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竜の覇者(23)




 間隙を抜けると、キリルのごつごつした海岸線が眼下に見えた。白い波頭が規則正しく岸壁を叩いて、しぶきを散らしている。
 ゆっくり下降して、誰もいない原野に降り立った。海からの風が真正面から二人と二頭をなぶってゆく。その中に潮の香りを嗅ぎ取って、サンジは不思議な気分になった。
「これ、って海…だよな…?」
「おまえ、海は初めてだろう。ハイリーチェス大厳洞へ来る前だってあちこち小城砦を点々としてたらしいけど、そんな話はしたことなかったし。訓練でも空から見たことはあっても、海辺まで降りることはないもんな。潮の香りは初めてか」
「…ああ…」
 サンジは深く息を吸い込んだ。なんだろう、これは。
 普段高い峰に囲まれた場所で暮らしていて、まっすぐ平らな風景は見たことがなかった。今眼前に広がっているのは、どこまでも続く青い水平線。空と海とを分け隔てる直線だった。
「空の上から見下ろすのとはまた違ってるだろ」
「……」
 空は、それは別世界だ。眼下の風景は糸胞から庇護する対象であって、空に居るときには地上は自分とは異なる世界として認識している。
 なのに、今足は地面を踏みしめているのに、目の前のこの広がりはなんだ。
「でけえ…」
 こう見ると、自分自身の存在がとても小さく感じられる。なぜだかこれは空を飛んでいる時には感じられない。逆に、空を飛んでいる時には、自分が空間を自由に行き来できると思うことによって、まるで自分がこの世界を支配しているかのような高揚感を感じていた。
「なあ、いくら俺らが空を自由に飛ぶことができたって、やはりそれはまだこの大地の上の表層にすぎないって思えてこねえか。俺はいつだったかここへ来てこの景色を見たときに、竜騎士になれたからといって、それだけで本当に優れた人間になったわけじゃねえ、って思った。ほんの少しだけ他の人間より行動範囲が広く、速くなって、糸胞と戦う術ができたけど、それは農夫が畑を耕して作物を育てるのと同じ、必要な技量のうちなんだ」
「……俺らは農夫と一緒か」
「極端に言えば、そうだ。同じ人間の範疇だろ。いくら空を飛ぶことができたって、俺ら自身に翼が生えているわけじゃねえ。雨を降らせたり、風を呼んだりできるわけじゃねえんだ」
 それだけ言うと、ゾロは黙った。サンジはただひたすらに水平線を見つめていた。ゾロはしばらく内省に耽るサンジを放っておくことにし、バシリスと海岸線へ降り立った。

 キリルの海岸線は全体的に岩が多く、そこもほとんど切り立った崖ばかりであったが、ゾロは少し引っ込んだところに小さな浜辺を見つけた。
(綺麗ナ水ダナ。キット水アソビヲシタラキモチイイト思ウヨ)
 ゾロも賛成し、頭上から降り注ぐ太陽の光を存分に浴びながら、バシリスとばしゃばしゃと水を掛け合って遊んだ。
(さんじトらてぃえすモ一緒ニ遊ベバイイノニ)
「どうかな。サンジがあの調子だからな。まあ、気長に待ってみるさ」
 しかしちょうどゾロとバシリスがそういった会話を交わした直後、さっと影が走ったか思うとラティエスがその浜辺に降り立った。
「おおい!」
 笑いながらサンジが走ってくる。ゾロはほっとして、満面の笑顔で彼らを迎えた。


 さんざっぱら遊び、笑い、疲れ切ってから、ゼフの持たせてくれた弁当を広げた。あれだけの短時間に作ったものとは思えないほど、彩りも内容も味もどれもがすばらしく、量も二人分とは思えないほどたっぷりあった。若い二人はがつがつと食べ、食べながらも笑い、冗談を言い合い、また笑い、そして食べた。
 午後はそれぞれの竜の作る日陰に横になり、海から絶え間なく吹いてくる風を心地よく感じながらのんびりと昼寝を楽しんだ。目が覚め、どちらからともなく起きあがると、また浜辺でひとしきり遊ぶ。二人がこれだけ童心に返って何も考えずに笑いあったのはいつ以来のことだろうか。

 いつしか、海を渡ってくる風が冷たくなり、日が傾いて夕暮れの気配を忍ばせて来ると、楽しかった一日の休暇を惜しんで二人とも押し黙った。
 太陽が徐々に黄色味を強くし、さらにオレンジから橙色、茜色へと濃さを増してくるのを見ながらサンジが言った。
「俺、おまえが変わったと思った」
「……」
「でも、それは間違いだった。おまえは変わってないよな? 俺たちのどっちも変わってない。それでいいんだよな?」
 本当はゾロの顔を見て問いたい。しかしサンジはまだそこまでの勇気がもてなかった。ただ沈む太陽を見つめている。太陽は茜色からさらに燃えるような緋色になっていた。
「そうだ。俺らは変わってねえ」
 一語一語を押し出すように低い声でゾロが言う。それを聞いてサンジの肩が見て判るほどに緊張を解いた。
「よかった…!」
 心底から嬉しそうにサンジが言って、ゾロを振り返る。海風から陸風への変わり目で、サンジの髪がぶわりと舞った。金色にふちどられた顔の中で、隻眼が濡れて光っていた。
(今のところはこれでいいか)
 目を細めてサンジを見る。ゾロが内心で付け足した言葉はサンジには届かなかった。

