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永遠より長く無限より短い一瞬(5)

 





「おい! サンジ!」
「はい、何でしょう、マスター」
「俺はコーヒーはもっと濃いのがいいって何度言ったらわかるんだ!」
「え」
 サンジは目を瞠ってゾロへと顔を向けているが、返答はなかった。
 その筈だ、だってコーヒーはもっと濃いほうがいいなどとゾロはサンジに言ったことなどない。
「おい、何とか言えよ。それとも黙っているのがお前の礼儀なのか?」
「すみません、マスター。ただいま淹れなおしてまいります。しばしお待ちを」
 そして翌日にはゾロは「こんな濃くしろと誰が言った」となじり、他の点でも細かなところで矛盾した命令を出し続けた。当然のようにサンジは混乱する。しかし何も言い返すことはなく、「すみません」とのみ繰り返した。ゾロはサンジを謝らせ、頭を下げさせながら、自分の中で苛々した感情がますますふくれあがるのをどうしようもできずに持てあましていた。
(俺は一体何をやっているんだ)
 自分でも何故サンジに八つ当たりしているのかわからず、ただサンジの平然とした顔を歪ませてみたいと、自分が意地悪なことを言っているのは重々承知で何度も繰り返した。サンジが一瞬キョトンとする、そのような表情は、おそらく自己の中に累積したデータとゾロのオーダーが照合しないことで起こっているコンフリクトによるものだろうけれども、ゾロが目にしたサンジの一番「人間らしい」顔だった。
 しかしそれも一週間を待たずしてサンジは「慣れた」。
 おそらくゾロが矛盾する命令を出す、ということをもデータの一つとして学習したのだろう。ゾロによる意地悪な命令が発動すると、すぐさまサンジは「すみません」と頭を下げ、新しい命令に従ってそれまでの仕事をもう一度やり直すのだ。
 それに気がついたゾロは一切の意地悪命令をやめた。そうするとまたサンジは徐々に最初に覚えたとおりの仕事ぶりに立ち戻っていった。
 何事もなかったかのように。




 サンジとそんなやりとりをしている間も、また頻繁にゾロは白い腕の夢を見ていた。研究室に閉じこもって限界まで頭と身体を駆使しているというのに、夢を見る。そしてベッドでなくてもソファでうたた寝しているとき、机で突っ伏して寝てしまったとき、どんなときでも夢から醒めた瞬間を見計らうかのように、サンジがすぐにやってきて、冷たい水のコップを差し出すのだった。ゾロはサンジの手に縋るようにして水を貪り飲み、そうしてやっと安らかな眠りにつく。
 一杯の水が、不思議なことにゾロにとってはサンジの作るどんな料理よりも美味しいと思えた。
 そしてふたたび意識を手放す前に、ゾロは何度も同じ疑問を浮かべた。
(この夢は)
(アレキサンドラを愛せなかったことを悔いているから、なのか?)
(夢の中で俺は俺を罰したいと思っているのだろうか)
 しかしその答えが思い浮かぶ前に何もない眠りへともぐり込むため、結局いつも何もわからないまま同じような夜を繰り返すのだった。




 ピンポーン。
 ある朝、予定外の人間の訪問があった。
「いらっしゃいませ。恐れ入りますが、マスターとお約束はございましたでしょうか」
 アポイントメントのないことを知っていながら、サンジは丁寧に尋ねる。ゾロの大学時代の交友データから訪問者の顔は合致して、明るい玄関先の日差しの中に佇んでいるその人物が「エース」という名前だと判明しているため、わざわざ名前を尋ねることまではしないが、サンジを通さずにゾロに会いに来る約束を直接とりつけた可能性があるため、失礼のないよう慎重に出迎える。
「…ふぅん。これがゾロが手をかけているカワイコちゃんのロボちゃんな訳」
「あの? お客様?」
 エースはサンジの顎に手をかけ、つらつらとその顔を眺めた。
「へーえ。変わった眉。これアイツがやったの?」
「はい、マスターが『そのほうがいい』とおっしゃって」
「ぷ! どこが『そのほうがいい』んだか! 可哀想じゃん、いくらロボちゃんが美醜にこだわらないからってさ!」
「エース様。わたくしはマスターが望むならばそれで満足でございますから。ところで、本日は如何様なご用件でしょうか? よろしければしばらく客間でお待ちください。マスターに取り次いでまいりま……」
 その時サンジの声に重なって低くしゃがれた声が玄関ホールに響いた。
「必要ねぇ」
「おう、ゾロ!」
「マスター」
 振り向くと部屋着のまま眠い目をしたゾロが立っていた。
「お前、随分痩せたなあ。それにすごく顔色悪いぞ? ちゃんと食ってんのか?」
「ああ、大丈夫だ。心配ねぇよ。ちゃんと三食コイツに食わせられているから」
 くいっとゾロは背後に回ったサンジを親指で指した。
「じゃあ、眠ってねぇだろ。その顔色で大丈夫なんてよく言えたもんだ」
 その言葉は図星を衝いていたので、ゾロは反論できず黙り込む。
「ああ……ここじゃなんだから、入ってくれ。ちょうどいい、少し聞きたいことがある」

