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クロース・トゥ・ジ・エッジ(7)




 暖炉の中でごとんと薪が動く。押し黙った空気が動いた。
「ああ、すみません。なんだか私、夫がいつかひょっこり帰ってくるような気がまだ捨てきれなくて。そうそう、ですから私ではあなたがたのお役に立てるようなお話ができなくて残念だわってそれが言いたかっただけなの」
「いえいえ、それより貴女の専門分野の方がきっと何倍も興味深いことと思いますよ」
「時計守が?」
「ええ、そう。だって昼間聞いたところでは、いろいろな学問に通じてなくてはならず、それを統合して見事な便益にまとめ上げている。これは並大抵の労力ではないでしょう。そしてその結果は大勢の人々の生活にそのままダイレクトに関わっている。責任も重大で達成感もあることと思いますが……見返りとしては何か領主様から特別に支給されたりはしないんですか?」
「?別に、特別な手当とかはありませんが……。時計守としての尊敬を島の皆から受ける、これは何にも増して代え難い報酬だと思っております。そのために誰もが少しづつ収穫を分けてくれたり、力仕事のときは手を貸してくれたり……、何も言わずとも私とノービイの生活を保障してくれているようなものですわ。本当にここは穏やかで、住民みな優しい、のんびりと暮らすのにはとてもいいところなんです。ただ最近は……」
 言いかけて突然口を噤む。サンジはそれに気付いていながらもさりげなく別の話題を振った。
「本当にのんびりとしたいい島です、ここは。ゆっくり腰を据えて見て回るためにも、正式に滞在の許可を得たいのですが、今日は残念ながら領主代行様にはお目見えすることはかないませんでした。やはり突然では時間がとれないらしくって。明日には会えるといいのですけどねぇ──ところで代行様ってどのような方ですか? よい印象を与えるためにもちょっと知っておきたいんですよ」
「代行様ですか……」
 やはり核心を突いたようだ。アティは睫毛を伏せ、視線を暖炉の火に固定したまま、どう話したらよいか逡巡していた。やがて重い唇をようやく開き、それまでの快活な会話からは一転してぽつぽつという風に語り始めた。
「あの方もこの島の出身ではないのです。二、三年前から月に一度やって来るようになって。他にも定期的に出入りする方は少なくないので、そのころは別段何も気にかけるようなことはありませんでした」
「何を……扱っていたんです?」
「他の業者の方と同様に、特産の野菜や果物ですわ。これも全然不思議はないのです。ですが」
「余所者がいきなり領主代行の地位に就いたのは充分に不可思議ですね」
「……ええ、そうなんです。でも領主様は確かにかなり代行様に信頼を置いていらっしゃってて、それまでも代行様が滞在している間は、ほとんど行動を共にしていたのを、島民は皆見ていますから」
「いつ領主の代行をするようになった?」
 低い声。いままで聞き役に徹していたゾロが発したものだ。
「……半年ほど前」
「それから今まで目立った問題はないわけですよね?」
「ええ。ですが」
「……?」
「──何か、が。──」
「……………」
 アティは言いにくそうにそこで押し黙ってしまった。二人はどちらも一言も発せずに、ただアティが続きを言う気になるのを待ち続けた。
「何か、が、あったわけではないんです。ただ、何かがおかしい。皆それを感じてはいるんですが、口に出せずにただ毎日を繰り返している。だって」
「領主様は、なんと言っているんです?」
「ご病気で伏せっているから、その間の代行なんですよ?何かを公布することはないですわ」
「そうじゃねぇ。領主が病気でダウンしたって、そいつを代行させるにあたって何か一言あったハズだろう。それに誰か、少なくとも医者が領主と接しているはずだ。そいつは何かしらの領主の言葉を伝えてくれねぇのか」
「それが……確かに領主様がいきなり伏せっておしまいになった時、代行を指定する旨の文書が発表されました。それをもって今の代行様がその位置に収まったわけなんですが──それと、あとお医者様ですが、彼もほとんどお屋敷へ詰めたままで、滅多に姿を現わさないようになってしまって。でも彼は時折自宅へ帰ってはいるようなので、その時を掴まえて話を聞けば聞けるとは思いますが──」
「誰もちゃんと話しをしてないんですね」
「ええ。いつも深夜に帰宅して、そのまま疲労困憊といったようにベッドで寝ているばかりだそうで。診療所も開店休業状態です。まあ今まで急を要する怪我も病気もなかったからいいですけれど」
 ゾロとサンジは密かに視線を交わした。声を発することはなかったが、同じ意味を宿していた。曰く「どこかおかしいぜ」、と。
「何か、があったわけじゃないが──」
 サンジが火を見つめながら言う。
「…………」
「けど、何かが変だ」
 ゾロがその後を引き取った。
「皆、不安を感じているんですわ。ですけど、誰もその不安を露(あら)わにしようとしない。はっきりさせて、ただの不安がもっと恐ろしい何かに化けてしまうのが怖いんです」
「事なかれ主義、というわけか」
「……平和な島ですから、異変が起ることに敏感に反応してしまうんですわ」
 ゾロの一言をやんわりと言い直し、アティは居住まいを正した。
「明日。実は時計塔の定期チェックの日なんです。その報告を代行様に行わなくてはなりません。あなた方もまた領主館へ行かれるのでしょう。一緒に行ってはいただけませんでしょうか」
 今度は二人ともおおっぴらに顔を見合わせた。
「もちろ───」サンジが言いかけたところにアティの声が重なる。
「わたくし、あの代行様の目が怖いのです」

