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クロース・トゥ・ジ・エッジ(19)




 屋根裏部屋の狭い空間で、サンジは毛布にくるまったまま屋根の裏側を見つめていた。夜が明ける寸前にノービイの家に戻り、ノービイがまだ寝ているのを確かめると、目が覚めたら一番に見えるようにと枕元に借りていたベレー帽を置いてそのままここへ上った。
 考えなくてはならないことが多すぎて、眠りがなかなか訪れない。
 あと一日。明日の正午にはゾロの処刑が実行される。タイムリミットはそれまでだ。そして昼間明るいうちはサンジは動けない。つまりあと一回の夜だけがサンジが自分で動き回れる行動時間というわけだ。
 今までだって危機的状況というものはありあまるほど体験している。そのたびにギリギリの処でそれこそ命を懸けて乗り切ってきたのだ。それらの経験があってもやはり毎回異なる事象は起こりうるわけで、今回のこれはまた初めてのケースといえよう。
(まあ、クソマリモは今頃平気でいびきをかいてるだろうがよ)
 絶対間違いない。サンジは確信を持ってそう思う。そしてその光景を想像するとフと肩の力が抜けた。
 今は身体を休めておくか。
 軽く目を瞑ると、じきに規則正しい寝息が毛布の中から聞こえてきた。
 ゾロの処刑まであと三十時間余り。

「で、何か収穫はあったの?」
 心配そうにそっと顔を寄せてノービイがサンジに問いかけた。
 二人はキッチンの狭いテーブルで向かい合って遅い朝食をとっていた。夜のうちに散々吹き荒れた風は明け方には止んでしまい、また明るい日差しがのどかな風景をかたどっている。
 サンジは大ぶりのマグカップを両手で包むように持ち、ひとつ大きなあくびをした。
「ふわあ……うーん、あるっていえばあったかな。だけどまだそれが何の意味を持つのかが解らない。このパズルの絵はとても複雑で、ピースを全部集めるのも限られた時間では難しいし、だから全体像がどういうものかまだ見えてこない」
 ノービイはそれを聞いて複雑な表情をした。
「…なんだかサンジさん、あんまり危機感が感じられないんだけど……」
「ん? 大丈夫、わかってるよ、時間がないことは。だけど焦ってるだけじゃダメだからね。今は今できることをするだけ……だけどどうしても何ともならなかったら、その時はなりふり構わずに動くさ。そのための体力もちゃんと残しておくし」
「………」
「大丈夫、元気な姿のお母さんには、絶対また会えるから」
「でも……」
「ん?」
「サンジさんは、ゾロさんが心配じゃないの? 助手って私が勝手に最初にそう言っちゃったけど、なんかふたりの間ってもっと…こう…ただの学者と助手って感じとは違うって感じがするし」
「やだなあノービイちゃん、どう違うって? 俺とあのマリモ星人はそりゃあずっと一緒に行動してきてるから、他の人から見たら多少は親しげに見えるかもしれないけどさ。それだけだよ?」
「…よくわかんないけど。全然ふたりとも違うくせに、根底では同じように感じるの。上手く言えないけど」
「──?」
 サンジは首をかしげて次の言葉を待つ。しかしそれ以上ノービイの口が開かれることはなかった。彼女は俯いてカップの底をじっと眺めている。
「大丈夫だよ。遺憾ながらあのミドリハゲもね。そうそう簡単に死ぬようなヤツじゃあないし。ただ……」
 言いかけたところへ、ちょうど正午の鐘が鳴ってサンジの声を遮った。島中どこでも聞こえるほどの鐘の音は、言い換えればかなり大きく存在感がある。もっと端的に言えば、うるさい。
 島の人間は会話を遮られることに慣れていて、鳴り終わるのを待ってからおもむろに会話を再び繋げていけるのだが、サンジは生憎寝不足もあって苛々していた。
「ちっ。本当にあの鐘を止めることができればなァ。少しの間だけでもあの時計を止めるとか出来ねぇのかな」
「無理よ。だって『絶対狂わない時計』なんですもん」
 半分苦笑しつつ、それでも声には誇りがにじみ出ている。
「あとちょうど二十四時間か」
 小さく呟いたそれに対する返答はなかった。

