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クロース・トゥ・ジ・エッジ(26)




「おいクソミドリ」
「あ?」
「なに一人でメランコリってるんだよ。ぼけぼけしてるとまた痛い目にあうぞ。うちのクソ船長はどんなに言ったってデリケートなんて言葉からは一番遠い所で生きているヤツなんだから」
「うお、そういやそんな時間だったか?」
「だーかーら、俺ぁ最初っから時間がねぇって気にしてたんだっつの! てめぇの処刑なんか鼻クソほどにも心配してなかったんだよ!」
「は、鼻クソだとぅ? テメ、よくもそんな汚ねぇモンと俺と比較しやがったな!」
「ちげえ! ちゃんと聞いてろクソハゲ! 鼻クソの方がずっとましだって言ったんだよ、比較にもなりゃしねえっての!」
「なんだと? じゃあてめぇは耳クソだ! 目クソだ! ……ええと他に何か、じゃねぇ、とにかく船に戻ったら憶えとけよ!」
「クソ野郎、とにかくあまり時間がねぇ、もっとそっちの突端へ行ったほうがいい…ぎゃ、もう帆が見えるぞ? うわーい、あのペールピンクはナミさんに違いない! 新しい服買ったんだね素敵だナミさん…センスもスタイルもいつも貴女がピカイチさナミさん…あっちのワインレッドはロビンちゃんだ…会えなかった間寂しかったよロビンちゃん…今夜は貴女の好きなものを並べますからね…」
 一体全体、こんなに離れているのに何故そこまで視認できるのか(それも片目で)、毎度のことながらゾロは不思議極まりない。視力だけなら自分の方が遙かにいいはずだのに(ドクタ・チョッパー調べ)。

 時計塔を背後にし、崖っぷちぎりぎりまで登り詰め、ふたりは後ろを振り返った。
「んじゃあね、ほんっと名残惜しいけど」
「迎えが来たから、俺達ぁ行くことにする」
 遅まきながらアティを追ってやってきた島の人間たちが、事情を聞かされ領主代行と仲買人の男を取り囲んでゆっくりと移動してゆく。ちらほらとこちらを気にする人間もいたが、堂々と話しかけようとはしない。それをいいことに四人はようやくの再会を喜んでいたが、それも束の間、ふたりは別れの言葉を切り出した。
「迎えって──…。だって、まだ海漣日はずっと先よ? 渦潮に阻まれて船は入港できないわ!」
 遠くに見える白帆をノービイも確認してあわてて言う。そんなことは島にやってきた時点で誰しもようく知っているはずだのに。
「大丈夫、ウチの船長は能力者だから」
「巻き添え食わないように、もちっと離れとけ」
 一体どうやって、と言いかけたノービイを、アティがそっと制した。
「彼らが大丈夫って言うなら、大丈夫なのよ。あなたにもそれはわかったでしょ?」
 サンジが自然な所作でアティの手をとり、甲に軽く唇を触れさせた。そうしながら器用に上目遣いでウィンクをしてみせる。大仰なしぐさに内心驚きつつも、茶目っ気のある彼の表情にアティは自然と頬が緩む。
「貴女が無事で本当によかった、レディ。再会の喜びは胸を幸せなぬくもりで一杯にしてくれるけど、すぐさままたお別れの言葉を言わなくてはならないなんて、僕は哀しくて泣きそうです。でも貴女たちの変わりない姿を目に焼き付けて涙をこらえるとしましょう──元気でね、お二人とも」
 サンジはアティとノービイに微笑む。アティの手はしっかりとノービイの肩にまわされて、ノービイはさらにその上から手を重ねた。
「世話になった」
 ゾロもまた短い礼を言って、離れがたい様子の親子を見やる。「よかったな」自然にそういう声が口を突いて出、ふわりとした笑みが目元を緩ませる。
「本当にもう行っちゃうの?」
 ノービイがやや口を尖らせて不満げに言った。
「うん、仲間を待たせてるんでね」
「いい時計守になれよ!」
 その時、はるか沖合の船からこちらへ向けて一直線に何かがぐんぐん伸びてきた。
「来たぞ」
「うへ。毎度のことながら慣れねぇなあ」
「ホント、少しは手加減てものを憶えてほしいもんだぜ…」
「無理だな、猿だから」
「はぁ…到着がユーウツだ」
「言うな」
 伸びてきた物体の先っちょは、奇妙なことに五つに別れていた。
(え?あれって指? てことは腕? 人間の腕が伸びてきてるの?)
 理解の範囲を超えている。しかし彼らはまったく動じることなく、伸びてきたその腕がぐるぐると巻き付くのを半ば諦めた様子で許していた。次の瞬間、その場から彼らは消えた。いや、伸びてきた腕がそれ以上の速さで戻っていったので消えたように見えたのだ。そして、

