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竜の覇者(15)




「市がたつよ! 来月の朔日にティレク城砦で市がたつ!」
 その報せがもたらされて、大厳洞中は一斉に色めき立った。糸降りの期間ではあったが、糸が降る予定の日の間をぬって庇護下にあるティレク城砦で久しぶりに市が立つという。大勢の物売りが屋台を出すだろうし、太守からの振る舞いの催しもある。竪琴師たちの演奏会や、早駆け獣のレースや、とにかくお楽しみがたくさん企画されているに違いない。
 大厳洞からは当然統領と洞母は招待されているだろうが、その他に当番の見張りや巡回の騎士や仕事を持っている居残り組以外は自由に市に行って楽しんでよいと統領直々にお達しも出た。
 何を着ていこうか、自分の手持ちのマルクはどれくらいあるかといった話題がそこここで話しこまれるようになった。
 若く、身分の高い竜騎士たちは当然、華やかな衣装に身を包んで、新しい出会いとうまくいけば一晩の逢瀬を楽しむことに気持ちを浮き立たせ、そこまではいかない童児や下働きなどの人間たちも、溜め込んだマルクをここぞとばかりに持ち寄って、レースにつぎ込んだり、葡萄酒の樽や屋台での炙り肉や焼き菓子などに費やすことに思い馳せていた。
 サンジも、周囲の雰囲気が浮き立っているのに呼応して何となく興奮めいたものを覚えていたが、これといった目的もないし、まだ竜児ノ騎士で訓練途中の身でもあるし、何よりもともと身分が低く富裕の出でないため自由になるマルクがほとんどなかった。

「今日は訓練も休みだし」
 今日は市が立つという当日、つやつやになるまで油をすり込んだラティエスに向かって言った。
「上の山の湖にでも出かけてのんびり一日過ごそうか」
(さんじガヨケレバ、私ハ何ダッテイイワ。南ノ斜面ニハ太ッタ野生ノふぇりガイルデショウシネ)
 ラティエスののんびりとした声がサンジを満たした。その豊かな声にいつもながら安らぎを覚えて、つかの間近寄って来た足音に気づかなかった。
「なんだよ。おまえ、市に行かねぇの?」
 慌てて振り向いたら、琥珀色に光る目とぶつかった。
「え…ゾロ。だって、俺、着ていく物もマルクもねぇし」
「そんなん。出世払いで貸してやっから。未来の洞母が市に行かないでどうする」
「やめろよっ!」
 サンジはそのゾロの言い方にムッとして伸びてきた手を振り払った。
「俺、そんなんで目立つのは嫌なんだよ。ただでさえいっつも──」
「…悪かった」
 ばつの悪そうな口調でゾロは素直に謝った。
「どっちにしろ、竜児ノ騎士たちはまだ自分の竜で飛んで行くのは禁じられているんだろ。俺がバシリスで連れてってやるし、一般の城砦民にまでおまえの顔は知られてないだろ。普通の竜児ノ騎士だって顔してろ。せっかく一年に一度あるかないかの市を逃すすべはないぜ。何せお祭りなんだからな!」
 いつも糸胞と竜のことしか頭にないようなゾロすら浮かれた気分を隠しもしないでサンジを誘った。サンジはそれが純粋にゾロの好意から出ているのだとわかっていたため、断る口実が見つけられなかった。

「よし、じゃあ決まりだな! こっちこいよ!」
 何も言わないのを了承のしるしととって、ゾロはサンジの腕を掴んでぐいと引っ張った。駆け出そうとしてふと振り返り、ラティエスに向かって言う。
「悪いが、今日一日、コイツを借りていくから。あんたとの仲を邪魔する気はさらさらないし、あんたと居るのがコイツにとってすごく大事なんだって知ってるけど、コイツには全く違う刺激と息抜きが必要なんだ。わかってくれるよな?」
 深く一礼して、これで礼は尽くしただろうか、とラティエスの切り子細工のような目をのぞき込む。バシリスを通じてラティエスの許可の言葉を受け取ると、ゾロはこれで何の問題もなし、とサンジをせきたてて自分の岩室へと駆け込んでいった。
(まるで、ガキん頃に戻ったみてぇ)
 引っ張られるままにゾロの後をついて行ったサンジは目をまだ丸くしたまま思った。昔、まだサンジがここへ来た頃、大厳洞に早く慣れさせようとゾロが毎日あちこちへと引っ張り回していたのだった。サンジは右も左もわからず、またゾロも毎回違う通路を使うので(後で知ったがゾロもまた通路をうろ覚えだったらしい)、毎日一体どこへ行くのかわくわくしながらついて行ったものだった。
 さすがにこの年になるとゾロは通路を間違えることはなかったが、ゾロの起居している岩室へ入るのは初めてだったのでサンジはぐるりと珍しそうにあたりを眺めわたした。

