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竜の覇者(10)




 数日後、朝からざわざわとした気配が大厳洞じゅうに満ちていた。すっかり固くなった卵たちを前に、フルールスはもじもじと落ち着かない。
「はいはい、お嬢さん、大丈夫よ。今回もいつもどおりに雛たちは元気に殻を破って出てくるわ」
 洞母ロビンはフルールスに語りかけ、優しく目のふちを掻いてやった。くるくると複眼が興奮のあまり勢いよく動いて虹色にきらめいている。

 もうすっかりお馴染みとなった光景。ずらりと山の縁に留まった色とりどりの竜たち。きらびやかな晴れ着をまとった大勢のお歴々。孵化場の上に整然と並んだ卵と、一段上にうやうやしく離された黄金竜の一際大きい卵。
 竜の奏でるうなり声が低く大厳洞じゅうを駆けめぐる。うなり声がだんだんと大きくなって、新しい生命を迎える歓迎の歌となる。
 白い衣装をまとった候補生たちが、竜児ノ騎士ノ長に連れられて孵化場にやってきた。その後から、今度は同じような白い衣装をまとった少女たち、女王竜の候補生が姿を現すと、招待客たちのひそひそ声が高まった。
「ほら、あそこの背が高い娘、ティレク城砦の太守の二番目の娘ですよ、確か」「名はなんと言ったかな」「ビアン、だと思いました」「あちらの側の色白の娘は?」「織物ノ工舎の出ですわ。たしか織物師ノ長のジリオルが目をかけている子がいると聞いたことがあります」「お、あのブルネットの娘は…」
 いつも孵化ノ儀というものは一大イベントで、自分の属する城砦や工舎の師弟が竜を感合するかどうか、皆期待を込めて見入り、それが期待どおりだったりすれば上機嫌で、期待はずれだと半ば肩を落としながら次回に期待を持ち越して帰路につく。そうして各城砦、工舎で孵化ノ儀に参加できない一般の人々に自分の見た出来事を逐一語り聞かせるのだ。どの城砦、工舎でも誰々の息子や孫や従兄弟などが竜騎士になったというニュースが持ち上がると、周囲こぞっておめでとうと言い合う。
 だから候補者は常に出身地の期待を背負っているし、今回の女王竜の候補はなおさら注目を浴びていた。

 サンジはいつもの通り、祝宴の準備で朝から忙しかったが、いよいよ孵化が始まるというその時は、他の料理人と同様に厨房を離れた。そして自分ひとり他の人間からはさらに離れて、一番目立たない陰となっている通路から孵化場を見渡していた。
 数日前、ゾロに言われたことが頭をよぎる。今からでも候補生に名乗りを上げてみたら…。確かに右足はあまりひきずらなくなって、今では走りでもしない限りそんなに目立たない。竜に乗って飛ぶだけならそれほど問題にはならないかもしれない。だけど、左目のほうはどうがんばってみても見えるようにはならない。あのときゾロは左目の不利は何も言わなかったけど、竜に乗って糸胞と戦うときに、視野が限られるというのはやはりマイナスだろう。
 戦いというのは、常に一瞬の判断が生死を分かつものだ。視野が狭いというのは十二分に候補からはずされる理由になる。
(年齢が足りないなんて議論以前の問題だな)
 ふとサンジは以前ゾロが肴(さかな)にされた竜騎士たちの晩の論議を思い出して、自嘲の笑いで口の端をゆがめた。

 そのとき、最初の卵の殻が割れ、大厳洞じゅうが大きくどよめいた。卵からは褐色の雛が飛び出てきて、きいきいと鳴きながら周囲を囲んだ男の子たちの群れに突き進んでくる。男の子たちの中から、竜と同じような色をした巻き毛の子が一歩踏みだし、雛の前に膝をついて、手を伸ばして楔(くさび)型の頭に触れた。
 感動的な感合の様子にあちこちでため息が漏れる。と、またひとつ卵にひびが入り、そちらの方へも視線が集中する。
 孵化ノ儀は粛々と進み、ひとりまたひとりと新たな竜児ノ騎士が誕生してきた。サンジは自分が絶対にその輪の中に入れないことを胸のうちで噛みしめながら、それでもこの場所からは離れがたく、感合のひとつひとつに魅せられていた。

 半分以上の卵が無事孵ったときに、一段上の黄金竜の卵がぐらぐらと揺れ始めた。大厳洞じゅうの視線がそこへ集中する。
 おお、という声があちこちでわき上がったと思うと、ヒビがすっと縦に入り、最初クチバシが現れ、次の瞬間には黄金色の雛が卵からぽんと飛び出てきた。
 どよめきが一際大きくわきあがる。黄金竜の雛は、どの娘を伴侶に選ぶのだろう? 皆がかたずを飲んで注視する中、その雛はゆっくりと首を伸ばし、ぐるりと周囲をうかがったあと、よたよたと孵ったばかりの拙(つたな)い足取りで孵化場の砂の上を歩き出した。
 それの向かう先に少女たちはひとりもいなかった。

