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竜の覇者(20)




 サンジはラティエスの様子が常と違うことに面食らって、いきなり室内に人が現れたことに驚きそびれた。
「サンジ。青銅竜たちが獲物の血を流しています」
 ベンが先頭に立って入って来ながら言った。さすがのベンも緊張を隠せないでいつもの通りの声音が少しだけ上ずっている。
 サンジの眼前に立ち、両肩を掴んで、上からのぞき込むようにして視線を合わせる。低く、一語一語噛みしめるようにサンジに向かって言う。
「いいですか。教えたとおりに。ラティエスには血を流させるだけに抑えさせなさい。たらふく食べさせたら腹がもたれて遠くまで飛べません。できるだけ長く、高く、遠くまで──彼女を飛ばせるのです。彼女の初めての交合飛翔を成功させる全ては貴方にかかっているのですよ」
 ごくり、とサンジが喉を鳴らした。

 ああ、そうか。そういうことだったんだ。
 事情と現在の状況を納得してサンジは首をめぐらして室内の様子を眺めわたした。
 ビリガン、ワイピル、マッキンリー、オードン…他にも名前の知らない騎士が数名。いずれも若く、野心に溢れた青銅ノ騎士ばかりがいつの間にかサンジを半円形に取り囲んでいる。
 ごくり、とまたサンジが喉を鳴らした。なんだってこう喉が渇くんだろう。
 青銅ノ騎士たちも室内が暑いと感じているのか、襟をくつろげたり、首を振ったりと落ちつかない。荒い呼吸をつきながらサンジとラティエスを交互にじっと見ている。
「お、動くぞ!」
 誰が叫んだのかはわからなかった。ラティエスは落ちつかなげに頭を振るのをやめて、一挙動で岩室を出ると、そのまま滑空して餌場へと向かった。あたりに群がる青銅竜をひと声で叱責すると、かまわずに逃げまどうフェリの一頭に襲いかかる。
「彼女を抑えなさい、サンジ!」
 サンジはラティエスの強烈な飢えを感じとった。激烈、といってよかった。自分の胃がぎゅうっと絞られた気がした。
 けれどもサンジはラティエスを抑えた。サンジの幼いころの飢えの記憶がいきなりよみがえり、本当の飢えはこんなものではない、と頭の隅で微かにささやく声がした。
 ラティエスはサンジの強烈な抑制に抗おうと、金切り声を上げて抗議した。そして次の獲物に襲いかかったが、またサンジに止められた。
 ラティエスは首を振り、目をらんらんと燃えるように輝かせ、再度大厳洞中に響き渡る咆哮を上げ、サンジの支配から逃れようとした。金色の体躯はオーラが放たれているようで、今や明らかに輝きが増していた。怒りと、もどかしさと、飢えと。いずれもが彼女の中で互いにせめぎあい、狂おしいほどに解放を求めていた。
 サンジはラティエスの心をがっちりと掴み、その意志と感情と感覚とを共有していた。
 ラティエスが獲物の首に大きく牙を突き立てる。サンジは口の中にあたたかな血の味を覚えた。

 ──喉が──!

 このまま血も内臓もすすって欲望のままに食らい付きたい、という衝動が体じゅうを突き抜ける。
 しかしサンジは耐えた。
 そして三度目、四度目の襲撃になると、ラティエスはこの飢えが本能に基づくものだと知覚し始めた。自分が何をすべきか。今や本能こそがラティエスをつき動かし、心の中に寄り添う伴侶がそれを力強く押し出した。

 空へ──!
 遠く、遠く、遠く!
 誰より、何者よりも速く、高く──!

 いきなり何の予備動作もなく翼の力だけで飛び立った黄金竜に、周囲で様子を窺っていた青銅竜はほんの少し出遅れた。

 そこへ、弾丸のように飛び込んできた青銅竜がいた。その青銅竜はものすごいスピードで滑空し、一端足を地に着けたがすぐ引っ込めて、そのまままたぐい、と首をあげるといささかもスピードを落とすことなく、またぐんぐんと高く飛び上がって、黄金竜のあとを先頭を切って追っていった。

「ラティエスにぴたりと寄り添って! 彼女をできるだけ遠く高く飛ばせなさい。けれども彼女を見失わないように、コントロールだけは離さないで」
 言われなくてもサンジはラティエスから離れられない。今やサンジは空高く風を切って飛んでいた。視界には室内にいる他の青銅ノ騎士たちと、ラティエスの複眼がとらえている空の高みとが奇妙に二重写しに見えていた。
 そこに、信じられない人物が映った。