 客間ではなく、リビングルームに通されたエースは、ソファにどっかりと座ってすっかりくつろいでいた。
「あ、俺紅茶にはレモンがいいな。そして角砂糖ね。五個入れてくれる?」
「相変わらずとんでもねぇ甘党だな」
 ゾロは学生時代を思い出して苦笑する。エースはゾロが学部に入学したときの剣道部主将だった男で、大学に入ったら剣道はやめて学業一筋に打ち込もうと考えていたゾロを説得して剣道部に引きずり込んだといういきさつがある。
「で、聞きたいことって何?」
「や、それよか、今日アンタがウチに来た用件の方が先だろ。ホントアンタっていっつもいきなりだもんなぁ」
「んー、大したことないよ。ちょっとこっちで学会があってさ、オレの論文がなんか表彰されるっつーんでやってきただけ。学会が始まるまでの暇つぶしにかつての後輩の顔みてやろう、って親切心てとこかな? オレの目的なんてそれで以上、終わりよ。それでお前の聞きたいことって?」
「…相変わらずアンタって男は…自分の仕事とか評価より好奇心の方が勝っちまうんだからな」
 苦笑しつつそれでもまるで変わっていないエースに、ゾロは嬉しさを覚える。一緒に部活動をしたのはほんの二年間ほどしかなかったが、この男と打合うのが一番楽しかった。ゾロとは性格も剣の資質も方向性もまるきり違ったが、なぜか気があって、先輩後輩といった垣すら飛び越えた戦友だった。ちなみにタメ口も当時からで、周囲の先輩連中にはあまりよく思われていなかったが、当のエースが全く気にかけていなかったため、誰も何も言えないままつきあいは続いていた。
「何よお前、だって最初見たとき幽霊かと思ったぞ、その顔つき。ただでさえ怖い顔してるんだから、少しは愛想良くしろって何回オレ言ったっけ」
 サンジが持ってきたカップの中身をティースプーンでくるくるかき混ぜながら、「昔より遙かに怖え顔してるぜ」と付け足した。「お前自覚ねぇの?」
 ゾロはしばらくエースの手もとを見ていた。くるくる、くるくるとスプーンが回る。もういい加減砂糖も溶けただろうに。レモンをさっと入れてまたすぐスプーンで取り出してソーサーのフチに置いた。大きな手に似合わない器用な指が白いカップの取っ手をつまんで持ち上げる。持ち上げた先にはエースの顔がある──。

「エース」
 ようやくゾロはエースの顔を見て言った。
「ん」
「アンタ、専攻は心理学だったよな。夢の分析とかってできるのか?」
「…オレは心理療法士だよ、ゾロ。今のお前の顔見て放っておけるか。言ってみろ、聞いてやるから」
 ゾロはまたエースから視線をはずして、窓の外へと投げかけた。まだ朝の光が残って庭先のバラの葉をきらきらと反射させている。そういやバラはアレキサンドラが植えたんだっけ。派手な大輪の花はアイツらしいな、と思ったんだった。何も手入れしてないのに、いつの間にか蕾があんなに大きい。来週あたりには綺麗に咲くだろう。
「……眠れねぇんだ」
 視線を窓の外から動かさずにぽつりとゾロは言った。
「……どこで寝ても、同じ夢を見る。必ず見るんだ」
 そしてゾロはぽつりぽつりとエースに夢の話しをした。


