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竜の覇者(27)




 一応、シャンクスの容態は一部を除いて隠していたが、こういった話は隠していても自然どこからか伝わっていくものだった。統領が重体だといった情報が伝わると、大厳洞じゅうが不安と心配に包まれて誰もが声を潜めて話しをするようになっていた。
 吹く風はますます冷たく、そしてティレクの耕地が収穫を見込めないといううわさがそこかしこで囁かれるようになってきて、なおさら大厳洞を暗くした。
 ──凶兆だ──
 ──やはり、男の洞母なんて─
 不安が不安を呼び、うわさはまた別のうわさを呼ぶ。
 サンジを見て、そそくさと身を隠す者さえ現れるようになってきた。

(ち)
 サンジが廊下を曲がったときに、細い影がさっと向こうに姿を消した。その残像に向かって小さく口の中で舌打ちをする。
 最近ではこうやって避けられることは久しくなくなっていたというのに。苦い思い出がサンジの胸をちりりと焦がした。
(だけど、こんな時にうわさや陰口に悩んでいる暇なんてねえし)
 統領不在の今、残された者達でなんとか切り抜けていかないとならないのだ。昔みたいにひとりで抱えて自分の殻に籠もっていられるものでもない。サンジは今や洞母として責任があった。
(考えねえ、考えねえ)
 早足で影が消えた角をさっさと通り過ぎた。次の角を曲がると、もうサンジの頭には会議で話し合うべきことがらで一杯になっていた。

「サンジ、何難しい顔してるの」
 黒髪のちょっと小生意気そうな目をした娘が気軽にサンジに話しかけた。
「わ、ビアンちゃん」にっこりとサンジは微笑む。
 その昔、女王竜ノ候補生としてサンジに出し抜かれたと苦い思い出を持っていたものの、時が流れ、大厳洞の一員として留まって自分の居場所を確立した彼女は、既にサンジに確執は持っていなかった。サンジも美人で聡明な彼女に仕事の上でよく助けられ、会うと必ず笑って言葉を交わす。
「ちょっと忙しいだけ。大したことないよ」
「また、誰かに意地悪なこと言われたの?」
「ルルカちゃんまで。二人とも俺なんかのこと心配してくれるなんて、優しいなあ」
 ルルカもビアンと同じく、女王竜ノ候補生としてここに連れて来られた。ビアンはティレク城砦の二番目の息女、ルルカはベンデン城砦の三番目の息女で、同じ立場同士、非常に仲がよく、しょっちゅう一緒に行動している。
「……うわさなんかに負けないでね。私たち、誰が言いふらしてるのか判ったら面と向かって抗議してやるわ」
 サンジは意外なところからの暖かい申し出に目をぱちくりさせて喜んだ。
「うん、ありがと! こんな綺麗なレディの応援があったら、どんなことがあったって挫けるわけにはいかないさ!」


「──というわけで、統領がティレクに何かいい提案ができないだろうか、と言ったところで糸降りが起こって、話はそこで断ち切れていました。結論は出ていません。皆さん、何かいい案はありませんでしょうか?」
 糸降りから数日経ち、いまだシャンクスが意識を取り戻さないまま、四名は主だった飛翔隊長を集めて緊急会議を開いた。
 ベンが議長を務めている。シャンクスの懐刀と言われ、常に影のように付き従っていた彼もまた疲労の色が濃い。
「……」
 誰もが難しい顔をしたまま押し黙っていた。穀物の収穫が見込めないとなると、冬を乗り切ってまた春までかなり厳しい食生活を強いられることになる。庇護している城砦からの物品で口をまかなっている大厳洞も同じだ。
「……もし、ティレクの収穫がこの地の者を養うのに足りない、というのであれば」
 ためらいがちにサンジがゆっくりと口を開いた。
「他の地方の城砦の収穫を分けてもらうしかないでしょう」
「──!」
「それは自給自足の理念を外れる。判ってるのか、サンジ」
「それに、収穫物をやりくりするのは元々城砦の太守の仕事だし」
「やはりまだお若い。理想を言い立てるのは容易いですが、物事には出来ることと出来ないことがあるのですよ」
「なに、どんなに彼らの収穫が少なくなろうとも、十分の一税は彼らの義務ですから、多少質が悪くなっても大厳洞が食べるのに困ることはないでしょう」

 何を言っているんだこいつらは。
 サンジは自分でも知らないうちに卓を叩いて立ち上がっていた。
「あんた達は……! 飢えるということがどんなものか、知らないだろう! 腹が減って困るなんてもんじゃねえ、寝ても覚めても食い物のことばかり考える、そのうち腹が減りすぎて眠ることができなくなって、常に耳鳴りがし、幻を見るようになって、現実と幻の区別もつかなくなる。手足が凍えて震えが止まらなくなって、真剣に死を近くに感じるんだ! このままで行くと、確実にそんな目に遭うことになるぞ──人間、食えなくなると税だの義務だの、そんなことは後回しだ。明日食えるかどうかわからないのに、今日のパンを税だからと差し出せるか?」
 洞母として少しづつその責を果たしてはいるものの、まだまだ実力をそれと認められていないサンジは、ロビンの影に控えるおとなしめの若者と言った印象を周囲に与えていた。確かにサンジがこれほど大声を出して怒りをあらわにするのを見た者はいなかった。たったひとり、ゾロを除いて。
(そういや、ティレクの市でラティエスの名誉を守るために怒っていたっけ)
 正確にはゾロもあのとき最もサンジが激昂した場面を見ていたわけではなかった。しかし竪琴師ドレイクの説明とサンジにやられた三人の様子で、いかにサンジが普段内に激しいものを秘めているかを知ったのである。