 ──ゾ、ロ?──

 なぜ? 彼は今遠くテルガーにいるはずではないか。
 
 竜の交合飛翔において、騎士はあまりにも強く竜と繋がってしまうために騎士同士もまた同じ現象を辿ることになる。
 本能と欲望、感覚に溺れ、そして伴侶の竜と同時に高みに登りつめてその瞬間を分かち合うのだ。
 サンジはそれが避けられないことと充分理解していたし、感情の上はともかく理性では納得し覚悟していたから、どの青銅ノ騎士と肌を合わせることになっても立派にやりとげようと思っていた。
 その思考の延長上で、もしもバシリスがラティエスを捉まえたなら、という可能性を考えたことは、ないと言えば嘘になる。
 ゾロとて立派な青銅ノ騎士だ。資格は充分にあるし、バシリスの体躯や、普段の飛ぶ姿を見ても可能性は悪くない。

 しかし、ゾロとそういう関係になるというのは、とても想像できなかった。ゾロは幼い頃からサンジの弱い部分を傍で見て知っている。サンジはラティエスを得て、その弱さを克服しようとなみなみならぬ努力をしてきた。立派な黄金竜ノ騎士になるために。
 それがゾロの前では自分の弱さをきっと出してしまう。いつか依存してしまう。もちろんゾロは自分を女の代わりなどとしては扱わないだろう。廉直かつ謹言な、悪く言えば朴念仁のような男だ。きっとサンジをそれなりに大切に扱うとは思う。しかしそれが嫌だった。
 多分、他の青銅ノ騎士なら、単純にそれが竜の本能に起因するものだとドライに割り切っていられると思うのだが、ゾロはだめだ。乳兄弟として育ち、竜騎士としての先輩であり、独立した今でも心の中では家族だ。悩みを分かち合い、相手が困っているときには手を差し伸べる。この関係が崩壊してしまうのは間違いない。
 いや、それは全て言い逃れだ。ただ、ゾロにだけは抱かれるのはいやだ、それだけだ。
 あの夜、「怖い」という弱音を呑み込んだ。あと、傍にいないで欲しいという希望も。それが誰であれ、どの青銅ノ騎士がサンジを手に入れたかを確認して欲しくなかった。どうせすぐ大厳洞中に知れ渡るにしても。何より、ゾロとそうなる可能性をなくしておきたかった。
 しかしサンジは何も言わなかった。口を開けばどうしても泣き言が漏れてしまいそうで、だから全ての言葉を呑み込んだ。それがサンジの精一杯のプライドだった。
 それでもゾロは何も言わないサンジの意図を汲み取って、大厳洞を離れてくれたのだ。
 なのに、この瞬間、どうしてゾロがここにいるのか。
「強くなれ」と言ってくれたゾロ。その言葉にどれだけ力を得たか。
 いつもゾロと対等でいたかった。同じ竜騎士になれたことは飛び上がるほど嬉しかった。これで一緒に空を駆けることが出来ると、隣に並び立ち、どこまで遠くへも高くへもついていけると思った。
 なのにゾロの下になって喘ぐ自分は想像したくなかった。



 ラティエスは大きく拡げた翼に風をいっぱいに受け、思うさま空を駆けていた。自分を追う青銅竜たちはまだあんな遠くをあたふたしている。実に小気味よい眺めだった。ほんの少しだけスピードを緩め、彼らが追いつくのを待った。それくらいのハンデをあげてもいいだろう。でなくては面白くない。
 自分のほうが身体も大きく、翼も大きい。空を飛ぶのだって、ほら、こんなに速いのだ。
(私ヲ捉マエテゴラン!)
 ラティエスの思念が愉快そうにサンジの頭の中で響く。サンジは自分の混乱した思考がラティエスの歓喜の思念に押しやられるのを感じた。いけない、今は彼女に集中しないと。

