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クロース・トゥ・ジ・エッジ(4)




「で、何でこんなところから落ちてきたの、リトルレディ?」
 二人が歩いていた道は片斜面の途中を切り通した形になっていたので、上方から滑り落ちるように道へ落ちてきた子を抱きとめ、しばらく落ち着くのを待ってからサンジが優しく声を掛けた。
 年の頃は十二、三歳だろうか。あどけない子供の顔がようやくほころびかけて、ほんの少し少女へと変化していくその正に途中の、危ういような、儚いような、それでいて全ての女性に特有の芯の強さをもほの見せる、不思議な魅力を持った少女だった。
 ああ、びっくりした、と少女はまず声を上げてからかわるがわるに二人を見やる。
「受け止めてくれてありがとう。観測に夢中になって、空ばかり見ていたら足を踏み外しちゃったの。ちょうど太陽の位置と仰角を計ろうとしてて──なんといっても今日はあの渦が凪ぐ日でしょう。一時間毎の太陽の推移と、あと上から見える海の様子も一緒に観察したかったので、目一杯ぎりぎりまでのびあがったところを、足もとをよく見てなかったから」
 くるくるとよく動くハシバミ色の目。髪の毛は緩くウェーブがかかった栗色で、肩を少し越えたところでくるんと毛先が丸まっている。最初の衝撃が収まって安心したせいか、口早に言葉がどんどん紡ぎ出されてゆく。
 狭い島の中で、お互いに顔も生活もよく見知っている人々だけで過ごす毎日は、きっと刺激が少ないためかもしれないが警戒心がかなり低くなってしまうのだろう。初対面の二人を目の前にして、まったく臆せず少女は自分が何をしていたか、その目的や経緯などこと細かに述べ始めた。
 それが済むと(当然というべきか)月一度の刺激である来訪者へ好奇心が向けられる。
「ねぇ、あなた達、この島へは初めて、よね? 前に見たことないですもんね?」会った、ではなく見た、と言うあたりがまだストレートすぎる子供の言い方なのにサンジはちょっと苦笑する。
「そう、今日着いたばっかりだよ。ちなみに親島の方へは一昨日着いたところ」
「ふうん、親島の人間でもないのね。そんな遠くからなんでこの島へ来たの?」
「えーと、信じられねぇかもしんねぇけど、『ログポースが狂う』って現象がどうして起るのか知りたくて」
「ああ、そうなのね。この島の磁力を含む岩石とかを調べに来たのね?ってことは鉱物研究?」
「そんな高尚なモンじゃねぇです…レディ」
「じゃあ、土壌(ソイル)研究家?あ、そうなのね、それで後ろのお兄さんは掘削士?」
 サンジはため息をついた。
「…ハイ、もう、それでいいです……」
 まあいいや、悪ぃな、ゾロ、と心の中でつぶやく。六千万ベリーの賞金首、剣士ロロノア・ゾロはここでは掘削士に決定だ。
 土壌研究家がどういう風体をしてどういう態度をし、どういう話し方をするものなのか全く見当がつかなかったけれど、なるたけそれっぽく(?)見えるようにサンジは口を開いた。
「それでですね、どなたかそういうコトに詳しい方がいらっしゃったらお話をうかがいたいんだけど……」
「うーん、そんなものの研究をしている人なんて、この島にはいないと思うわ。けど、うちへいらっしゃいよ。私のお母さん先生をしているの。島で一番知識があるのよ。だって時計守でもあるんですもの」
「えっと、時計守ってその言葉さっきも聞いたけど、あそこにあるあの時計塔と関係あるの? そして同時に先生でもあるって?」
「そうよ。時計守は時計塔を守る人。絶対狂わない時計を、島の時間を守っているのよ」
 そう言うと、早くいらっしゃい、とばかりにくるりをきびすを返して二人の前をどんどん歩く。
 二人は顔を見合わせたが、何も言わず黙って少女の後をついていくことにした。

 歩き始めてすぐ、サンジが少女に並ぼうと歩幅を上げようとした時、ぐいとその腕をとってゾロがサンジの耳に口を寄せた。
「おい」
「んだ」
「なんで俺が掘削士なんだ」
「しょうがねぇだろ。海賊なんて名乗れねぇし、こんな特殊な島じゃあ、旅行者っつうのも嘘くせぇ。ちょっと立ち寄っただけってのは一番通用しねぇからな。だからあの子が俺たちを「土壌研究家とお着きの掘削士」に見てくれたんなら、それでいくのが一番いいんだよ。土地の人間が俺らをそう見てとったんならそれが一番自然だろーが」
「しかし、てめぇが土壌研究家で俺が掘削士てぇのは納得いかねぇぞ」
「あのなぁ。てめぇの姿いっぺん鏡でよく見てみろよ。俺はちゃんとスーツだが、てめぇはどうひいき目に見てもブルーカラーの人間にしか見えねぇ。帯刀してるからなんとか剣士に見られるが、ここじゃあ剣士自体見たことねぇのかもな。あの子にゃあてめぇの得物が土掘り用具に見えたんだろうぜ」 
 剣士の魂である自分の剣をそんな目で見られたのかと、ゾロの機嫌が一気に下降したのをアリアリと感じて、サンジは内心ため息をついた。
 すすっと少女の隣へ並び歩く。
「そういえば、まだお名前聞いてなかったよね?俺はサンジ。んであっちのガタイのいい怖い顔した土掘りはゾロってんだ」
 にっこりと少女はサンジに向かって微笑んだ。その笑顔はサンジの心臓にずぶりと突き刺さって、そわそわと幸せな熱を生じさせる。
「私はノービイよ」
「なんてカワイイ名前なんだ……」
 ああ、ノービイちゃん、俺ぁ貴女に会うためにこの島に来たのかもしれねぇ。
 体中からそういったオーラをまき散らすサンジの背を見て、ゾロはますます眉根を寄せた。
 




