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クロース・トゥ・ジ・エッジ(20)




 ■       午前十時 ─タイレル─

(ちぃっ)
 心の中でひとつ舌打ちをして、頬の脇に構えた銃を下ろしセーフティをかけた。
(なんてすばしこいヤツだ)
 これでもう何度目だろうか。森の中、木々の間を縫ってときおりちらりと見える黒い影に向けて、足止めという名目で発砲をしかけ、その度に標的の人間の素早さに引き金を引けずに終わっていた。
 それにしてもヤツはどういった逃走ルートを選んでいるのだろうか。周囲を海に囲まれた島で、常に激しく渦を巻く潮流のために船で逃げることは不可能だ。だからそれが可能になる日までをじっと潜伏しているしかないはずなのに。
 当然ヤツも島中に撒いた代行のチラシは目にしただろう。仲間の処刑までに出頭すれば罪を軽減するといったアレだ。だから今日ぎりぎりまで迷った末に、最後の瞬間に身を晒して命乞いをするのではないかとふんだ。予想は大方あたりだったようだが──
(それにしても)
 重い銃を背負って走り回ったため、額に吹き出た汗をぐいと手の甲で拭う。森の清浄な空気は、普段ならばとても涼しく気持よく感じられたものだったが、今はとにかく汗で身体にまとわりつく服の感触がうとましくて、景色も空気も味わうだけの余裕はない。
 最近は館の中で書類仕事ばかりしていたせいで、いきなり身体を動かすと息切れが酷い。すうはあ、と胸の鼓動を沈めるために、また大きく息を吸って吐いた。これだけ呼吸が乱れていては、たとえ標的が動いていなくても狙ったとおりに当てることはかなり困難であっただろう。
 それにしても。
 ヤツの逃げる経路は理解できない。身を隠すのならもっと森の奥の繁って薄暗いほうへ向かうべきだし、少なくとも日光がさんさんと降りかかる花畑の中なんかには来るべきではないだろう。身を隠すどころかさも見つけてくださいと言わんばかりだ。
「大丈夫ですか?」
 不安げな顔をしてタイレルを覗き込みながら若い男が尋ねた。「顔色が少し青いようですが──」
 標的を追うために数名づつチームを組んで散らしていた。こいつの名前は何と言ったか。実直そうな顔つきのまだようやく青年の域に達したばかりの男は、心配そうにタイレルを見やる。
「ああ、大丈夫だ。心配ない」
 まったく。こんな若造に気を遣われるなんて、癪にさわる。自分の年を考えたくないのにいやでも考えさせられてしまうじゃないか。

 領主代行の執事であるタイレルは、もともと現在病床に伏せっている領主の執事であった。ディノンがこの島へ出入りし始めたころ、最初に領主との間に立って取り次ぎをしたのは彼だった。彼はその昔、時化にあったときに乗っていた船が難破し、この島に奇跡的に打ち上げられたという過去を持つ。生粋の島育ちでもなく、身体を癒した後はそのまま居着いてしまった彼を、何くれとなく面倒を見てそのまま身の回りの世話を任せるようになったのが現領主だった。
 タイレルは当然この島と領主には感謝の気持を持ってはいたが、ただ余りの刺激のなさに時折身体の奥から狂おしい風が吹き出してくるような感覚に襲われていた。このままこの島で朽ちてしまうのか。自分の人生はもうその終わりまで全部が見通せるような平和で退屈な毎日で埋められてしまっているのか。
 そう悶々としていたころ、ディノンと出会ったのである。
 ディノンは自らを平凡な仲買人と装って領主と交流を深めながら、脇に控えていたタイレルの中にどうやってかくすぶっている何かを見つけ出し、少しずつ言葉を交わすうちに慎重に彼の計画の中にとりこんでいったのである。
 こいつは使える、と思ったディノンはタイレルの執事という立ち位置と島への帰属意識の薄いことを確認するとさらに積極的に自分側へと引き込んだ。
 今ではディノンの執事を表向きは務めつつ、その裏でも何くれとなく手を貸し手を回すベストパートナーであった。しかしながらディノンからすればパートナーというよりは部下という意識であったが。

