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竜の覇者(1)




 冷たい朝の空気の中に顔を上げて東の空を見やると、たなびく細い雲の間から、赤ノ星の不気味な光がそこだけ毒を掃(は)いた様に鮮やかに見えた。
 ゾロははぁ、と吐いた息が白くなるのを見てから、そっと窓から突きだしていた頭をそろそろと引っ込めて暖かい室内をぐるりと見渡した。
 ゾロはもう十一巡歳。あと一年後には竜騎士の候補生として孵化ノ儀のあの熱い砂の上に立つ資格ができるくらい大きくなった。だけどまだ今は一年後でもなく、竜騎士でもなければ、その候補生ですらないただの子供にすぎない。早く起きて、竈(かまど)の灰をかきだし、決められた場所に捨てて新しい火をおこしておくのは、ゾロと同様この大厳洞に起居している子供達に与えられた役目の一つだ。

 今日はゾロが当番にあたっていた。まだしんと静まりかえった朝の気配の中に、ひとりだけ起きて動いているのはしかし嫌いではなかった。夜明けの色が徐々に変わっていくのを見たり、大厳洞の縁にぽつんと一頭だけ留まっている見張り竜のシルエットが段々くっくり浮き上がってくるのを見たりするのは、心躍(おど)るとは言わないまでも、充分子供の素直な心にわくわくとした気分をもたらした。
 ちらり、とまた東の空に目を走らせる。

 ──赤ノ星が目ノ岩に掛かってる──

 それが意味するところを大厳洞の住人で知らない者はいない。たとえゾロのように何者にもなっていない十一巡歳の子供であっても。
 今日は糸降りがある。大厳洞の統領と統領補佐たち、そしてもちろん洞母とが工舎の工師達と討議を重ねて造り上げた周期表に予定されていた通り。
 糸降りの間は外へ出ることは出来ない。子供も大人も全てだ。ただし竜と竜騎士は違う。彼らは大厳洞だけでなくこの星全ての住民を、その土地を守るために、勇敢にも空を駆けて糸──空から降り注ぐ糸胞状の有機生命体を空中で焼き払う。
 糸胞状のこの生命体は、強烈な酸状の液体を吐いて触れるもの全てを溶かし、人や家畜には大やけどを負わせ、作物には甚大な被害をもたらす。岩や硝子(ガラス)や鉄の鎧戸の上に落ちたものはそれ以上浸透することはないが、肥沃な土地に落ちたものは、土の中にもぐり込んで土地全体を枯らせてしまう、実に厄介な、いやこの星上に住む全ての生きとし生けるものにとっての「災厄」であった。

 ゾロは赤ノ星の禍々しい光を見て、ぶるりと背中を走るものを自覚しながらも、目を離すことはしなかった。
(俺だって、いつかきっと竜を感合して、その背中に乗って一緒に空を駆け、糸と戦うようになってやる)
 竜騎士は男の子にとっての憧れであり、そして全ての人間の尊敬を集める至高の存在であった。誇り高く、勇敢で、ただ一頭の竜と心を通わせて空中を自在に飛ぶ。この星の空を、どこでも、いつでも自由に行き来できるのは竜騎士だけだ。
 ゾロも竜に乗せてもらったことはある。間隙に入ったことすらも、この大厳洞へ来たとき一回だけあった。

 ゾロの両親はこの大陸のここからはもっと東に位置するテルガー大厳洞の統領と洞母で、ゾロはその身に由緒正しい竜騎士の血統を宿していた。両親が竜騎士だからといって、必ずしも竜に選ばれるとは限らないが、それでもゾロは選ばれるに違いないと子供らしい確信を持っていたのである。
 血が濃くなりすぎるのを避けるため、そしてよい血統をできるだけ広範囲に広めるためとして、ゾロのように両親が健在でも別の大厳洞に養い児に出されることはよくあることだった。また血統が云々とかいう以外にも、他の土地の工舎や城砦へと養い児を互いにやりとりすることは、文化と知識の交流のために奨励されていた。

 ゾロは自分の実の父親であるテルガー大厳洞の統領、ミホークの鷹のように鋭い目を思い出していた。
『ゾロよ。常に正しいと思うことをせよ。正しいかどうかわからなくなったら、自らを誇れるかどうかを胸に問いかけよ。誇りを持って成すことはおのれの指標となる……わかるか』
 その時ゾロはミホークの青銅竜、ヒマスに乗せられていた。背中にあたる父の固い体躯、後頭部から聞こえる平坦な声がいつになく真摯に響くのが不安になって、首を後ろにねじ曲げて父の顔を下から覗き込んだのだった。ミホークはゾロの様子などまるきり気に掛けず、真っ直ぐ前を見る視線を動かさないまま、言葉を続けた。
『誇りは、竜騎士にとって最も大切なものだ。例え皆からそっぽを向かれ、心ない言葉で貶(おとし)められようとも、自らを恥じることなく誇れるのならば、それでよい。自分の竜を信じ、自分に誇りを持って真っ直ぐに立っていられること、それが一番大事なことだと知れ』
『はい、父上』

