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クロース・トゥ・ジ・エッジ(25)




 時計塔内部にもしもアティが同行していたら、今までの常識を全てかなぐり捨てなくてはならないと慌てふためく事態になったことだろう。
(中に入ってしまうと文字盤が見えねぇことが困りモンだな)
 螺旋階段をころがるように駆け下りて最後のドアを開けると、目の前に大きな導管がそびえ立っていた。
(だがそろそろいいはずだ)
 ゾロは導管内部にもぐり込むと、三本の刀を抜きはらった。すっと目を閉じ潮の流れのタイミングを計る。
「………!!!」
 その瞬間、銀色の閃光がまばゆいばかりにあたりを照らす。それはゾロの剣圧が光となって視覚野に感知されたからだ。
 エネルギー対エネルギー。
 純粋な力の押し合い。
 導管の中を下部から押し上げるように満たしてくる海水を、ゾロはその剣圧で押しとどめ、そればかりか押し返していった。ビリビリビリ、と導管全体が振動する。
(保てよ)
 ゾロは導管が頑丈に造られていることを祈った。
(次だ)
 押し返した海水はおとなしくもとの海へ戻るが、潮流は次のうねりをすぐに運んでくる。先ほどと全く同じ閃光がさらに三度。そして四度。五度。
 さすがに果てがない。十回。二十回。三十回。
 汗がしたたり落ちる。だがぬぐう間がなく次から次へと海水はせり上がってくる。狭い導管の中でなんとか足場をつくって剣を振るっているので、脚の筋肉もいい加減突っ張ってきている。
 五十回。七十回。
「うおおおおっっっ!!」
 最後はほとんど気力の勝負だった。さすがにこれだけ連続して大技を繰り出すのはゾロにしても初めての経験だった。ただの力勝負ではない。単調な割に集中力も要求される分、精神的にも疲労する。
「…ひゃっっ……回!!」
 肩で息をし、ようやく流れる汗をぐいとぬぐう。ふぅっ…と一つ長く息を吐く。
 まあこれだけ止めておけばいいだろう。とっくに正午は回っているはずだ。ゾロは長い螺旋階段を一歩一歩踏みしめながら行きとは逆にゆっくりと昇っていった。





「…どうやってあの部屋から…」
 ディノンの呟きはおそらく本人はまるで意識しないで発していたものだっただろう。
 今や全ての企みが暴かれ、ディノンのプランは水泡に帰した。
 サンジとゾロによってひとつひとつの出来事が有機的に繋がり、アティの登場によってそれが仮定の推測から確固とした出来事へと変わった。
「どうよ?」
 サンジが問い、ゾロが冷ややかに見つめる。
 勝敗の行方が判らないほどばかではない筈だが、ディノンはどこかに逃げ道がないかまだ弱々しく反論を試みようと顎を上げて口を開いた。
 が、何も言葉は出てこず、そのまま視線を落としてうなだれる。全てを諦めたかと思えた次の瞬間、何やらぶつぶつ呟いていたかと思うと、ぐいと顔を上げてゾロとサンジの方へ真っ直ぐに向けた。
「何故、貴様なんかがこの島へやって来た! 何故私のプラン通りに誰も彼も動かないのだ! あやつも勝手に販促ルートの拡充をするからシェアを増やせと無理を言う。うまく宥めて追い返すところをあの女性(ひと)に目撃されてしまう! それならと思い切って自分の手の内に囲っておこうとしたら、勝手に出てきてしまう! とどのつまりが犯人役が首を斬られずに私を追い詰める!」
 ディノンはつぎつぎと周囲の人間に向かって人差し指を振り立てた。最後にサンジのところで止まる。
「貴様が、貴様達が! 私の思惑通りに動いてくれないのがいかんのだ…! どうして解らないのか…」
 小さくなる声に被せるようにサンジが口を開いた。
「…どうして解らないのかって? アンタが解ろうとしないからさ」
「俺らだってアンタが何考えてるのかなんて、会ったばかりでなーんも解らなかった。それなのにいきなり殺人容疑だもんな。はいアンタ死刑ね、なんてそんなこと言われたら、フツー容疑を晴らすように必死になると思わねぇ? そっちの仲買人のおにーさんだってそうさ。組織の交渉役なんだろうけど、アンタがひとりで利潤を貪っているのを、おもしろく思わないヤツがいる、って想像できねぇ? アティさんだってそうさ。愛しい娘と会えなくなるなんて言われたらどんな犠牲を払っても抜けだそうとするに違いないって思わねぇ? うんと遡ってアティさんのダンナさんだって、いなくなったらすぐ次に目が行くだろうってか? 行方不明でも目の前で死なれても、そう簡単に愛する人を忘れるなんてことできねぇってことが何故解らねぇんだ、アンタは。思い通りに人を動かすなんて、そう簡単にできるこっちゃねえんだよ」
 ディノンはその言葉を聞いてとうとうがっくりと膝をついた。