 サンジの怒りに一同声を忘れたように驚き、押し黙る。しばらくして、青銅竜イヘイスの騎士コビーが言った。
「……そ、それでも、穀物の一部が不作というだけで、まさか大厳洞全部が飢餓の危機に陥るとは限らないでしょう。家畜だっているでしょうし、高地では牧畜もしている。南の海に面した城砦では海産物だって──」
「確かに、食べ物は穀物が全てではありませんが」
 サンジはもう大声を出してはいなかったが、変わりにゆっくりと抑揚のない物言いをしていた。その声は冷淡で突き放すような印象を受ける。
「今年は平年の収穫量の三割も見込めないでいるのです。牧畜……山羊や羊は夏の間放牧され牧草を食べるものですが、牧草もまたこの異常気象で打撃を受けています。だめになった穀物を食べさせれば? 冗談。病気で枯れているものを食べさせて、その肉を我々がまた口にするなんて、どんな影響がでるかわかりません。海の幸はたまに食卓にのぼると嬉しいものですが、一体それだけでどれだけの人数がまかなえると?」
「じゃあどうしろと!? 我々は飢えるわけにはいかない! 糸胞と闘わなくてはならないのだ、『竜騎士は飛ばねばならぬ、空に糸胞があるかぎりは』」
「誰しも、飢えるわけにはいかないのですよ。大厳洞だけじゃなく、城砦民も、工舎の民も、ね」

 一転して今度は柔らかく説き伏せるようにサンジは言った。
「これは大厳洞だけの問題じゃあない。そしてティレク城砦一つの問題でもない。他の地方へ呼びかけましょう。そして私たちを助けてもらうんです」
 出席していた殆どの人間がううむ、と腕組みをして考え込む。壮年の青銅ノ騎士、トムが重々しく発言した。
「…致し方あるまい。太守会議を招集すべきだろう。しかし、」
「助けてもらう、という言い方は気に食わんな」
「気に食いませんか。それなら一端は借りておく、という程度では? 今回はたまたまこちらの地方が悪いくじを引いたけれど、いつか将来に他の地方で同様のことが起こらないとは限らない。そのときにまとめて返す、という心もちでいればいいのではないでしょうか」
「なかなか言うな、若造」にやりと笑って青銅ノ騎士はサンジを正面から見た。サンジは全く臆さずにそのやぶにらみ気味の目を見つめ返す。
「いつかそうなるという保証は何もないのだろう」
「あるわけありません。しかし何もなかったとしても、堂々と借りたままでいればいいんです。別に自分たちが返さなくてもいいんですから。我々の子供や孫、子孫の代で返したっていいじゃありませんか。それこそが正しい相互扶助でしょう?」
 だっはっは、と笑ってトムはバン、とテーブルを叩いた。
「いいぞ、若造! 気に入った! 借りを作って、いつ返すかはわからんと胸を張っていろとな? 普段なら眉をひそめさせるように聞こえるが、それも理屈だわい」
「いえ、単に『我々の援助を必要とするような事態』が起こらないほうがいい、ということなんですが…」
「いいのだ。本当は貸すだの借りるだのといったせせこましいことより、全土が一体となるほうがよい。我々がこの大地で生きることを始めてから、竜も人間も増え、ひとつの大厳洞、ひとつの城砦では収まりきれなくなったために他の地方へ移り住んできたのだよ。ここハイリーチェスは、最後に作られた大厳洞だ。その分他の地方よりは少しだけ条件が厳しい土地柄と言えるかもしれん。だから我らも少し意固地になっていたところがある。もっと柔軟にいかねばな。ティレクのプライドもハイリーチェスの意地も、飢えの前には抑えておかねばならない」
「それでは──?」
「うむ。太守会議を開くことに賛成だ。すべての太守と大厳洞の統領、洞母を招集して、この窮状を説明して援助を依頼しよう」
「まずはティレクのアーステル太守を説得することですね」
 どんな時でも丁寧な物言いをするベンが続けた。
「あの、決をとらなくてもいいの?」
 サンジが急に方向転換し出した会議に面食らって言うと、
「何を言っているんです。皆あなたの熱弁で納得してますよ。皆さんの顔をご覧なさい。決をとってもいいですけれど、時間の無駄です。とっとと先へ進めますよ」
 と、まるで出来の悪い弟子に向かって言うようにベンが説明した。


 

  

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