 それはこのハイリーチェス大厳洞に運ばれて養い児としての生活が始まる直前の父子ふたりだけの会話だった。そして間隙に入り、極寒の空間に息を止めた次の瞬間、ハイリーチェス大厳洞の上空に出現してすぐ降り立つと、それ以上父子は会話らしい会話も交わさずに別れたのだった。

 ゾロはミホークとは通常一般の父子ほど近しく交わった記憶がない。大厳洞の統領ともなれば、一時には数百人ともなる住人たちのリーダーであり、最も責任ある立場で全員を統率しなければならないが、一番の責は糸降りの時の飛翔隊の采配にある。ミホークはその点、非常に優秀な指揮官であり、ゾロは近い存在でありながら、父親を憧れと尊敬の目で見、胸の内でそっと自慢に思っていた。
 父親が統領として多忙だというのならば、母親はさらに多忙を極めていた。大厳洞ノ統領の伴侶は大厳洞ノ洞母であり、それはすなわち大厳洞の住民の生活の全てを担っているということだった。女王竜の騎士として、糸降りの時には女王竜部隊の一員として飛びつつ、普段の時は大厳洞へ持ち込まれる十分の一税の分配や配分や、諸処の諍(いさか)いの制定や、竜や竜騎士の健康状態や、竜児ノ騎士たちの教育などにも全て心を配らなければならない。

 大厳洞ノ統領と洞母の息子として、地位としては高いものではあるものの、実際に両親とゆっくりと談笑したり遊び回ったりした記憶は少ない。ふたりとも担った責務を優先せざるを得ず、ゾロは生まれた大厳洞の中ですら下ノ洞窟ノ長やその他女人たちを養母代わりとして、他の子供たちと共に育ってきたため、正式に養い児に出されることとなっても、慣れ親しんだ大厳洞を離れる寂しさはあるものの、両親から離れることへの不安はそれほど感じなかった。かといって両親とゾロの間の愛情が稀薄だというわけでもなかったのであるが。
 テルガー大厳洞にいると、どうしても統領と洞母の子という目で見られがちでもあるし、他の大厳洞でまた余所から来た養い児たちの間で育つのはゾロを鍛えることにもなる。ゾロにしても大人達の打算的な目もなく、自由に振る舞えるこのハイリーチェス大厳洞での暮らしは日々身に馴染んできていた。

 冷えた灰を捨てて、石炭入れを運びこみ、竈(かまど)に火を起こす。石造りの壁にかこまれた部屋が少しづつ暖かさを持ち始めた。もう一度窓から外を眺め、赤ノ星を見つめた。
(いつかきっと。俺だってあの星が現す災厄に戦いを挑む日が来るはずだ。竜の背にうちまたがって──)

