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クロース・トゥ・ジ・エッジ(18)




「わたくしをどうなさるおつもりです」
 まだ鐘の音の余韻が厚い窓ガラスを伝ってかすかに部屋の空気を震わせていた。
 いつもは栗色の髪をふんわり結っているが、数本後れ毛がぱらりと散っていて、それが明らかに寝不足とわかる顔をさらにやつれて見せている。
「麗しのマイ・レイディ、アテナイ」
 部屋に入ってきたディノンはゆったりとした仕草で腰を折る。
「そのように怖いお顔をなさらないで下さい。何も貴女に危害を加える気持ちなど、髪の毛一筋ほどもありませんから」
「ならなぜ、こんなところに閉じこめて、家へ帰してはくださらないのです? 可哀想に、娘はさぞかし心細い気持でいるでしょうに……」
「お嬢さんはお年の割に聡明で気丈な方だ。数日の間一人でいても、大丈夫元気でいらっしゃいますよ。部下も定期的に巡回しておりますしね。もう少しして、この騒動が収まったらきっとお嬢さんのご無事な顔を見ることができますから」
「いえ、今すぐ私をここから解放しなさい。もう茶番は結構。私を娘から引き離し、他の全てから隔離して一体何を始めているのです。どう考えたってあなたの企みがよからぬことだということはわかりますわ…。この間、時計塔の外の回廊で会っていた男はあなたの何なのです?」
 その質問にはやんわりとした笑みを浮かべただけで、ディノンは部屋に入ってきたときに一緒に押してきたワゴンの上からティーポットを手にとって、カップに中味を注いだ。薄くて白いボーンチャイナの明らかに高価なものとわかるティーセットは、繊細な曲線を描き、部屋に注ぐ朝の光の中できらきらと美しい輝きを放っている。
「どうぞ。多分蒸らしすぎてはいないはずです」
 ディノンはふたつのティーカップに注ぎ入れたあと、傍にあったテーブルの上にポットと共にきちんと並べた。さらにワゴンから蓋で覆われた皿を取り出し、蓋をとりながらテーブルへと移し替えた。
「ささ、こちらへお座りになって、ご一緒に朝食でもいかがですかな? 簡単なものしかありませんが」
 そう言ってテーブルの上に並べたものは、ポーチドエッグとベーコン、グリーンサラダ、テーブルロールにバターとジャム、ヨーグルトなどといったシンプルながらきちんとととのえられた食事だった。
 返事を待たずに、ディノンは自分も椅子を引いて席に着くと、まだ立ったままこちらを凝視しているアティにむかって手を広げて座るよう促した。
 見ると、すべての皿は二人前づつ並べられている。
 アティがこの部屋へ連れられて来て以来、気が付けばそっと食事の載ったワゴンがドアの内側に入り込んでいて、人の出入りがあるのならどうして自分が気付かないのか不思議だった。おそらくアティが寝ているときや、隣接しているバスルームを使用しているときを見計らっているのだろうが、そのように毎回律儀に届けられる食事をアティはほとんど手をつけずに放置していた。
 しかし今日はディノンが自分でこのワゴンを運んできていたのだった。二人分? もちろん彼の分も。
「だめですよ、食事はきちんと摂らなければ。倒れてしまいます」
 にこやかに、しかしきっぱりとした口調でアティに促す。気分は乗らなかったがしぶしぶとディノンの向かい側に座り、大ぶりのスープカップを手にとって一口啜った。
 アティがようやく食べ物を口に運び始めたのを見届けて、ディノンは勢いづいて旺盛に食べ始めた。テーブルロールにバターを塗って、ポーチドエッグに塩をぱらりと振りかけて、しかしがつがつとではなくあくまで上品に。
 食べながら、天候の話や作物の出来など、あたりさわりのない会話をふってくる。しかしアティは上の空で、ときどき相づちらしきものをうつのだが、ほとんど身に付いた礼儀としての反射行動のようだった。ただ、ディノンが食べる動作に少し引きずられたのか、アティもゆっくりではあるが、皿の上の物に少しずつ手をつけていた。
 長い時間をかけて朝食を済ませると、ディノンは空いた皿を再びワゴンに戻し、もう一度ティーカップにティーを注いで自分とアティ、二人にサーブした。ポットにはティーコージィを被せておいたので、熱くはないがまだ充分温かい。
 カップの湯気越しにじっと見つめる眼差しに、アティは「何か?」と尋ねた。もともとディノンが自分を拉致監禁とまではいかなくても、一室へ閉じこめて自由を奪っていることは充分以上に不安だし、何かわからない不気味さを感じていた。暴行はおろか、ほんの少しでも身体へ触れてこられたことはないので、それが具体的な恐怖とまでは育っていなかったが、とにかくディノンの今見つめてくる目はアティの居心地を悪くさせた。