(もうあと少しなのに)
 タイレルは息を整えながら考える。
 どうあっても彼らには時計守殺害の罪を被って絞首台にぶらさがってもらわねば。いや断頭台の露になってもらうのか? どちらだっけか。どうでもいいが、そんなことは。とにかく今目の前のどこかを走って逃げているヤツを捕まえるのだ。多少腕だの足だの損傷していても、この際それは構わない。逃げるときに抵抗してやむなく、というやつだ。
 それが済めば。ディノンの計画が滞りなく進めば、自分もこの島から出て、分け前を資金にしてもう一度海に出よう。まだまだ息を切らしている場合じゃない。もう一度海に出て、仲間を集めてグランドラインを渡ってジョリー・ロジャーを掲げよう。こんな田舎でくすぶっているのはもう飽き飽きした。真面目な執事の皮も脱ぎ捨てて、潮風に肌を晒して思うまま海を渡りたい。
 その時、視界の端をまた黒い人影が横切った。タイレルは銃をぴたりを頬につけ、ようやく整った息を止めて引き金を引いた。
 ぱあん、という渇いた音があたりにこだました。



 ■      午前十時 ─ノービイ─

 もう何十回になるか、ノービイはそっとキッチンの窓から外を眺めた。
 うつらうつらしながらようやく迎えた明け方、ベッドの中でずっと耳をすましているうちに段々と空は白んできて、もう今にもサンジが帰ってくるだろう、もうドアの向こうに立っているかもしれない、などと考えては裏切られているうちに完全に夜が明けてしまった。
 寝不足で赤い目をこすりつつ、暗い気持ちでのそのそと身支度を整え、とりあえず何か暖かいものを飲もうとケトルを火に掛ける。沸騰するのを待つ間、ふと気になって屋根裏への縄ばしごを降ろすと埃をたてないようそうっと昇った。
 屋根裏は羽目板の隙間から日光があふれて、意外なほど明るかった。そしてその床(つまり天井裏)に白い紙切れが落ちているのがすぐに見て取れた。
 ノービイは手をのばしてそれを拾うと、そこに書いてあった文字を読んで赤く充血した目を僅かに見開いた。
 そこには、サンジの筆跡で『今日は戻らないことになると思う。けど心配しないで。おかあさんは必ず助けるからね! マイ・スイート・リトルレディ、未来の時計守さんへ。貴女の一番の崇拝者より愛を込めて』と書かれていた。
 まったく、あの人ったら。こんなときでも笑わせてくれるんだから。
 ほんのりと暖かい気持ちになって、ノービイはゆっくりと自分ひとりだけの朝食を摂ると、数行だけの置き手紙を何度も読み、大事に畳んでからポケットにしまった。
 それにしても、彼はどこに行ったのだろう。明るい内はこの家には近づかないつもりなのかもしれないが、でも、何処へ?
 彼もまた追われる身だ。簡単に見つかるようなヘマはしないだろうが、今日はあと数時間で彼の仲間が処刑されてしまうから、それを阻止するため奔走しているはず。となると仲間が捕らえられている箇所か、もしくは処刑が実行される場所を狙って身を潜めているのだろうか。
 またキッチンの窓から外を見る。もう日は高いのに、相変わらずのどかな風景しか見えない。このまま自分はこの家にいて待ち続ける方がいいのか? いや、それよりは少しでも手伝える可能性のある場所へ行って、何か事が起こった時に手を貸すことができるように待機していたほうがいい。
 ちょうどその時だった。どこか遠くでパァン、と渇いた音が聞こえた。ノービイはばん、と弾かれたように立ち上がると、勢いよくドアを開けて走り出した。
 走り出したはいいが、先ほど聞こえた音がどこからのものか、皆目見当が付かない。
(落ち着け落ち着け)
 早くも鼓動がどきどきとうるさいくらいに胸を責める。
(今のが銃声と決まったわけではないし)
(だけどもしサンジさんが撃たれていたなら)
 大丈夫よ彼ならきっと、と思いながらも不安で息が詰まる。なんと言っても人数が違う。囲まれてしまったら彼だって……。とにかく無事なことを願いながら、もしも捕まったならばと悪い方向へと螺旋状に思いは降下する。このところ連日のストレスと睡眠不足でどうしても楽観的な考え方ができなくなっていた。
(最悪、ゾロさんと一緒に……)
 そこまで考えると足は萎え、その場にへたりこみそうになったが、それでも自分を叱咤してよろよろと歩き出した。すでに走る気力は失われている。ポケットの中の紙を布地の外から押さえながら、ノービイは島のどこからも見えるその場所へと向かった。