 その時、外側の重い扉をどん、どん、と叩く音がした。
 誰だろう? こんな早朝に大厳洞を険(けわ)しい道を辿(たど)って訪ねてくる者なんているはずがないのに。竜騎士ならばどんな時刻だろうと空からやってきてこの大厳洞をぐるりととりまく峰に降り立つから、この扉を叩くような人は普通の人間のはずだ。どこかの隊商が夜中じゅうかけて辿り着いたか、それとも近くの工舎からの使いだろうか。
 そっと脇にある覗き穴から外をうかがう。奇妙なことに、見渡す限り人の気配はどこにも見えなかった。ゾロは眉をひそめた。空耳だろうか? いやしかし、こんな重い扉を叩くような音は、空耳などではあり得ない。あれは大人が力を込めて叩いた音だった。
 閂(かんぬき)を開けて、鉄張りの扉を体重を掛けて開け、細い隙間を作った。外はまだもやがかかって、空気も湿って冷たかった。あたりの気配をうかがって、そしてその時、扉の下にもたれるように何かがうずくまっていることに気付いた。
(子供?)
 それは騎乗衣にくるまれて、ぐったりとしていた。
「おい! おい? おいどうした、大丈夫か?」
 ゾロはそれに手をかけ、揺さぶって呼びかけたが何の返事もない。騎乗衣をめくると青白い顔をした小さな顔が見えたが、固く目を閉じて呼びかけに反応しない。
 ゾロはすぐにとって返して、自分の養い親でもある下ノ洞窟ノ長のマキノを起こした。マキノは自分の養い児がいきなり「外に子供が行きだおれている」と手を引っ張っても、それは特段驚くようなことではないといった風に、落ち着いた表情を崩さずにゾロについていった。
 すぐさまその子供は運びこまれ、療法師が呼ばれた。療法師の見立てでは、右脚が酷く折られ、治ってもびっこをひくようになるだろうということ以外は、全体的に衰弱して弱り切っているだけらしかった。
「ずいぶんガリガリな小僧っ子だなぁ。ろくなモン食べていないようだ。栄養失調一歩手前だろう。脚をまず治すにしても体力がないだろうから、まずは休養と栄養をたっぷりとることだ」
 大厳洞ノ療法師はまずそう言って、右脚のズボンを切り裂き、添えてあった棒状のものを取り去った。
「ん? 何だこれ」
 見ると副(そ)え木代わりにされていたのは、鞘に納めたままの短剣だった。
「こんな意匠、ここらのモンじゃないわ。この子供の出身(で)がわかるかも知れない。傍に置いて気がついたら聞いてみましょう」
「この大厳洞の子じゃないって?」
「ええ。少なくとも私は見たことがないわ」
「下ノ洞窟ノ長が見たことがないんなら、大厳洞じゃなく近辺の工舎の子でもなさそうだ。それにこんな痩せてるってことは流れ者か? 城砦や工舎に属さないで流れて生きていくのはかなり大変だぞ。だが今日なんか糸降りがあるってのに、こんな子供ひとりが外にいるなんて、おかしなことだ」
 そしてゾロを振り返って、
「この子を見つけた時、確かに近くに誰もいなかったんだろうな?」
「うん。だけど、その前に確かにその重い扉をどんどん叩く音がしたんだ。だもんで誰だろう? って開けたんだよ。なのに誰もいなくて」
「この子だけが足もとに倒れてたってわけね。顔も見せないで意識のない子供だけを置いていったなんて、どうもきな臭い匂いがするわ。どうせロクなヤツじゃなかったんでしょう。この子は捨てられたのよ。大怪我をして持てあました挙げ句に。そんな保護者は探し出すだけの価値もないわ……まあ、どうせひとりもふたりも一緒だし。これも何かの縁でしょう、私がしばらく面倒をみることにします。ゾロ、地下の倉庫から予備のふとんをもっておいで。とりあえず怪我が治るまでは私の部屋に寝床を作って様子を見ます。その後は……まあおいおいに。まずはこの子を寝かせておく場所をつくらなくては」
 マキノはてきぱきと指示を出し、あっという間にさっと自室に簡易ベッドを作ってそこにゾロに持ってこさせた布団を敷いた。

 療法師は子供の折れた脚を目だけで診察し、痺れ草とフェリスの果汁を持ってこさせた。消毒の役目をする赤草液に手を浸し、ちらりと意識のない青白い顔を見た。「意識のないのは好都合」つぶやきながら、「しかし、もし痛みで意識を取り戻したら、マキノ、フェリスの果汁をすぐ飲ませてやってくれないか」
「わかってるわ」
 そして痺れ草を手にとって患部全体に塗りつけると、そっと脚を持ち上げて歪みのないよう、真っ直ぐの状態にする。「骨が中でくだけていないことを祈るが、問題は筋が切れていないかどうかだ」
 そうっと皮膚の上から指で確かめるように触ってゆく。その時だった。
「う……」
 痛みにか、微かなうめき声をあげて子供がうっすらと目をあけた。
(あ)
 ゾロは僅かな室内の光ですら確認できるほどの目の青さに内心驚嘆の声をあげた。しかし光が宿っているのは右の目だけで、左は僅かに白く濁って明らかに視力がないことがうかがえる。
「目が覚めたか」
 療法師は患部から視線をはずさずに声をかけた。
「お前の折れた脚を今治療しているところだ。我慢できるか。もし我慢できるなら少しだけ協力してくれないか。俺が触っている箇所、違和感があったら言ってくれ。痺れ草を塗っているから、それほど痛みは酷くないはずだから、力を抜いて」
 言いながらも探るような手の動きは止まらずにあちこちをつついている。その子供は自分のおかれた状況を掴むのに少し時間を掛けたが、パニックにならずに穏やかに受け入れ、感覚を療法師の指に集めた。
「大丈夫……たぶん」
「運が悪かったな。もう少し上か下だったら、ただの単純骨折で済んだところだったが。まあ、それでもちゃんと自分の足で立って歩けるまでは回復するだろう。よし、これで済んだ。あとは安静にして、動かさないこと。とにかくゆっくり休むことだ」
「……眠っちゃってるわ」
 子供はフェリスの果汁を与えられたわけでもないのに、またしても深い眠りに落ちていた。
「ゾロ」
 マキノはおとなしく一部始終を見守っていた養い児を振り返って言った。
「お前、この子供の面倒を見ておあげ。とりあえず頻繁に様子を見て、目が醒めたら私を呼ぶこと。いいね?」
 ゾロは横たわる子供から目を離さずに頷いた。

 

  

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