「アデュー! ゼノビア!!」

 ふたりの声だけが空気中から降ってあたりにこだました。


「……いっちゃったね」
「そうね。もっとゆっくりしていって欲しかったわ。たくさん話もしたかった。特産の山羊のチーズもラシリス果実も食べていかなかったわね」
「この島のいいところ、もっと見て欲しかったわ。五日間いたわけだけど、ほとんど家の中と牢の中だったわけだし……いやな島だった、なんて憶えていて欲しくないわ…」
「ええ。でもきっと彼らはそんなこと思わないでしょう。きっと振り返る暇なんてないように生きている感じがしたわ…」
 しばらく遠い船影を見つめていたが、娘の肩に置いた手を軽く引き寄せて言った。
「何故…ああいったお仲間がいるのならふたりでさっさと逃げてしまうことができたのに、なぜギリギリの時間までじっとして、リスクを冒したのかわかる? ゼノビア」
 ゼノビアは、彼らがそう呼んだのを機に、母親が自分をもう幼名で呼んでいないことに気付いた。自分ももう独り立ちする準備をする年なのだ。母娘ふたりだけの生活がなかなかその機会を掴みにくくしていたが、一人しかいない島の時計守を補佐し、次代の時計守として立たなくてはならない。
「うん。おかあさんのため、ね」
「ちがうわ、あなたのため、よ」

 その時、風に乗って船上から鋭い声が流れてきた。
「転回用意! ぐずぐずしないの、アンタたち! メンシート繰り出して! そっちは引いて! メンスルを回すわよ! 今よ!」
 ふたりを無事乗船させた船は沖合でくるりと針路を変え、帆が旋回する間にその全容を見せた。
「おかあさん、あれって……!」
「うふふ、あなたの勘違いもとんでもなかったわね。土壌研究家と掘削士ですって? 彼らにしては随分おとなしい職業だったわねぇ」
 すでに新しい風を帆にいっぱいにはらんで、ぐんぐん船は速度を上げてゆく。島を取り巻く激しい潮流と渦潮のフチをかすめるように、いやそれを利用して加速するとは、なんと見事な操舵だろうか。
 恐怖の象徴であるはずのドクロマークは何故か愉快げに笑っているように見え、それが水平線の向こうに消えるまでふたりはずっと見送っていた。

「そういえば、彼らは一体何をしに来たのかしら?」
 今更ながらの疑問に首をかしげる。自慢ではないが、海賊が狙うようなお宝はない貧乏な島なのだ。麻薬の原料の件も事件に巻き込まれてから知ったようだし。
「案外、本当にこの島の土壌を研究に来たのかもしれないわよ? わからないもの、どう見ても彼らは一般的な海賊の範疇からも外れているようだし」
 愉快そうにアティが答えた。
「彼らの理由なんて私たちにはわかりっこないし、知らないままでいい。でも他でもない彼らがこの島に来てくれたことを世界中に感謝するわ」
「そうね」
「ええ」

 いつかまた──いつかまた彼らに会うこともあるだろう。
ゼノビアは今初めて島の外の世界を知りたいと思った。時計守として立派に立つために、大きな視野とたくさんの経験を積みたい。そうしていつかまた彼らと出会った時には、胸を張って笑顔で出迎えたい。彼らの航海に比べたら地道で平凡な人生かもしれないけれども、自分の目指す夢は誇れるものであるはずだ。
「おかあさん」
「なぁに?」
「時計塔の調整、私にも手伝わせて」
 アティはそれはそれは嬉しそうににっこりと微笑んだ。




 エピローグ


 レモンの様な月が穏やかな波間にゆらゆらとその影を映していた。
 夜はその深さをようやく裏返しかけたところで、大気も海も、そこに浮かぶ船も、全てがまどろみの中にいた。
 格納庫の中で久しぶりに躯を重ね、汗やら唾液やら他のいろいろな体液を交わらせて、今は火照った身体をそれぞれ床に転がって冷ましている肉体の持ち主達も、気を抜けば夜の優しい腕に引き込まれて眠りに落ちそうになっていた。
 ふと、サンジがごろりと身体を返し、だるそうに腕を持ち上げて何やらごそごそしていたかと思うと、隙間から漏れ入ってくる月光にすいとその義眼をかざした。
 ゾロは黙ってその横顔を見つめる。
(狂わないものだって狂わせてみせる、か)
 領主館の庭の隅で、これからどうするかの方針を話しあった。あの時、細かい箇所まで打ち合わせする時間などなく、箇条書きのようにサンジが指示を出した。
『てめぇはわざと捕まって、油断を誘え。そうして脱出したらあの塔の時計を止めろ。それもできるだけギリギリって時のタイミングで』
『割にあわねぇなあ。俺ぁじっとしているのは性にあわねぇっててめぇ知ってるくせに』
『しょうがねぇだろ。どう考えても手前ぇの方が適任だ。力仕事はてめぇの役割だ、マリモマン。それともてめぇ、頭脳労働してみっか?』
 軽く口の端で笑いながらサンジが言った。そう言いながら、実はゾロの推理力を馬鹿にしているわけではない。それもまたゾロの知るところだった。この笑いは単なる習慣に過ぎない。
『で? その役割をオレがやるかわりに、どんな報酬が?』
 にやりと、これはわざと犬歯を見せ、ことさら悪人面を強調してゾロは言ったのだった。