「怖い、ですって?」
 サンジは今度こそ身体ごとアティに向きなおった。
 こんな素敵なレディを怖がらせるなんて、絶対とんでもねぇ! と背中が訴えている。
 ゾロには、サンジの身体中から見えないオーラが立ち上っているように感じられた。
(やれやれ)
 そっと、見えない様に用心して嘆息する。
「そんなにヤなヤツなんですか?」
「──いえ、そうではないんです。温厚な物腰で、話し方もとても優しくて丁寧で。何か提案するときはでしゃばらず、けれど核心を突く意見をおっしゃるし。裁定するときも双方の意見をとりいれてよく検討してからですし。ですから、領主様があの方を代行に、と推したのは誰しも納得してはいるんです」
「でも?」
「ええ、でも。それだからこそ、なのかもしれません。なぜかわたくし、あの方の前に出ると妙にいたたまれないような、すぐにその場を去りたいような気分になるのです。それはあの目のせいではないかと──どんなに優しく微笑んでいても、目だけが笑っていないように感じられるのですわ。これはわたくしが愚かな女だからかもしれませんが」
「そんなことっ! 貴女みたいに聡明で美しく魅力的なレディはそうはいませんよ。ボクが保障しますって!」
「ふふ。ありがとうございます。お世辞でも嬉しいですわ──(口をとがらせて反論しようとしたサンジをさえぎって)──愚か、と言ったのは女という意味ですの。男性みたいに理性で割り切れずに女性は皮膚で感じたままを感情にそのまま載せてしまう愚かな生き物、という意味ですわ。そう、わたくしはあの方が代行としてふさわしい力量と知識とを充分に持ってそれを発揮していることを知りながら、どうしてもどこかで受け入れられない。それは自分が狭量なだけなのか、それとも──この感情の出所すらわからないのです。ただ、怖い。それだけで」

 アティは一気にそこまで言うと、また火を見つめる。
「じゃあ、聞くが」
 不意に、ゾロが口を開いた。アティはそのまま顔だけをゾロに向ける。
「俺たちは、どうなんだ。今日着いたばかりで、ほとんど何も素性を知らねぇ余所モンだぞ。怖くはねぇのか」
 くすり、と間違いなくアティは笑った。暖炉の炎に照らされて、それはまさしく「女」の顔だった。母でもなく、教師でもなく。
「だから女ですから。あなた方が危険ではない、と皮膚が感じただけです」

 ゾロもサンジも。
 たおやかでしなやかな母親、というイメージから一転、女というもっと原初の顔を初めて見せたアティに少しく息を呑んだ。
 かなわねぇな、と同時に思う。
(やっぱり女ってやつぁ普段どんな顔をしてても、俺ら野郎どもには決して理解できねぇモノがある)
 と用心深く考えたのがゾロならば、
(やっぱりレディはレディだよなぁ。普段優しいお母さんだったりしても、奥の方ではミステリアスなんだからーーっ)
 と胸をときめかせてしまうのがサンジだった。受け取るイメージは同じながら、処理する感情は性格に応じて正反対であった。