 まだ残光があるうちにとあわただしく飛び上がる。夕日の名残の細い光を見ながら、キリルの海岸線を後にした。
 行き先である、慣れ親しんだハイリーチェスの目印の目ノ岩を強く思い浮かべて間隙に備える。
(よかったなあ、今日は何を言われるかと思っていたけど)
 サンジはまだ楽しかった時間の余韻と、最後のゾロの言葉を反芻して口元をほころばせた。
(ゾロは、俺なんかより大きな男だ。やっぱりいつだって俺が共に並び立ちたいと思っていたままだった)
 大丈夫、俺たちは変わってねえ。きっと上手くやっていける。
 振り返ると夕日が周囲の雲を染め上げて、雲の境目が藍色から群青へと綺麗なグラデーションをつくっている。
(あの日も、こんな夕日だったっけ)
 サンジは、かつてゾロに「強くなれ」と言われた日を思い浮かべていた。
(あの時、バシリスに一緒に乗りながら見た夕日の色もこんな感じだった)
 ふいとあの時の感情も共に思い起こされて、一気に記憶がさかのぼった。背中に感じるゾロの体温。頬を撫でる冷たい夕風。遠くに見える落ちかかっている夕日と、それが照らし出す大厳洞の峰の稜線。
 そしてその瞬間、サンジとラティエスは間隙に入っていた。

(寒い)
 暗く、極寒の空間。間隙の中は何もない空間だ。ただ骨まで凍るような寒さと、自分という存在がどこにも感じられない恐怖だけが支配している。
 竜騎士は強く自分の竜にしがみつき、心の中に行き先をはっきりと形づくってその寒さと恐怖とを無理矢理に押しとどめる訓練をする。実際、ほんの僅かの間なのだ、間隙に居る時間は。
 しかし、今サンジとラティエスが入った間隙は、いつもとは違って、心臓の鼓動が十回くらい打っても抜け出ることがなかった。

(──??)
 まさか、間隙の中から抜け出られない──?

 数年に一回程度の割合で、そういった悲劇が起こることがある。行き先の心象風景があいまいなまま間隙に飛び込んでしまい、抜け出られなくなって、そのまま通常のこの世界へ二度と戻ってこなくなる竜と竜騎士がある。そういうことのないよう、竜児ノ騎士ノ長は口を酸っぱくして間隙飛翔の注意点として行き先の心象風景の固定化をたたき込むのだが──
 しかし、サンジが焦りを感じたと同時くらいに、ラティエスは間隙から出た。サンジはどっと冷や汗が脇を伝うのを感じ取った。
(よかった…!)
 安心してまずゾロとバシリスの姿を探す。自分たちよりほんの少し先を飛んで、そして間隙にも先に入っていたから、きっとすぐ目の前を飛んでいるはずだ。

(──?)
 青銅竜は見あたらなかった。もしや知らない間に追い越したかとぐるりを周囲を見回してみたものの、視界のうちには一頭の竜もない。
「ゾロ──?」
 サンジはつぶやき、そして思念を絞ってバシリスを探した。
 すぐに若いながらも安定した、その伴侶の騎士と同じように少し堅いバシリスの存在を遠くに感じ、サンジはほっと力を抜いた。
 見慣れたハイリーチェスの峰が近づく。しかしなぜか胸が苦しくざわざわと落ち着かない。
(なんだ、これって)
 自分の中の勘が、近づかないほうがよいと告げている。しかしそちらの方にバシリスが、そしてゾロが居て、自分の戻るべき大厳洞があるのだ。

 そのとき、ようやく遠くにバシリスの飛ぶ姿が見えた。ほら、あそこだ──あんな遠くに離れてしまったから、早く追いつかないと──しかし、そのときサンジは信じられないものを見た。
 バシリスの上に乗っているのは、ゾロと、あれは誰だ?
 遠目にはっきりとは顔がわからない。そもそもこんな僅かの間にゾロが地上へ降りたち、誰か拾って乗せてやったなんてありえるのだろうか? しかし、あれはどう見ても──
 そのとき、最後の残光で同乗者の髪が照らされ、きらりと光った。

 喉の奥で何かひきつれたような音が出た。
 信じられないが、あれは、自分だ。
 あの日、ゾロと一緒にバシリスに乗って大厳洞へ戻っていった自分。
 背中にゾロの体温と息づかいを感じて、あのときほどゾロが近いと感じたときはなかった。苛められて、でもそれを堪え忍ぶのが当然と思っていた頃、ゾロが『自分の竜を信じ、そして竜に選ばれた自分を信じろ、誇れ』と言ってくれた日。
 あれは、あの日の自分だ。
 間隙を飛ぶときに、強くあの日の景色をそれこそ細部に至るまで心に思い描いてしまったことで、時ノ間隙を飛び越えてしまったのだった。

(とにかく、ここにいてはいけねえ!)
 驚きの悲鳴を飲み込み、胃の腑がぐうっとこみ上げてくるのを無理矢理抑えて、もう一度、強く「現在の」ハイリーチェスの目標となる座標を心に念じ、ラティエスに間隙に入るよう促した。


 

  

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