 午後はノービイを心配して近所の人がかわるがわるにこの小さい家を訪れた。サンジはその間ずっと屋根裏部屋に居て、短い間に見知ったことを何度も繰り返し思考の枠の中でこねくり回していた。
 時折、天井の羽目板越しにノービイと訪問者の気遣う声とのやりとりが聞こえてくる。ほとんどのものが純粋にノービイの今後を心配するものだったが、たまに時計守の後継者としてのノービイを、そのまだ未熟な力量を憂える声が混じることもあった。
 そんな心ない物言いは返答するノービイの声のトーンを落とし、見えはしないが顔を曇らせてもいるだろうことはサンジにも簡単に想像できた。
 クソ。
 期待されることと、応えられないことへの不安、憔悴。
 実力は時間とともに着実に身につくことは解っているが、現実には自分の年齢や見かけ以上に求められる職責の重さに、ノービイが今や面と向かって気付いただろうことはサンジには痛いほど解った。
 それも自分とは違い、実年齢以上のものを求められるのは、ノービイにとってはいきなり降って湧いてきたものだ。つい一昨日までは、尊敬する師匠であり優しく指導してくれる先輩であり、厳しい視線から守り包んでくれる母親のその優しい腕の中に彼女はまだまどろんでいたのだ。いきなり引きずり出されてもまだ青い果実は期待どおりの甘さを持ってはいやしない。
 大丈夫、お母さんはまだ生きてる。
 サンジは内心でノービイに呼びかける。
 足もとを揺るがすほどの不安感はサンジにも理解できる。けして他人には見せようとしないけれども。先の見えない不安とか絶望とかそういった暗い感情は幼いころからずっとサンジの隣にあったもので、うまく折り合いをつけ、手なずけることができるようになったのはつい最近のことだ。
 サンジはすぐさまノービイのそばに駆け寄って抱きしめ、優しい言葉をかけてやりたいと思ったけれども今はただ屋根裏できりきりと歯を噛みしめるのがせいぜいだった。


『大丈夫、お母さんには、絶対また会えるから』
 サンジの言った言葉にノービイは縋り付く。
 そう信じている。信じてはいるけれど。
 お悔やみとか、いつでも頼ってちょうだいとか、そういう優しい言葉のひとつひとつが、信じる気持を揺らがせて、ノービイを苦しめた。

 午後が、長い──。
 早く一日が過ぎてしまえばいいのに。早く時間が経って自分が大人になれればいいのに。誰にも不安な眼差しで見られないような、そんなしっかりした大人に──。





 夜が更けて、またサンジは出かけた。今晩もノービイは父親の黒いベレー帽をサンジの頭に乗せ、「気をつけて」とだけ言って送り出した。
 言葉は極端に少ないけれども、目はたくさんの感情を映し揺れていた。サンジはぎゅっとノービイを一度だけ抱きしめ、複雑な目の色をじっと覗き込み、
「じゃ、行ってきます」とだけ言って出て行った。

 そして翌朝、サンジは戻ってこなかった。




 ■     午前八時 ─サンジ─

 眩しい光をまともに顔に浴びて、サンジは手を顔の前に掲げて遮った。いけない。ほんの少しだけ仮眠をとるつもりだったのに、もうこんなに陽が高くなっている。今は何時くらいだろう? そう思った瞬間に実にタイミング良く鐘の音が響いた。音は八つ。八時か。
 サンジは前の夜にノービイの家を出てからはそのままもう戻るつもりはなかった。ノービイの家はアティ不在のためそれでなくても近所の人々に気を配られているし、おそらく領主代行の見張りがついているだろう。昼間明るい時間に出入りするところを万が一にも見られたら、ノービイにとってあまりいい事態にはならない。
 ゆっくりと立ち上がって服についた埃を払う。ベレー帽をきゅっとかぶり直して激しい動きをしても落ちないようにした。
 ゾロの処刑まであと四時間。
 それまでに最後の一番重要な「モノ」を掴んでおかなくては。一体この島の何処にそれは在るというのだろうか。とにかくこればかりは明るい光の中でなくては探しようがない。明るい光の中で──つまり逃げる側からすればかなり不利ということだ。タイムリミット前に見つけられるか、それとも追っ手に捕まって一緒に縛り首にあうか。
(ぞっとしねぇなあ)
 サンジは、自分とゾロの身体が隣り合ってぶらぶら揺れる様を思い描いてうげげ、と鼻の頭にシワを寄せ、次にフンと笑った。