 ■      午前十一時 ─アティ─  

 またしても鐘の音が無情に時の経過を告げた。一刻も早くここから逃げ出さなくてはならない、と気持ちばかりが焦るが、どうしたらここから出られるのか皆目見当がつかない。時間ばかりがするすると経ってゆくのを、ただ苛々しながら待ち続けているだけだ。
 ディノンが言ったとおり、強化された窓ガラスは何を投げつけてもひびひとつ入らなかった。ドアの錠もどのような造りになっているのか、簡単には開けられそうにない。それに開けたところで廊下との間に控えの間があるので、二重構造で部屋全体が囲まれている。
 それでも逃げなければ、という思いと外の様子を知りたい一心で、アティは次の食事が来る時を待ちつつ、窓からひたすらに外を眺めていた。
 閉じこめられている部屋は高い位置にあるため、アティのいる窓を特定できても下から見上げてアティの姿を見つけることは困難だ。普通、そこに人がいると知っていてその場所を探すためにひとつひとつの窓を見上げるのとは違う。何気なくその場所を通りかけ、何気なくその建物を見上げて、たまたまそのうちの一つの窓にアティを見つけてもらうのは、一体どれだけの確率なのだろう? それにわざわざ窓にワイヤを入れるくらいの用心深さだ。外から見えないようにもガラス自体に細工がしてあるのは確実だろう。でなければいくら確率が低くても、これほど堂々とアティを窓の傍にいさせたりはしないはずだ。
(ノービイ──)
(おかあさんはここに居る。ちゃんと生きてここに居るわ──)
(泣いているかもしれない。気の強い、年の割にはしっかりした子だけど、意外に甘えたがりのところもあるし──)

 その時だった、廊下側で何やら人の争うような、物の倒れるような音がした気がした。
(何?)
 廊下と控えの間のドアが、ガン! ともの凄い勢いで開けられた音がした。ついで、控えの間とこの部屋の間を隔てるドアが──
 がちゃがちゃがちゃ、とドアノブを回しながらドア自体が思い切り揺さぶられた。次にどん! と何かがドアにあたった音。しかしこのドアはかなり頑丈な堅い樫の一枚板で出来ていて、たとえ数名が束になって体当たりをしたところでとうてい破れるようなものではなかった。 
 しかし、このドアの向こうの「何か」は。
 もう一度、どん! と音がしてドアとドア枠全体が揺れた。あまりの音のすさまじさに、アティは息を止め、ドアをただひたすら見つめることしかできなかった。
 この向こうにいるのは一体「何」? 誰何の声を上げようにも、その音を中心とした怖いくらいの気迫に押されてアティは声を失っていた。
 ディノンの手のものならば、鍵を持っているはずだ。このように無理矢理にドアをこじ開ける必要はない。とすればアティにとって助けの手であろうが、なぜ向こうも声を出さない? 黙したまま隔てている障害物を排除してこの場所へと突き進んでこようとする「意志」にアティは完全に気圧されていた。
 そして音は始まったときと同様唐突に止んだ。いきなりおとずれた静寂に、アティは疑問符で頭がいっぱいになったが、次の瞬間さらに頭の中が白くなった。
 堅い樫の、重厚な黒いドアの中央にいきなり十字に切れ目が入ったのである。本能でアティはすぐに部屋の隅へと逃げた。その切れ目から何か凄いモノが入ってくるという予感。
 しかして、その予想は外れた。次の瞬間、切れ目を中心としてドア自体が吹っ飛んだのである。
 もうもうと埃と木くずが舞う中、「それ」は大きく足を踏み出して部屋の中に入ってきた。


 

  

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