 ノービイの母親はノービイによく似て、だが目はもっと落ち着いて知的な色をたたえている、三十をいくつか越えた程度といった綺麗な人だった。きっと若くしてノービイを授かったのだろう、親子というよりは姉妹といってもおかしくないほど若々しく、瞳のきらめきや、つとあげた二の腕のみずみずしさに時折ハッと目を引かれてしまう。
ノービイより一段深い濃いブラウンの目、髪の毛は同じ栗色で、豊かなそれを綺麗に編み上げている。すらりと均整のとれた体つきはとても子持ちには見えない。
「そう、そんなに遠いところから、わざわざ」
 ノービイの話を聞いて、二人に暖かい笑顔を向け、家へ上がるようにと促した。
 くるくるとまとわりつくノービイを笑顔でいなしながら、手慣れた所作でお茶を淹れる。無駄のないなめらかな動きにうっとりとサンジは見とれつつ、ゾロへそっと耳打ちをする。
「なあ、こんな航路から外れた島において置くには実に惜しいレディだよなぁ、そう思わねぇ?」
 ゾロは、あまりにもいつもどおりのサンジの反応に、もはやまともな言葉を返すことすら面倒になって黙っている。そんなゾロにもまるで気にしないで、
「ダンナは一体どんなヤツなんだろうな。くそ、幸せモンが。羨ましいぜ。会ったらきっとイヤミが口をついて出ちまいそうだ」
「アホが」
 まさかそんなバカはいくらコイツがアホでもしないだろうと思いつつ、ついそんなことを呟く横顔へちらり、と視線を送ってしまう。その先にふと目に入ったものを見て、サンジに注意を促す。
「おい、アレ見ろ」 
 暖炉の上に飾られた、手のひらほどのフォトスタンド。その中には親子三人が笑顔をこちらへ向けている。世の中全て幸せであふれているように──。
「あの娘がまだ小さい頃、か」
「そして飾られている家族三人の写真はあれきりだ」
「あのあと三人で撮ったものはないんだな」
「あれば飾るだろ、普通の家庭なら成長してゆく娘で壁を埋めてゆくか、最新のものに取り替えるさ」
「──亡くなったのかな」
「──あるいは別れた、か」
「別れたんなら、ダンナの写真は飾らないだろ」
「………」
「俺が1ポイントな」
「てめ、そんな勝手に!」
 つい声が大きくなってしまったところへ、キッチンから大きなお盆を抱えてノービイと母親がやってきた。
「ちょうどおやつにと思って焼いたところですの。すごく素朴すぎてお恥ずかしいんですけれど。ここで採れるラシリスって果実を入れたスコーンですわ。外から来たかたにはこういうものの方がかえって珍しいかもと思って」
 皿の上にはほわほわと湯気を上げる黄金色の固まりが山になっている。普通プレーンなスコーンは白っぽいベージュ色をしているが、これはそのラシリスという果実のせいだろうか、生地自体が色濃く、添えられているクリームの白さをお互いに引き立てている。
 そういえば、朝早く出航したため、朝食も(簡素ではあっても朝食はしっかり摂った)かなり早い時刻に食べたきりで、その後かなりな時間が経っている。
 スコーンの山を目の前にして、その事実を目よりも腹の方が先に確認した。
 では遠慮無く、と笑顔で手を伸ばしたふたりに、ノービイの母はポットから紅茶をゆっくり注いでカップをテーブルのそれぞれの前に置いた。
 スコーンは手で割るとさっくりふたつに割れて、中のオレンジ色に近い黄色の生地からどっと湯気をあげる。そこへ少し黄味がかったクリームを載せて、クリームごと口に放り込む。ほのかに甘い生地に、とろっとした濃厚なクリームが絶妙なハーモニーを奏でて、口の中でとろけそうだ。たくさん頬張って少しくどく感じてきたころ、紅茶を一口すする。ハーブティーはすーっと口の中の甘さを追いやって、馥郁(ふくいく)とした香りを鼻腔へ届けて、抜けた。
「…美味ぇ」
 単純といえば非常に単純なおやつ。何も凝った飾りも味付けもなかったが。サンジは素直にそう口に出していた。
「とっても美味しいです、奥さん」
 ほらてめェも礼くらい言え、と肘でゾロをつつきながらにっこりとノービイの母親に笑顔を向けた。
「お気に召しましたか? ただ焼いただけのものなんですけど、どれもこれもみなここで採れたものばかりですから。クリームは家で飼っている山羊の乳から作ったもので、少しクセがあるんですけど、このスコーンには合いますでしょ? ラシリスは裏庭の樹になっているのをもいでいろいろな料理に入れるんですけど、色あいもいいし、ミネラルがたっぷりはいっているんです」