 ぼおぉぉん、とくぐもった鐘の音が聞こえた。夜の間は少し音を控えめにしているらしい。あらこんな時間、もう寝ませんと、とアティは二人をその場に残したまま立ち上がった。去り際に「それでは明日、よろしくお願いしますね」と念を押しながら。





 青白い月の光は、陸上でも変わらず辺りを照らす。
 少し前に甲板上で見た光景と今の光景が重なる。あの時は世界中が息を潜めていたような、そんな静かな夜だったが─
 今夜もまた静かだった。誰一人動くものとてない深夜。鳥も獣も眠りの中でまどろんでいる。

 二人は、というよりサンジは、アティが寝室へ消えてしばらく後、何も言わずふらりと家の外へと抜け出てきた。その後をワインのボトルを持ったゾロが黙ってついてくる。
 真夜中、月はちょうど頭上から下界を照らし、夜とは言え家や塀や木々の影が黒々と地面に落ちていた。サンジは降り注ぐ月光の下で、いつもの儀式めいた仕草をする。
 少しだけ俯(うつむ)いて、左の眼窩から義眼をはずすと、それを月光に透かすようにかざして──見る。
 ゾロはそれをワインを直接ボトルから飲みながら見ていた。いつもより、サンジがそれを見つめる時間が長い。いつもなら透かして見、少し揺らしてそして残った右目を近づけて見て、もう一度月明かりにかざしてそれで満足して元に戻す。哀しいかなゾロもそういったサンジの『癖』のような一連の動作まで憶えてしまうほどの回数をつきあっているというわけだ。
 だが今日は、それがいつもより長いようだ。だからつい──いつもは声をかけないのに口を開いた。