 住居スペースとしてはサンジのそれと大差なかった。ただ筋力を鍛えるための道具がそこらじゅうに散らばっているのが、サンジの目には珍しく、そして同時にゾロらしいと思った。
「何があるかなぁ」
 ゾロは自分の衣装箱をひっくり返してサンジに合うような服をいくつか手に取った。
「俺もそんな衣装持ちってわけでもねぇし…」
 内心しまったと思ったのだろう。右手に黒、左手に灰色の布地を持ち、サンジの顔をちらちらと窺う。その視線にサンジは思わず吹き出し、ようやくくつろいだ声を出すことができた。
「いいっていいって。誰もおまえのセンスなんか期待してねぇよ。そっちの黒いのよこせ。それがサイズ的にもよさそうだ」
「けど、黒だぜ? お祭りにこの色はねぇんじゃねぇの?」とりあえずばさっとサンジに投げつけながらゾロは言った。
「かまわねえよ。そんなの誰も気にしやしねぇだろ。まだ実戦にも出てねぇヒヨッコの竜児ノ騎士が黒着ていようが灰色を着ていようが大差ねえって。赤いドレスでも着てたら別だけどな」
 素早く着ているものを脱ぎ、ゾロが放ってよこした衣装を身につけながらサンジが言った。ゾロは黙ってその様子を眺めていたが、サンジの身体が昔知っていたそれよりずっと青年らしくなっていることに気づいた。
「さ、これでどうだ? 黒だって悪かねぇだろ」
 ゾロが持っていたにしては細身のズボンはサンジの長い脚をこれ以上なく長く見せ、同色の上着は肩幅はゆったりとしていたが、胴回りに向かって細くくびれ、後身ごろの部分だけがウエストからゆったりひらひらと長く伸びていて、その部分が唯一装飾らしいといえば装飾らしかった。色は黒一色と地味ではあったものの、サンジが着ることでその衣装もそれが持ち得なかった華やかさを醸(かも)し出していた。その上、サンジの金髪が黒色の上に照り映え、思いがけない相乗効果を出していた。
「…ま、いいんじゃねぇ…」
 ゾロはかろうじてそれだけを言った。一瞬見とれたなんて口が裂けても言えなかった。
「おう、これにうちの大厳洞の記章をつけていけばいいだろ」
 サンジはにかっと笑って言った。

 ゾロは自分用には、初陣を見事に済ませた記念にとマキノからもらったものを着た。それは手触りのよい、濃い緑色の生地でゆったりと仕立てられていて、ゾロのような若者が着るには少々落ち着いた色あいだったが、ゾロが派手な色を好まないのをマキノは熟知していて、この服を贈ったのだった。
 ゾロは自分では生地選びから仕立てまで頼めるほどセンスがないのを自覚していたので、マキノの心づかいに大層感謝していた。実際ゾロの琥珀色の目にその深い緑色はとてもよく映えた。
「じゃあ、行くか」
 二人揃ってバシリスに跨る。ゾロが先にバシリスの前脚に足を掛けてよじ登って首の後の定位置に収まり、サンジがすぐゾロの前に乗った。ちらり、とサンジの頭に少し前に同じようにゾロの前にこうやって乗ったことが思い起こされたが、すぐにバシリスが強く羽ばたいて狭い岩棚から直接飛び上がったのでこれから向かう市へと意識を戻した。
 二人を乗せた青銅竜はぐいぐいと上空へ上がると、すぐさま間隙へ入った。何もかも感じ取れなくなる間隙には瞬き数回分の間だけしかいなかったが、サンジは背中に触れているゾロの熱い身体がどくどく言っているのが聞こえたような気がした。ただそれもほんのつかの間で、次の瞬間にはティレク城砦の上空で太陽をいっぱいに浴びながら優雅に滑空していた。
(ドコニ降リヨウカ?)
 バシリスの質問にゾロが声に出さずに少し外れた空き地を示す。二人をそこで降ろすと、バシリスはさっと身軽に飛び立って、他の竜たちが揃って日だまりを楽しんでいる城砦の屋根の縁にその身をねじ込んだ。