「一体全体、あの黄金の子はどこへ向かおうとしてるのかしら?」
 洞母ロビンが発した言葉は隣に座ったシャンクスに答えを期待したものだったのか、ただの独り言だったのか。
 自分たちに目もくれず、よろよろと歩み去っていく黄金の雛に、少女たちは面食らっていた。
「何なの? 誰も選ばないなんてこと、あるの?」
 ティレク城砦から来た背の高い娘が誰に向かってともなく、声高に疑問を投げかけた。
 今や、興奮のざわめきは困惑のそれにとって代わっていた。
「信じられん! どの娘も選りすぐりの優秀な娘ばかりなのに、選ばないなんてことがあるものか!」「選択の余裕は充分だと思うが…」「しかし、あの黄金の雛はどの娘のところへも行かないですぞ!」
 その中で、ロビンはいささかも動じることないいつもの口調で隣に控えていた飛翔隊長のベンに尋ねた。
「竜が、誰も選ばないということは今まであって?」
「わかりません。私の知っている限りはありませんでしたが…これが最初のケースなのかも」
「でも、竜はけして間違えないわ。必ず正しいただひとりの騎士を選ぶもの。あの雛はきっとあの娘たちでは満足できなかったのでしょう。どこへ行くか、もう少し様子を見てみましょう」
(本当にこの方は──)
 自信に満ちた洞母の言葉に、ベンは内心でこっそり舌を巻いた。
 そしていついかなる時でも動ずることのないロビンの隣で、これもまたいついかなる時でも楽しみを見いだす男が、興味津々といった風に身を乗り出してこの事態のなりゆきを眺めていた。
「俺の大厳洞で初めての非常事態だな、こりゃ」
「そんな愉快そうな口ぶりで非常事態などと言わないでください」
 むっとした口調でベンがシャンクスをたしなめる。シャンクスは口の端を大きくにやりと吊り上げながら、黄金竜の雛から視線をはずすことなく言った。
「だってさ、このままあの雛がだれも選ばずにいたら、一体全体次代の洞母はどうなる? そしてあの雛は野良竜になるってことか? 野生に帰った竜なんて大厳洞が始まってから一回も聞いたことないねぇ。「竜は竜騎士と共に有るもの」だし。生まれたその時から共生者がなくては生きられないはずだろ? 非常事態じゃあねぇか」
「なのに、なぜ貴方はそれを楽しそうに言うんですか」
「焦ってみたって事態は変わらねぇからなあ。なら楽しんじゃったほうが得ってモンだ」
「損得の問題ですか!」
 さすがにベンが切れかける。
「まあまあ、遊ぶのはそれくらいにしなさいな。候補者だけがここにいる人間てわけではないのだから。候補者の中に伴侶が見つけられなければ、誰か他の娘を感合するのじゃないの?」
「ですが、あそこにいるのが一番伴侶にふさわしい年ごろの娘たちなんですがねぇ。あとは娘というにはちょっと熟しきってるか、まだつぼみにもならない幼児くらいしか…」
「俺はどちらかというと熟した方が好みだな。案外あの生まれたてのお嬢さんもそうなんじゃないの?」
「いい加減になさい! 一応この大厳洞ノ統領なのだから、少しは体面ということを考えてちょうだい。軽々しい言動が漏れて噂になったらどうするの。それでなくても貴方は軽く見られがちなんだから…あら、あの雛はあんな隅っこで何をしてるのかしら?」
 黄金竜の雛は広い孵化場をよたよたと横切って、反対側の端まで来ていた。長い首を打ち振りつつ、何かを探しているようでもある。
 そのとき、雛が弱々しい鳴き声をあげた。それは何かを問いかけるような声で、孵化場に響いた。
 上の方で成竜が励ますように低い唸り声を返すが、それは雛の問いかけに応えたものではないと誰もが直感した。
「誰を捜しているんだ?」あちこちで声があがる。


 サンジは、自分の閉ざされた可能性にすっかり思考を沈ませていたので、最初目の前の孵化場が異様にざわめいているのに気づかなかった。徐々にそのざわめきの中心が近づいてくるのに気づいて、一体何が起こっているのだろうと思った瞬間、その声が頭の中に響いた。

(ワタシガ、キライ?)

 誰が一体話しかけているのだろう? サンジは狭い通路を見渡した。しかしその声は空気を伝って耳から響くものではなかった。

(ネエ、ココニキテヨ)

 同じ声。どこへ来いって?
 サンジはこの足は永久にこの場所に張り付いてしまったんじゃないだろうかと思った。頭は呼び声に嬉々として反応し、飛んでさえ行きたいくらいなのに、足が重い。
 行くよ。今、すぐ。
 声に出さずにサンジは頭の中で応えた。
 力づけるようにできるだけ落ち着いた思考を形作りながら、サンジは通路を一歩づつ前に進んだ。いいのだろうか? このまま歩き続けて。あの大観衆の前に姿をさらして。
 すると孵化場のざわめきの中心から弱々しく問いかける鳴き声が聞こえ、同時にまた同じ声が頭に響いた。

