受け入れたわ」
 ふうむ。
 サンジは顎に手をあてて深く考え込んだ。
 確かにちょいと出来過ぎているような気がしなくもない。だが領主の病気も、領主代行指名も本物だというのなら、島民が現状を受け入れるしかなかったのは理解できる。
「そしてその後、ディノンは代行業を真面目にこなしていた? 何もヘマはしてない?」
「真面目だったわ。今でも真面目よ。仕事については誰も文句のつけようがないくらい勤勉。それからは領主館に住んで、以前は一ヶ月に一日島にやって来ていたのが逆に一ヶ月に一日島を出ていくようになったのが、唯一の違いね。最近ではそれもしていないみたい。まあ彼も外での暮らしがあったでしょうに、この島の方を優先しているわけだし、黙っているけどちゃんと島のみんなは感謝してるのよ? だってこんな小さな島、いくら領主代行って言ったってそんなに地位とか名誉とかあるわけでないし……」
「収入は? 地位や名誉よりもそっちの方を優先する人間は大勢いるよ」
 その問いにはノービイは肩をすくめただけで返事とした。
「んん?」
 サンジが優しく促すと、しょうがないわねといった風に口を開いて補足する。
「私なんかが知るわけないでしょ…と言いたいところだけど、これだけは言えるわ。ねえ想像して? この閉鎖した島がどうやって暮らしているか。出来る限り自給自足で、月イチだけ外の世界それもほんの少しの仲買人と取引をしているだけなのよ? 島全体がけして裕福とはいえないのは簡単にわかるでしょう。領主といえども贅沢な暮らしなんてできないのは自明の理よ。領主業はけして実入りのいい職業とは言えないわ」
 領主業ときたか……
 サンジはノービイの子供とは思えない観察眼の鋭さとそこから導き出される理論の明快さに内心舌を巻いた。さすがに時計守を目指しているだけある。もともと頭のよいところへもって、日々アティの指導を受けて冷静に物事を見て思考する訓練を重ねているのだろう。
「それでは、ディノン代行は全くの良心と親切心から、いきなり降って湧いた特に実入りのいいわけでもない領主業を、こんな辺鄙な──っとゴメン、「のどかな」島でやっているわけなんだ」
 とサンジは締めくくった。
(でも)
 声に出さずに内心だけで続ける。
(それって絶対オカシイぜ)


 

  

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