「──で、お前はその腕の人物の心当たりはねえのか」
 一通り話し終えるまで、エースは黙ってゾロの語るがままにしておいたが、一段落ついて最初に確認した。
「ねえ。アレキサンドラかとも思ったんだが…。あの腕はなんか違うんだ。なんかこう…逆らえない感じがする」
「白いんだな? そして奥さんかとも思った、つうことは、その腕は女性なんだな?」
 コクリ、とゾロは頷く。
「闇の中に浮かぶように白く発光していた。指もしなやかで、多分、「綺麗」な腕なんだと思う」
「で、お前はそれが怖くて逃げ回っていた、と」
 またコクリ、と頷いた。
「ふうむ……」
 エースは顎に手を当てて考え込んだ。
「お前、亡くなった奥さん以外につきあったことのある女の子っていたっけ?」
「ねぇよ」ゾロは微苦笑しながら即答した。
「そうだよなぁ。お前は研究室か道場のどっちかで必ず捕まえられたし。結構キャンパスの女達の注目を浴びていたってのに、それにカケラも気付いてなくてな。オレなんざ女に興味ないのかと密かに心配していたんだが、上手く奥さんの方からお前を捕まえてくれたんでほっとしてたんだぜ。美人で明るくて、いい奥さんだったのに、残念だったな」
「…………」
 ふ、とまたゾロは視線を逸らした。エースはそれを妻を不慮の事故で失った痛みがまだゾロの中で癒えていないからだととって、何も言わずにまた紅茶を口に含んだ。

 暫くふたりとも沈黙したまま数分が過ぎる。エースはゾロが口をきく気になるまでゆったりと構えて待つことにし、お茶うけに出されているクッキーをさくさくと口に放り込んだ。
「美味い。これ、アンタが焼いたの?」
 ぐるりと振り向いてソファの向こうにひっそりと控えているサンジにそっと声を掛ける。
「はい。お口に合えば嬉しく思います」
 サンジも合わせて声を落として返答した。その時。
「……アレキサンドラは、あの夜、俺と別れる、って言ったんだ」
 誰に聞かせるでもない、低い声でゾロが言った。
「俺が殺したようなもんだ。俺はアイツを愛してないとなじられた。アイツは飛び出していって、そして……帰ってこなかった、永久に」
「だが、アレキサンドラは身ごもっていた、と後日検死官が来て言ったんだ。俺はもうわからなくなった。エース、アレキサンドラは一体誰の子を宿していたんだろう? アイツは俺からの愛情を欲しがっていながらも、他の男と通じていたんだ」
「ちょちょっと待て。だってお前の子って可能せ……」エースはゾロの目を見てそれ以上の言葉を呑み込んだ。
 ゾロは微かに、だがきっぱりと首を振ってエースが呑み込んだ質問を否定する。
「…………」
 今度はエースが黙り込む。ややあって。
「やっぱりアレキサンドラに対して負い目を持っている部分がそうやって夢に出たと考えるのが一番自然なんだが……」
 エースは言いづらそうに口を開いた。
「…もうひとつ可能性がなくもない。望まれていたのかどうかわからないまま失われた命。お前はそれに負い目を感じているんじゃないか? 」
「…そう…なのか?」
「自分ではわからないだろうけどな。多分お前は奥さんが亡くなったこと以上に、奥さんが新しい命を一緒に黄泉の国へ連れて行ったことがショックなんだと思う」
「…………」
「お前、昔言ったことあるよな、自分を生んでくれた母親の顔は知らない、って。それに関係してないか? 夢に出てくる腕は、もしかするとお前の母親の腕ってことは考えられないか?」
「悪ぃが……何も思い当たらねぇ。どんなに考えても母親の記憶なんてねぇ。気がついたら養父母と一緒に暮らしていて、それ以前の記憶が一切ねぇんだ」
「──!! お前……自分の記憶は何歳ごろからあるんだ」
「ええと、ほとんどおぼろげなんだが、養母が何か俺にむかって必死に話しかけてて、『なんでこんな哀しそうな顔をしてんだろう』って思ってるんだ。俺が。多分3歳か4歳くらいだと思う。飴をくれて、すげぇ美味いって言ったら笑ってくれて、ほっとしたんだ。それが多分一番古い記憶だと思う」
 エースは絶句した。実母の記憶どころか、幼い頃の記憶がごっそり失われているとは。普通物心つかないうちに養子に入ったならば養父母を実の父母と思いこむことが多いが、ゾロにはきちんと養父母を他人として認識していながら、それ以前の記憶がないというのは異常だ。