「ふわあ……ほんっと、マリモの底なしの性欲に付き合うのはしんどいぜ…」
 やっぱ人間外だもんなあ、と義眼を元のように嵌め込み、大きく伸びをしてサンジが呟いた。
 ふん、いいじゃねぇか。
『なら、たまには俺の気が済むまでヤらせろ』と言ったのは確かにゾロだが、サンジだって最中は楽しんだ筈だ。いつだってコイツは出し惜しみしやがるから、俺が苦労するんだよとは間違っても口にはしない。ようやく最近になって、少しずつ、本当に少しずつ素直な表情を見せるようになってきたところだ。それを目にするのは、固い牡蠣の殻をこじ開ける作業のように大変だと思っていたが、この間サンジ自身が生で食べるのでなければ、ちょいと熱を加えるとうっすら口を開けるというコツを披露していたのをそのまま応用させてもらったのだった。

 自分の頬にゾロの視線を感じて動けなくなった。ゾロは時々こうやって何も言わずにサンジを眺めていることがある。なんだよ、と言い返すのは簡単だが、それを言おうと口を開きかけるその半瞬前に視線ははずされるので何も言わない。ずるいヤツだ。圧倒的な存在感でもって俺を翻弄する。真っ直ぐで正しくて、俺は正直泣きそうになる。
 あの時。確かに何か手だてを造る突破口として時計を止めるというのは妙案だと思った。なにしろ時計守が殺害されたというのだ。それに連動するように時計が止まってしまえば、奇妙な符合に不安も高まる。直すにしても時計守が不在なのだ。
『ただなあ、島中の生活基盤なんだよなぁ、あの時計塔は』
 いい方策だと思いながらも実は躊躇していた。大勢の生活を脅かしてまで効果を期待するのはどうか、と。しかしゾロはこともなげにこう言った。
『時計が壊れても、人は死なねえ』
『せいぜい技師と専門家が来るまでの一ヶ月くらい不自由を我慢すればいいこった。正確さを求めなければ日時計だってある』と。
 自分が正しいと決めたら躊躇うな。優先順位を間違えるな。迷うんじゃねぇ。
 真っ直ぐを見つめる視線の強さに惹き付けられ…たまらなくなる。
 この男は無意識のうちに人を惹き付け、ついてこられない者は振り返らない。全く性質(たち)が悪い。
 本当に壊しちまったのか、とあとで聞いたら、いや、と首を振ったので少しだけ安心した。どのような方法かは解らないが、ゾロなりにそこは工夫したのだろう。しかしもし壊すしかなかったのならば躊躇わずに一刀両断しただろうこともサンジには解っていた。

「あ」
 煙草をとろうと脱ぎ散らかした服をごそごそ探っていたら、覚えのないフエルト生地に手が触れた。引き寄せて月光にかざす。
「…なんだ?」
「ああ…返すの忘れてた…あの子の父親の帽子を少し借りてたんだ」
 言いながらゾロの頭に被せてぽんぽんと叩く。
「はは、似合わねぇ」
「ほっとけ。お前だったら似合うってのかよ」
「…いんや、似合わねぇな。こんなものは真面目な人間のシロモンだ。次の島でカモメ便に乗せて返すさ。甘いモンでも添えて…きっと喜ぶ…なあ、」
 段々に声が小さく途切れがちになる。
「…クッキーがいいかな…軽くて日持ちのするもの…」
「何でもいいんじゃねえ? 女と子供は甘いモン好きだからな」
「…うん…割れないように缶に入れて…」
「大丈夫だ」
「うん」
「絶対だ」

 ことん、と腕が落ちた。瞼を閉じて無防備になったサンジの顔をしばらく眺めた後、ゾロもまたゆっくりと瞼を下ろした。



End.

 

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あとがき

 

 この義眼のサンジというのは何故か最初から気に入っていて、「パラキシャル〜」だけではもったいなくて書いたのがこのお話でした。
 サンジが義眼を出し入れする、というのが好きなんですよね。実生活でお目にかかったことがないのですが、本当は義眼は真球ではないようです。それを知ったのが前作を書いた後でした。ちょっとしまったと思ったのですが、まあ小説にありがちなウソとして許していただければと思います。

 原作では絶対に見えないサンジの左目・・・。いくらでも妄想をかき立てられますが、やっぱり視力がほとんどないor見えないというのが美味しいと思います。
 あと10年ほどして、味のあるオッサンになったら、是非眼帯をして欲しいですね。もちろんそれを外すことができるのはゾロだけで(笑)

 タイトルの「クロース・トゥ・ジ・エッジ」(Close to the edge)というのは、「崖っぷち」という意味です。もうそのものずばり、ですね。
 この二人のお話では、あと「硝子越しの情景」にちょっとした番外編があります。その後はまだ考えていませんが、またいつか会いたいな、と思います。



2009/5/19

  

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