「…それにしても、何故わかった? 私の…」
 うなだれて、それでもディノンはあがく。たった五日だ。このふたりが島へやってきてからまだたった五日にしか過ぎないのに。
「んー? 解らなかったぜ、最初は全く。ただ、アンタが出来事の中心にいて、俺らを邪魔者にして排除しようとしていることしかな。ただ、アンタの自信満々な態度が妙に勘に障ってな。アンタが何か綿密に計画しているその上で踊らされている気がしたんだよ。で、アンタを慌てふためかせることが出来ればきっとそこから糸口が掴めるだろうと。
 ……だから、時計をな、ちょいと止めた」
「まさか、そんな筈はない! そんな簡単に止まることなど絶対あり得ない! だって、絶対に狂わない時計なんだから……!」
「絶対に狂わない時計、ね。世の中、絶対ってことはそれこそ絶対にありえねぇ。「絶対」に近づけるように人間が努力することはあるけれど、な。この時計だって、代々の時計守がコツコツと面倒を見て、まめに足を運んで点検して、そして知識と経験を積み重ね、次代へとそれを繋げていった労力のたまものなんだぜ。
 俺は目的の為なら狂わないものだって狂わせてみせるし、歪まないものだって歪ませてみせる」

(実際止めたのは俺じゃねぇか)
 ゾロはすぐとそう思ったが、それよりもサンジの言葉が頭に残ってその意味を噛みしめることに意識を向けた。

 ──俺は……狂わないものだって狂わせてみせるし、歪まないものだって歪ませてみせる──

(ヤツは)
(俺が思っているよりもっと、ずっと、遙かに真剣に──)
 自分の野望は達成する方法も、そのために何をするかもしっかり自分が捉えている。野望が達成できるかどうか、それはわからないが真っ直ぐそれに向かって努力をすることができる。その末の結果として自分が勝者となって立っていられるか、それとも黄泉路を辿っていくことになるか、わからなくても納得できる、と思う。
(しかしヤツは)
 夢を叶えるための方法が、具体的にどこを、何を探せばいいかなんてまるでわかっていない。唯一それっぽいと思えるのがサンジの嵌めているエターナルポースだが、それも本物かどうか、ただの壊れたガラクタなのかも今となってはわからない。
 自分の歩んでいる未来への道程と、サンジが辿っているそれとの差があまりにも違いすぎることにゾロは初めて気が付いて背中が何かを這い上がるのを感じた。
 少なくとも。
 自らを高め、技を磨くことの先にはどんなに遠く険しい道のりでも世界一の座があるはずだ。それを信じていられるからこそどんな修羅の道も歩む覚悟がある。
 しかしヤツの目指す先は。
 一体自分がどこに立っているのかすら不安だろう。焦るのが当然だし、全てが徒労に終わってしまうことすらあり得るのだ。人生の最後を、たったひとりぽつねんと何もない海の上で迎えることになったっておかしくない。

(俺は自分が血濡れの道をひとり行く覚悟ができていると思っていたが)
 ヤツもまた茫漠たるこの海をひとりで彷徨う覚悟ができているのだ。それはきっと、あるかないかの糸の上をそろりそろりと歩くようなものだろう。果てがない。先が見えない。
 気が狂うほどの焦燥感だろう。ゾロはよく飲み屋でサンジが「オールブルーって知ってるか?」と隣り合わせた男に聞いているのを耳にしたことがあるが、酔いにまかせて自分の夢を聞かせているのだと思っていた。
 あれもまた、拙いながらもサンジの手がかりを求める手段だったのだとしたら。

 目の前の丸い後ろ頭を見る。真上から太陽に照らされているせいで真っ白だ。年とって白髪になったらこんなんかな、と思う。そうなってもサンジは追い求め続けることを止めないだろう、奇跡の海とやらを。

 最初から解っていたのだ、本当は。
 しかしサンジはけしてその焦りを見せはしなかった。誰にも。
 数日前の夜、アティの家の外でサンジがゾロに向かって怒りを表わしたが、おそらくそれが初めてではないだろうか。

 誰かが。
「ここがオールブルーだよ。ごらん、素晴らしいだろう」と言ってくれたらどんなにか。
 例えそれがまがい物だとしても、その言葉に縋ってヤツは次の望みを叶えることができる。レストランを開くことだって。ジイさんに会いに行くことだって。嫁さんをもらって家庭を作るのもいい。きっとヤツはベタ惚れして口説きに口説いて結婚にこぎつけるだろう。そうして嫁さんには何もさせずにかしずいて暮らすんだ。子供なんか出来た日には大変だ。あのぐるぐる眉毛が完全な蚊取り線香状態になってしまうに違いない。
 だがきっと。
 俺はそんなヤツには会いたくないだろうと思う。
 狂わないものだって狂わせてみせるというサンジの目が、果てのない果てを見つめるその孤高の精神が──

 ───俺を────


 

  

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