「このハーブティーも?」
 サンジはティーカップを目の高さに上げて尋ねた。
「ええ、それも裏庭で。私たちの生活は、とてもつつましいものなんです。月に一回しか親島との交易もできないから、自然、出来る限りを自分たちでまかなうしかなくて。でも、それで充分。余るほどの物資はここでは必要ないし、自分たちが口にするものは自分たちで収穫するだけですし」
 足るを知る。
 まだ充分に若い彼女だったが、その微笑みはとてもゆったりと柔らかく、慈愛にあふれていた。
「私たちはこの島で日々満足して暮らしていますけれど、でも若い子たちはやっぱり外の世界を知りたいという人もいます。それは抑えられない若さゆえの衝動ですから、止めることはできませんわ。好奇心と冒険心は若い世代の特権ですもの。いずれはこの子も」
 すい、とノービイに手をのばし、肩を寄せる。
「他の島へと旅立つ日が来るのかもしれません。でもその後は戻って来て、私の跡を継がせたい。長く続いた誇りあるこの職を、やっぱり血を分けた我が子へと引き継がせたいのはどうしようもない親の我が儘なんですけれど」
「私、ちゃんと勉強しておかあさんの跡を継ぐってば。どこかへなんか行かない。おかあさんとずっと一緒にいるわ」
 その、子供っぽい言い方ではあるが正直で真摯な言葉に嬉しげに目を細めて、
「愛しい子。今はそう思うでしょうけれど、他の世界を見ておくのも勉強のひとつなのよ。あなたは外の世界を知ることでこの小さな島をますます深く愛するようになるわ。私がそうだったように」
「そうかしら。私は今のままで、この島がとても好きよ。そしてうんと勉強しておかあさんの跡を継ぐのが夢よ。立派な時計守になるのが」
 そこでサンジが少し身を乗り出した。
「そういや、さっきも聞いたけど、『時計守』って何?いやその前にじゃあノービイのおかあさんって本当に先生で時計守?」
 その言い方にカチンときて、むうっと口を尖らせながらノービイは抗議の声をあげる。
「だからそういったじゃない──時計守は時計塔を守る人だって。それにはとてもたくさんの知識が要るの。うちは代々続いた時計守の家系で、今代はおかあさんがその任に就いてるの。生半可なことではなれない、すごく重要なお仕事なのよ」
「──時計守は」
 まだ少し怒り気味のノービイをたしなめるように肩へ手のひらをおとし、母親がゆっくりと話し出した。
「この島では重要な意味を持ちます。つまりあそこに見える時計塔──島の人間、島の生活にとって欠かせない島の時刻──を常に狂わないよう、正確に作動するように気を配ってメンテナンスするのが仕事です。ただし、それには潮汐学、天文学、機械工学など様々な知識を持っていなくてはなりません。先代の時計守は私の父でした。私は父から全ての知識を教えられました。あらためましてご挨拶をいたします」
「わたくしは、このラッセル島第十一代時計守、アテナイ・ハル・レネンフェルトです」
 静かな居間で、スコーンとハーブティがテーブルの上に並んでいるいかにも家庭的な光景を前にして、ノービイの母、アテナイはソファにピンと背筋を伸ばして座り真正面からゾロとサンジの二人へ顔を向けた。おごそかな宣言のように自己紹介をしてのけたその顔は、優しく穏やかでありながらも強い意志と毅然とした誇りとを見せ、その眼差しは聡明さをたたえている。
 思わず、その静かな迫力に瞬間息をのんだことに気づき、内心でふたりとも苦笑した。荒くれ海賊や、群れをなして追いすがる海軍兵を前にしてもまったく動じないというのに、この穏和な女性が醸し出す静かな己への自負心、尊厳さに打たれたと言ってもいい。
 ふたりは、アテナイへ向けて僅かに頭を下げた。恭順ではなく、尊敬を表わすために。顔を上げたふたりの口元はゆったりと笑みが浮かび、右手はハーブティーのカップへ伸びる。
「乾杯しようぜ! 美しく誇り高い知の女神に!」
 乾杯! と白い陶器のティーカップがコン、と音をたてて軽く触れあわされる。


 

  

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