 ■     午前九時 ─ゾロ─

「おらよ」
 半地下の牢に、見張りの声が響いた。既に日は高く上がり、牢内にも明るい日差しが明かり取りの窓から斜めに降っている。
 ゾロは地面に敷かれた薄い毛布の上にぺたりと腰を下ろし、壁に寄りかかって未だ瞼を閉じたままだった。
「おい、朝メシだ。いい加減起きやがれ」
 ゾロはそれでも片方の目をちらりと開けただけで面倒くさいとばかりにまたそのままの姿勢で眠り続ける。
「……ち……しようがないヤツだなぁ…てめぇの立場っつーか、身の上っつーか、運命をわかってるのかよ…」
 口の中でブツブツ嘆きながら、この囚人にとって最後の食事になるはずのものを、鉄格子の下のほうに設けられている専用の隙間からそうっとトレイごと差し入れる。
「いらねぇ」
 ふいと背を向けてトレイから目を逸らす。
「食欲がねぇか。まあそれも無理な話じゃねぇが──それでも食っておけよ。ま、気が向いたらだけどな。これはホンのお慰みだ」
 背後に隠していた小ぶりの酒瓶を出し、ちゃぷちゃぷとワザと音を立てて見せてからトレイの上にこれもまた置いた。
 ゾロはそれには興味を持ってちらりと振りかえったものの、小さな声で言った。
「なあ。あとどれくらいだ?」
 ──俺の処刑まで。
(あれだけ無関心を装っていたのは、実は怖さを隠すためだったのか)
 見張りの男はそう結論づけ、初めてこの緑色の髪の余所者を少しだけ哀れに思った。ほんの出来心を起したばかりに、こんな何もない島で誰一人係累にも会えないまま最期の時を迎えるのか。仲間の男は結局名乗り出てこなかった。つまり見捨てられたのだ。
「なあ──」
 呼びかけた声は小さく途切れた。少し逡巡して、
「なあ、何かして欲しいこと、ないか? 食べたいモノとか。大したことはできねぇけど、出来る限りかなえてやってもいい」
 その声にようやくゆっくりと囚人は身体を起した。
「本当か……?」
「だけど、出来ねぇことはあきらめろ」
 慌てて付け足す。
「なら、ひとつだけ──」
 低い声が牢内の空気に溶け込んだ。
「俺は首を斬られるのか……? それとも絞首刑なのか……? もしも斬首ならば、俺の持っていた刀を使って欲しいんだ。白い鞘のヤツだ。あれは俺が自分の野望を懸けたその証だから、あれで俺の命の幕引きをするのならば納得がいくというものだ。そしてできればあとの二本と一緒に葬って欲しい。俺ぁ天涯孤独の身だから、あいつらだけが血をわけた家族みてぇなもんだから……」
 そして声を詰まらせて俯いてしまった。
「そうか」
「おかしいだろ、モノにこだわるなんて」
「いや、そんなことないさ。人とつきあうのが下手なやつは、モノに執着したり擬人化したりするらしいと聞いたことがある。牢内に持ってくることは出来ないが、処刑場までは俺が抱えて持っていってやろう」
「恩に着る」
「だが、首切り役人に『これを使ってくれ』と言って素直に承知するとは限らないぞ」
「わかっている」
 言うとゾロは耳からピアスをはずして男に突きだした。
「これを使え。小さいが、一応純金だ。ひとつは役人に、ふたつはお前がとっておけ」
「いいのか? 誰か形見に渡す人とかいるんじゃねぇのか」
「いるわけねぇ。ずっと仲間と思っていた男にも見捨てられたようだしな──」口の端だけで苦笑いを形づくり、すぐに言葉を繋げる。「─だから墓堀りの駄賃として、お前にやる。その代わり、」
 ぐい、とピアスを握った拳を男にさらに突き出して真剣な目を投げた。「必ず頼む」
「わかった。必ずお前の希望どおりになるよう、取り計らおう」
「すまない」

 男が牢を後にしてその足音が充分遠ざかってから、ゾロは疲れたようなため息をついた。
(やれやれ)
(口を使ってまるめこむのは俺の領分じゃねぇのに。それにしてもとうとう刀フェチ認定とはまいったなァ)
(ま、刀が傍に来るまで、もう少し寝ておくとするか)
 ちょうどいい具合に明かり取りから入り込んだ日ざしがゾロの座っているもとへ伸びてきていた。ゾロはごろりとその場に横になって、ぬくぬくとした陽光を浴びるとすぐさますうすうと気持よさそうな寝息を立て始めた。


 

  

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