(アナタデナキャダメナノ。ネエ、ワタシノコトガ、キライ?)
「嫌いなわけがあるか!」

 サンジは声に出して叫び、残りの数メートルを走り抜けた。孵化場とを区切る仕切りを手もつかずに勢いだけで飛び越えると、次の瞬間熱い砂を撥(は)ねかして孵化場に降り立っていた。
 いきなり現れた闖入者に、ひな壇の上までみっしりと詰めていた観客は驚きのあまり息を呑んで静まりかえった。
(ヤットキテクレタ)
「大丈夫。ごめん、不安にさせてしまったね」
 そうして、サンジは女王竜の雛と正面から向き合った。黄金色に輝く鱗はまだ柔らかさを残し、濡れた翼は長い距離を歩いたせいで力なく地面に垂れ下がっている。しかし虹色にくるくると輝く大きな複眼は正面からサンジの視線を捉え、うれしさを隠しきれずにめまぐるしく色をうつろわせていた。

 魂がかちりと音をたてて繋がったようだった。

 喜びが脳天からつま先までまるで電光のように走り、同時にすべての不安を心からぬぐい去って安らぎがサンジを満たした。
(ワタシハ、らてぃえすヨ)
 そうして、サンジと、女王竜ラティエスの感合は果たされた。



 大厳洞じゅうが針が落ちてもわかるくらいに静まりかえった。
 その一瞬後、喝采とも歓声とも異なる声で山が震えた。
「前代未聞ですぞ!女王竜が男児を選ぶなんて!」
「そんなこと認められませんな!」
「男の洞母ですと? あり得ない!」
 このかつてない結果に観衆はどよめき騒いだ。ある者は周囲にむかって自分の意見を声高に言い立て、ある者は目と口を丸くして声を失い、ある者はこの騒ぎ自体を面白がってにやにや笑っていた。
 女王竜が誰も選ばないのでは、という危惧から一転、思いもしなかった選択に誰もが驚き呆れ、そして不安を覚えたのである。

 ──凶兆だ──
 そういったささやき声が観衆の中を渡り始めたのを耳にして、すっくとロビンが立ち上がった。同時にロビンの思念に呼応してフルールスが一声、長く雄叫びを上げた。聴衆は思わずしんとなる。
 皆が自分に注目しているのを確認したところで、ロビンは低いがよく通る声で淡々と宣言した。
「もう感合は果たされました。『竜が』選んだのです。竜の決定は全てです。大事なのは、性別などではない。あの子が、あの竜が生涯を分かち合う伴侶としてふさわしいと選ばれたということ」
「ですが、洞母──」
 反論しかけたのはティレクの太守だった。黒々とした髭をたくわえ、娘と同じ長身の偉丈夫は声も朗々と響き渡った。
 それを片手を挙げただけで遮(さえぎ)って、ロビンはす、と視線をサンジとラティエスに移し、
「竜はけして間違えない。そして何事にも始まりと終わりがあるものです。女王竜が今回初めて男児を伴侶に選んだのも、いつか間違いではなかったと知る時が来るのでしょう。私たち竜騎士は──」
 そこで挙げた片手を手のひらを上に向け大きく弧を描くように拡げた。
「大厳洞に属するもの。そして竜は竜騎士と共に有るもの。これは大厳洞の意志でもあります。竜騎士なら判るでしょう。今眼前で果たされた感合に感動を覚えないものはいないはず。あの子たちの絆はわたしたちの絆と何ら変わるものではありません」
 ふ、とロビンはそこで軽くほほえんでみせた。
「もしかすると、私たちはとても大事な時代の変わり目に立ち会ったのかもしれませんよ? 後世の歴史家がじだんだ踏んでなぜその場に自分がいなかったのかと悔しがるような。まあ、それは期待のしすぎかもしれませんが、しょせん吉兆などは捉え方ひとつ。それなら吉事と見なして受け入れたほうが穏当(おんとう)というものでしょう」
 最後はにっこりと穏やかに笑んでみせ、隣のシャンクスにだけわかるくらいに微(かす)かに頷いた。
 そのサインをあやまたず受けてシャンクスがさっと立ち上がる。
「さあ、今回の孵化ノ儀もすべて終わりました。あちらの宴席へと場所を移して、新しい誕生を共に祝いましょう。この日のためにとっておきのベンデンの白を用意してあるんですが、どなたが味見につきあってくれるんでしょうかな?」
 ベンデンの白葡萄酒だと? まさかこれだけの人数に行き渡るほどあるとは思えんが、などと口々に言いながら人々はひな壇からゆっくりと移動を始めた。「まあ当の統領と洞母が認めるのならば、部外者は何も言えんよ」「実際に何が起こると決まったわけではないし」「そうさフルールスだってまだまだ黄金の卵を産むだろうし」「一組くらい毛色の変わったのがいたってそれですぐに大厳洞が廃(すた)れるなんてあり得ない」と最初の驚きが過ぎ去ってみて多少冷静な思考ができるようになると、人々はこの前代未聞の出来事もなんとか受け入れられるようになってきた。


 

  

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