 青銅竜が降ろした客人を見ようと数名の城砦民が寄ってきたが、二人は「こんにちは。素敵な市ですね」とあたりさわりのない挨拶だけをしてそそくさとその場をすぐ去って、人混みの中に紛れこんだ。竜を間近で見る機会など滅多にないし、竜騎士と会話をする栄誉も普段持ち得ないため、普通の城砦民はこういった市の時に大勢の竜と竜騎士が来訪することを喜ぶ。ましてや青銅竜ノ騎士ともなれば憧れの目で見つめられ、年頃の娘で勇気のあるものは自分からすり寄ってくるものだった。物慣れた竜騎士はそれを逆手にとって上手く遊ぶこともよくあるが、ゾロはまだそんなことまで思い至るほど遊び慣れていなかった。飛翔隊長すら時折唸らせるほどの技量の持ち主ではあったが、精神面ではまだまだ若く、今もとにかくいい匂いのする方向へ早く行きたくて、サンジをぐいぐいと引っ張って人とぶつかりながら屋台のたくさん並んでいる方を目指していた。

 市は盛況だった。屋台の呼び声があちこちで聞こえ、香辛料の効いた肉の焼ける匂い、葡萄酒の香り高い匂い、焼き菓子の甘い匂いが混じり合っている。向こうの方から聞こえるのは舞踏会場の音楽だろう。時折わっとはやし立てるような声が風に乗ってやってくる。
 ゾロは自分とサンジ用に炙り肉の大きな塊を買い、それを酸味のきいた赤葡萄酒の大きな杯をあおりながらがつがつと食べた。肉はとても軟らかく、肉汁が指を垂れてきたのを余さず舐めとって、満足の吐息を付いた。
「大厳洞の食事が不満てわけじゃねぇが…」
 ゾロは口に残る肉の油分を赤葡萄酒の酸味で流しながら言った。
「やっぱ、市の屋台で食う肉は別の味がする気がする」
「別の味って何だよ」
 サンジに突っ込みを入れられながら、ゾロは素知らぬふりで傍の屋台から今度は巻き肉を串に刺したものを買った。
「肉ばっかじゃ太るぞ」
「こんなぽっちで太るもんか。それよかおまえはもっと肉食え。俺よりマッチョになるって言葉はどうしたよ」
「そんなこと今言わなくたっていいだろ…」
 俺はちゃんと食うものは食ってる、とサンジはもごもごと言い、ゾロを睨もうとしたが周囲にあふれかえる人々の楽しそうな声、遠くから流れてくる竪琴師の楽の音、そこかしこから流れてくる香ばしい匂いに、厳しい顔を作ろうとしても出来なかった。思わず笑い、差し出された巻き肉に大きくかぶりついた。

 二人は腹ごしらえが済むと、ぶらぶらと染物師や雑貨や皮職人などの屋台を冷やかしながら、早駆け獣のレース会場へと向かっていった。舞踏会場へ行っても二人とも踊り方を知らなかったし、竪琴師の舞台は後回しにして、とりあえずレースなら賭けをしなくても見ているだけで面白そうだった。
 すれ違う人たちは地味な色をまとった二人の若者にほとんど注意を払わなかったが、目ざとい人たちも数名いて、二人の記章から大厳洞の住民だと見て取り、気軽に声を掛けてくる。あたりさわりのないやりとりを交わしつつ、自分の属する大厳洞が人気なのがまた嬉しさに拍車をかけた。
 二人とも気づかなかったが、大股に雑踏の中を歩く彼らは意外と若い娘の目を惹いていた。ゆったりとした濃い緑の衣装とぴたりとした黒い衣装は、それぞれそれを着た者を際だたせるのに役だっていたのである。軽々とした足運びで人々の間をすり抜けていく様子を幾対もの女性の目が振り返っていった。また、それを快く思わない人間もその場には居たのである。


 

  

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