「いいかゾロ。お前にはあまり受け入れ難いことかもしれないが、お前の失われた記憶が鍵になっている可能性がかなり高い。おそらく幼いお前にとって非常にショックな出来事があって、お前の精神がブレーカーを強制的に下ろしてしまった状態なんだと思う。それが、今になって奥さんの一件でそれが浮かび上がって来ているんじゃないだろうか」
「じゃあ、腕の持ち主はその過去の記憶の中にあるというわけか?」
「あくまで、可能性、だ。その可能性もある、ということだ。ただもし、お前が辛い記憶を思い出したとしても、今のお前はもう3歳4歳の小さな子供じゃない。充分成熟したひとりの大人の男だ。きっと克服できるはずだと俺は思ってる。そうして、辛い記憶を受け入れ、己の中で昇華してしまえば、当然腕に悩まされることはなくなるだろうな。腕に追いかけられるというのは、ねじ伏せて忘れたことにしている記憶が蓋を開けて出てこようとしていることの現れだろうから」
「そうだな…その可能性は高そうだ。ありがとう、エース。とりあえず原因だけでもなんとか辿るめどがついた。どうしたらいいか対処が全くわからねぇのが一番苛つくからな。まぁ、俺ももう充分大きく成長したし、ここらで自分のルーツを確認しておくのも悪くねぇかもな」
 ゾロの前向きなセリフにエースは心底安堵した。正直、かなり根が深そうなケースだろうとまだ不安は残る。少なくとも肉親による虐待はあっただろうと思われた。ただ、大学時代に会ったときのゾロはそんなことはまるきり感じさせない芯から真っ直ぐな若者だったし、多少口下手なところはあっても周囲の人間に対して発する言葉はいつも真摯で実直だった。そして何よりゾロの振るう竹刀が雄弁にゾロのその真っ直ぐな性質を語っていた。養父から教わったという剣道がきっと傷ついた幼いゾロを癒し、その後の人生の指標にもなったのだろう。エースは会ったこともないゾロの養父母に心の中でそっと頭を下げた。
「いいか、くれぐれも無理して思い出そうとはするなよ。何か困ったこと、不安に感じることがあったら、オレに連絡をとれ。いつでも聞いてやるからな」
 本当はもっと頻繁に会って話を聞いてやりたい。通常カウンセリングは患者と何回も会って話しをして、一緒に解決の糸口を見つけてゆくものだが、残念なことにエースが住んでいるのはこの大陸の反対端で、今回はたまたまこっち方面に出張して時間がとれたから寄っただけなのだ。定期的に直接会える距離ではない。
「おう、大丈夫だ。俺は実のところ、仕事の量を減らしててな。好きな研究を家でひとりでやってることが多いんだ。誰にも気兼ねのない一人暮らしだし。家のこととか、あと仕事の上でも秘書みたいなことは全部コイツがやってくれるしな」
 くい、と軽く顎でサンジのことを示しながら軽い調子でゾロが言った。ゾロ自身、自分でも自覚しているほど深く悩んでいた夢の問題が、少なくとも解決の糸口が見えたことで気分がかなり上を向いていた。
「サンジ、お茶なんかより酒持ってこい、酒」
「マスター、お酒を召し上がるにはまだかなり日が高うございますが」
「何を義務教育の道徳教師みてぇなこと言ってんだよ。いいんだよ、エースとは随分久しぶりの再会なんだ。少しばかりアルコールで口の回り具合をよくしないとな。会う人間によってはこういうこともあるってこと、しっかり覚えておけよ」
「かしこまりました。ただ今ご用意いたします」
 エースは最初に見た時よりも早くも表情が明るくなったゾロを見て、同じく顔を緩ませる。
「しっかし、よく出来てるねぇ。最近のアンドロイドってみんなこんなん? な、わけないよな。フツーに見かけるのなんか、もっと表面とかロボットロボットしてるしさ。声だってもっと抑揚がないし。それになんと言ってもさっきのやりとりなんてとてもロボットとは思えないよ」
「いや、まだまだだ。俺が目指してるのァ、あんなもんじゃねぇからな」
「くくっ。あの子の眉毛、お前なんであんなにしたの。確かにあんなのロボットじゃあり得ないけど、人間だってあり得ねぇぞ」
「…いいじゃねぇか。ちょっとしたお遊びだ。だって毎日毎日顔突き合わせてんだぞ。整い過ぎてるのは気持ちわりぃからな」






 

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