「いえ……、ようやく貴女とこうして二人きりの時間が持てたことを感謝してるのですよ。誰かの妻でもなく、母親でもない貴女……」
 アティはあからさまに眉をひそめた。
「何を」
「そうですとも。始めてお会いしたときは貴女はすでに隣に立つ人と手を繋ぐ子供が居た。そんな邪魔なものはすべて排除して、貴女ひとりだけを見ていたかった…。ずっとずっと思っていたのです、いつかそんな日を作ろうと。時間はかかりましたが、なんとか実現しました」
 思わず目を瞠る。
 一体この男は何を。
 何を言い出すのだろう。
「は…いじょ、って…」
 ようやく絞り出した声は自分が発したものだったのか?
「嘘、うそよ、夫はどこかでまだ生きて、」
「生きている、とお思いですか? もう行方不明になって二年も経つと言うのに。あの時あれだけ探したでしょう? あんなに探しても見つからなかった。航路は開いていない。なら、海に落ちたと考えるのが自然じゃあないですか」
「──あなたが、やったのね?」
 それは確信だった。二年前、取り乱したアティの必死の探索に、黙って寄り添っていた彼は、ただ同情と心配からついていてくれたのだと思っていたが。
「私は、何もしていませんよ」
 ティーカップを軽くあげ、ディノンはいかにも心外、といった風な口ぶりで言った。
「ただ、貴女を見つめるのに彼の存在は邪魔だなあと思ってはいましたが。運良く彼がどこかへ消えてくれました。貴女は消えてしまった彼をいつまでも探していたので、そのうちに貴女自身がどこかへ消えてしまうのじゃないかと、とてもひやひやしましたよ。海の傍へ行けば足を踏み外すのではないか、家にいれば思い詰めてナイフを首にあてるのではないか、とね。まあそんなことにはならずにすんで、本当によかった。お嬢さんを残して消えるわけにはいきませんですしね」
 アティは背中を何か例えようもないものが這い上がってくる気味の悪さを感じた。
「なら、もし娘を消したなら、私を引き留めるものがなくて、今度こそ本当に死んでしまうかもしれないわよ?」
 ノービイだけはなんとしても守らねば。この男に『排除』させてはならない。
 ディノンは楽しそうにくつくつと笑う。
「いいええ? お嬢さんを消すなんてとんでもない。お嬢さんは大事に大事に見守って差し上げますよ。お健やかに育って、そのうちに立派に時計守としてこの島を支えてくれるでしょう。ただし、」
 口元に笑みを張り付かせたまま、ディノンはアティを正面から見た。
「残念ながらお母様と会わせてあげることはできませんが」
「何故っ…!」
 思わず立ち上がって身を乗り出す。ティーセットがガチャンと音をたてた。
「……磁器はデリケートなんですから取扱いにはご注意いただきたいんですが……だってそうでしょう。既に貴女は亡くなっていることになっているんですから。死人にはもう会うことはできないでしょう?」
 アティは立ち上がったままその場に凍り付いた。
「わたくしが、死んでいる……?」
「ええ、そうですとも。あの得体の知れない二人の余所者に襲われてね。全く不埒な輩(やから)です。貴女が親切にも一夜の宿を貸したばかりに、その親切に味を占めて客が強盗に成り変わったというわけですよ。ひとりは捕らえてあり、もうひとりもじきに捕まることでしょう。何しろ狭い島、隠れきれるものではありません。航路が開くのはあと──二十五日後でしたっけ? それまでの間ずっと隠れ住むのは不可能ですし、明日になれば──っとと、これは貴女には関係ないことでした」
 関係ない、と言われてもこのように言葉を切られては尋ねないわけにはいかなくなる。アティは当然のようにその疑問を口にした。
「貴女には関係ないと申しましたでしょうに──まあ、お知りになりたいなら──明日には捕らえてあるひとりを処刑する予定なのです。隠れているもうひとりには、それまでに出頭すれば情状酌量するというおふれを島中にばらまいてありますのでね、まあのこのこ出てくるでしょうよ。あまり頭の良さそうな人間には見えなかったですし。学者というのも何かの間違いでしょう」
 ──サンジさん。
 アティは声を出さないままあえいだ。
 すると捕まっているひとりというのは、ゾロさん──。
 口調も態度も物腰もすべて優しく丁寧で、ひとつひとつの仕草に細やかな配慮が見える男と、無愛想な顔をしながら、しかしずばりと懐を突くような言葉を発する男。確かに学者と助手という雰囲気はあまりしなかったけれど、彼らと話しをするのは楽しかったし、不思議と安心できた。
 正確な観察と計算に基づく時計守という職責を長く勤めているにもかかわらず、アティは直感だけで彼らを家に招き入れたのだった。逆にその直感がアラートを出していた目の前の人物は、今や確実に彼女にとって脅威となって立ち塞がっている。