 ラティエスはいきなり急角度で上昇した。太陽に向かって垂直にぐんぐんと高く飛ぶ。青銅竜が一頭、ついていけずに脱落した。今度は急降下だ。翼をぴったり折りたたみ、弾丸のように落ちてゆく。遙か下に海面が見えた。ぐんぐんと視界いっぱいに広がってゆく。このままだとすぐ海水に叩きつけられて体中の骨という骨が折れてしまうだろう。あわやというところで翼を拡げて降下を止めた。また一頭、青銅竜がついていけずに脱落した。あれは間違いなく怪我をしただろう。それも多少どころではない程度に。少し気の毒だったかもしれない。
 ラティエスはそれでも飛ぶスピードを緩めなかった。雲を抜け、山脈の間を左右に振りながら飛び、さらに三頭を落とした。
 彼女は楽しくてたまらなかった。雄どもを焦らし、鼓舞するように少しだけ前を飛び、捉まりそうなくらいに接近するとするりと逃れる。そう、自分とつがうのであれば、それにふさわしく強くたくましい青銅でなくては。
 ちらり、と背後を飛ぶ竜を窺う。すでにここまで付いてきた青銅竜は三頭までに減っていた。どれも若く、速く、持久力もあり、自分にふさわしい雄のようだ。急上昇、急降下。急旋回を二回。ふうむ、まだ付いてくる。
 彼女は全く新しい技を披露した。自分の長い尾を飛んでいる最中にぐいと捻って、それが戻る反作用を利用して進路を変えるのである。ほとんど翼を使わずに強引に力でもって曲がるので、ついていけずさらに一頭脱落した。
(モウ一回)
 しかし、その時、伸ばした尾を捻る前に絡め取ったもうひとつ別の尾があった。
 ラティエスはもつれながら飛んで、それがバシリスであることを認めた。

 サンジは自分が今触れているのが、青銅竜の固い鱗なのか、それともゾロの厚い胸なのか判別できなかった。目はうつろに空中をさまよい、口は大きくあけて空気を取り込んでいる。心臓がまるで耳の中に引っ越してきたようだった。
 サンジは長い両の腕を何かを求めるように伸ばし、そのまま自分を掻き抱いた。自分の身体がまだそこに存在しているのかどうかすら解らない。ゾロはぐいとその両の手を取って、喘ぐばかりの口に噛みつくように自分の口を大きく開いて重ねた。空気を求めてサンジはその口をはずそうともがく。しかしゾロは許さずさらにがっちりとサンジを固く抱きしめた。
 バシリスとラティエスの歓喜の波を共に体験している二人には、破れた他の騎士たちがそっと部屋を出て行ったのすら解らなかった。

 くるくる回る。虹色にはじける。すべてのものが溶けて、熔ける。火山は噴火し、溶岩が火口から溢れ、風は荒れ狂い、海は逆立ち、二人を翻弄した。
 嵐の海に、荒れ狂う波に、ただただ、浮かんで沈むことを繰り返した。きりきりと旋回して、酸素を求めてぜえぜえと喘いでいた。竜たちの勝利も、歓喜も、共に味わい、互いの熱い血潮の流れる音すら分け合った。


 ──そうして、二人は融け合って、ひとつの存在になった。思考も、感情も、何もかもをさらけ出し、個体でいることは意味をなさず、輪郭をなくして自然に融合した。


 サンジは涙を流していたが、自分が泣いているとはまるで感じていなかった。喜びの涙なのか、哀しみのそれなのか、それとも何か他の理由なのか。
 透明に頬を伝うしずくを、ゾロが舐めとった。首を振ってその舌の感触から逃れようとするサンジを、ゾロの大きな手ががっちりと固定する。
 ようやくサンジが目を開けて、焦点を徐々に合わせてゾロを見た。

「ゾロ…」
「わかるか」
 ああ、とサンジは目だけで応えた。
「泣くな」

 その声がやけに優しくて、泣いてなんかいねえ、と尖らせた口の動きだけで訴える。少し間を置いてから、サンジはおずおずと言った。
「なあ、俺、上手くラティエスを──」
「ああ、これ以上ないくらい見事な飛翔だったさ」
「よかった…」
 ふわり、とサンジが微笑んだ。目を閉じて、満足げにひとつ、小さなため息をつく。その目尻からぽろりとまた透明なしずくが零れた。
 ゾロは複雑な表情でその青白い顔を見つめた。

 沈黙の帳が二人を包み、岩室は静けさが支配していた。一方、岩室の外の大厳洞全体では交合飛翔の祝いの宴が主役抜きで盛大に進められていた──


 

  

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