「おい。どうだ」
「……何が」
「とぼけンな。わかってるクセに」
「ああ」
 そしてようやくサンジは義眼を元の通りに嵌めなおす。ゾロへの返答はそのままに、胸ポケットからいつもの煙草を取り出し、月へ向かって煙を長々と吐き出した。そのままの姿勢で、
「別段、変わったところはねぇ」
 ぽつりと。
 言うと、煙草をそのまま銜えたまま、ポケットに手をつっこんで家へときびすを返した。ゾロへは視線をやらぬままに。長い前髪がばさりと顔を覆って表情はおろか、どちらの目も──生きた目も生きていないほうも──見えない。
 ゾロはそんなサンジの態度に胸がカッと熱くなる。目の前をよぎった身体の、そのポケットにつっこんだ無防備な腕をがっとひっつかみ、サンジの身体を無理矢理自分へと向けた。
「ナンだよ?」
 サンジの妙に丸まった眉が盛大にひそめられて、眉間に皺がよっていた。隻眼に睨まれて凄まれれば、大抵の男はここで手を離して一歩退く。しかしゾロはそんなサンジの睨みなど今更効くわけはない。
 視線を正面から交わらせる。睨む。睨む。
 ふ。と。
 サンジが先に動いた。ゾロの顔から中空に目を逃がし、もう一回ふうと煙を吐く。
「別に変わったところはねぇって。それとも何か? 何かがあってしかるべきだと考えたのか? てめぇが?」
 てめぇには関係ないだろう? と。口にはしないがそう言っている。
「だって、何かがあるかもしんねぇって思ってこんな島までやって来てンだろ?」
「そりゃあな。期待しないっつったらウソだけどよ。だけどよ、ログポースを狂わせて、時計を狂わせて、ありとあらゆる針を持つモン全て狂わせるっつーんだぜ? この島では。『これ』ももう狂ってンのかも知れねぇよな。結局もう狂っているか正常なのかはわからねぇンだよ。ただ唯一、」
 サンジが月を振り仰いでゾロから完全に顔を逸らした。金髪が月光を弾いて、やけに眩しい。丸い頭にもう一つ月が出現したかのような錯覚を起す。
「『これ』がぴたりとどこかを指し示すようなら、正常なのかも知れねぇ。ただそれも俺の勝手な仮定が合っているとしての話だ。どれひとつとして確実なモンはねぇ」
「確率としてはかなり低いってことだな」
「ああそうさ、解ってるじゃあねぇか。マリモといえどもこの光で光合成してンのか? いい月夜だもんなァ」
「だが最初っからそれァ普段は狂ってるって言ってたじゃあねぇか」
 ふん、何を今さら解りきったことを、とゾロは言う。
「この島だからどうだってんだ。条件は何も変わっちゃいねぇ。ただてめぇはソレがいつかぴたりとひとつところを指すのを待っているしかねぇんだろ」
 しばし、どう答えるか逡巡した後、サンジは一拍おいて口を開いた。
「……なんだか随分なことを言われているようだなァ──つまりてめェは、俺の夢はどうせ自分の力ではかなえられねぇくせに、って思ってンだろ」
 自嘲するように鼻を鳴らす。
「ンなことねぇ。ただ──、」
 ゾロが言いよどむ。
「ただ何だっつうんだ、このクソアホ緑ハゲ! てめぇが何か迷うなんて、道と方向以外では有りえねぇくせに、いっちょ前に悩むフリなんてしてんじゃねぇ!」
 いきなりキレ始めたサンジの舌鋒にすぐに煽られてしまうあたり、ゾロもまた若かった。
「なら言わせてもらうがな。そんないきあたりばったりで運任せのやり方で本当に見つかるのか? その奇跡の海がよ」
「他に方法があるってのかよ。わかってる。ただこれだって、方法のひとつにすぎねぇんだ。可能性の一つなんだよ。とにかく少しでも可能性があれば、逃すわけにいかねぇだろ」
「なにを焦ってる。」
「焦ってなんかいねぇ」
「……………」
「へ、てめぇはいいよな。目指す高みがちゃんと息をして存在してるんだからよ。鷹の目さえ倒せばイイ、もしくは鷹の目を倒したヤツを、だ。それに向けて毎日毎日鍛錬して技を磨いていさえすれば、いつかきっと、って着実にダイケンゴーへの道ってか? は!」
「おい、そんな言い方っ」
「なんだよ、その通りだろうが!」
「やっぱ焦ってるんじゃねぇか」
「ッッッ!! るせェ! 焦ってねぇって言ってる! これ以上、俺にこのことで口きくんじゃねぇ! てめぇにゃ関係ねぇことだからなっ!」
 いらいらとフィルターを噛み、ふいとサンジは月光を背に、すたすたと家屋へ向かって歩き出した。その背中はそれ以上の一切の言葉を拒絶していた。
「ンだってんだ、クソコック……」
 残されたゾロもまた、苛々とした思いをどこへもぶつけようがなく、そこらの石を蹴ってみたものの、却って苛々がつのるばかりで一向に気が収まらない。
 結局、さらに数刻むやみにそこらを歩き回って神経をなんとかなだめた後にようやく戻ったのであった。




 ──この島でも、このエターナルポースはいつもの通りにゆったりと巡るだけ。特に一方向を指すでもない。
 ただ進むだけ。探すだけ。この航路のどこかに奇跡の海へ連なる路があると信じて。しかしその路は今この瞬間にでも気付かずに通り過ぎてしまっているかもしれない。
 ゾロの様に、自己を鍛えて、鷹の目を倒すという具体的な方法があれば。まっすぐそれだけを見据えて邁進(まいしん)できる目標があることが羨ましい。
(俺ァ、一体何してンだろうなぁ……)
 ヤツの言うとおり、焦ってるのかも知れない。自分では充分に冷静だと思っていたが。
 しかし、それをよりにもよってゾロに、あのクソ剣士に指摘されるのは一番業腹(ごうはら)だった。
(てめぇの夢だけを真っ直ぐ追いかけていきゃあいいものを)
 俺のことなんざ、放っておくべきなのだ。あの前しか見えない方向オンチ野郎は。俺なんかの方をよそ見している暇なんざねぇだろうが。
 どうせいつかは──
 ──行く道が分かれるというのに──
 とろとろと、ようやくサンジは睡眠のフチに辿り着いて、脳裏に浮かんだ数語を最後に急速に意識を手放した。



 

  

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