 逃げなければ、ここから。
 そうして私は死んではいないと。無実の罪であの人たちが殺されてしまう前に、とにかく生きて無事な姿を皆の前に現わさなくては。
 声もなくディノンを睨み付け、そしてすぐさま部屋の中にあちこち視線をさまよわせる。どこか逃げ出す隙間でもないものなのか──そういった思いがあからさまにアティの全身から溢れていた。
「まあ、貴女の気持ちもわからないではありませんが、このままこの部屋で暫く過ごしていただきます。少なくとも次の海漣日(かいれんじつ)までは」
 え? という風にアティがまた視線を戻す。
「そりゃあ、永遠にこの部屋の中に閉じこめておくのもいいですが、そういうわけにもいかないでしょう。何かのはずみで部屋から出て行かれては、同じ島の中なんですから、人の目に触れないとも限らない。貴女にはそうっと島の外へ出ていただきます。しばらくは私が月イチで通うことになると思いますが、まあ、そのうちに別の代行をたててこの島から出てゆきますので、そうなったらふたりだけでいくらでも過ごせるようになります」
 ぶるり、とアティは全身を震わせた。この男は気味が悪い。今になって解った。この男の目がなぜ彼女を不安にさせたのか。理性では判断できなかったが、直感が反応していたのだ。

 どうしよう。どうしたら。
 ノービイが心配だ。ゾロが捕まり、サンジの行方が知れないということは、ノービイはひとりで居るということだ。母親がいきなり不在となり、殺されたと聞かされてどんなに心細い気持でいることか。そして『ノービイは大事に見守る』と言ったディノン──。常に見張りをつけているということか。しかし自分が生きて、無事でいることをなんとかして知らせることができれば──少なくとも希望ができる。また会うための努力もできる。ああ、なんとかして外へ──。
「外へ出たいでしょうけれども、それは出来ません」
 アティの心の内が聞こえたようにディノンが返事をする。
「窓ガラスは割れないようにワイヤ入りの特注品です。椅子など投げつけようとなさっても貴女が怪我をする羽目になりかねませんからお伝えしておきますが。ドアも、気が付かなかったようですが、小さな控えの間が廊下との間にありまして、食事など出入りが必要な場合は必ず廊下側かこちらの部屋側のどちらかの鍵がかかった状態で出入りしています。私としては貴女に無理で無駄な労力をして欲しくない。どうかこのままこの部屋でおくつろぎいただきたい」
 それでは、とディノンは優雅にティーカップをソーサーに戻してゆっくりと立ち上がった。思わずアティはあとじさったが、ディノンはアティに微笑みかけただけでティーセットをワゴンに片づけて、ワゴンを押しながらドアの外へと去った。
 去り際、そのままの姿勢でディノンを見続けているアティを振り返ると、最後にもう一度ディノンは口を開いた。
「また来ます。貴女は今は混乱して私をとうてい受け入れてくださらないでしょうけれど、私はもう何年も待ってきた。この先だって何年だって待てます。貴女を手に入れるためならば、時間という枷(かせ)は私にとって何ほどのものでもない。むしろ、ゆっくり時間をかけて貴女の気持を私へと向かわせることができるのがこの先の楽しみでもあります。いつか、ね───」
 ぱたん、とドアが閉じてがちゃりと鍵がかかる音がした。アティはホゥと詰めていた息を吐いてその場にへたへたとくずおれた。


 

  

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