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竜の覇者(33)




 赤ノ星が目ノ岩に掛かっている──
 ゾロはいつものように朝早い時刻にそっと岩室を抜け出て、外の景色を眺めていた。
 この光景を見るのも何回目になるだろう。大厳洞に生まれ育って、赤ノ星の示す意味は骨の髄までしみこんでいた。テルガーからここハイリーチェスに住処が変わってもそれは同じで、ついつい目は天空のあの星を探してしまう。
 サンジがこの大厳洞にやってきたのもこんな日だった。あれは初春で、冬が始まった今の季節からはまだ何ヶ月も先の頃だったけれど、今でもよく憶えている。まだ冷たい空気、夜明け直後の空の色を。
 あの日からずっと、サンジは自分の兄弟だった。大怪我もしていたし成長も遅れていたサンジは、細っこくて頼りなげで、言葉もあまりしゃべらなくて、自分が守ってやらないとといつも思っていた。
 だけどいつの間にか厨房に自分の居場所を見つけ、次第に強さを身につけ、計らずも黄金竜と感合して、逆境の中で揉まれるうちに心身共に強さを身につけていった。
 統領不在のあの苦しい時期、ロビンですら精神的に倒れそうになっていたとき、大厳洞の屋台骨を支えていたのはサンジだった。派手な活躍すらないけれど、奴がいなければきっとこの苦しい日々を持ち堪えることはできなかっただろう。
 奴は生粋の洞母だ。ラティエスは実に正しい選択をした。ただ、奴が男だったのが唯一の障害だっただけだ…いや、俺にとっては乳兄弟だったことが、か。
(今さら考えたってしょうがねぇ)
 すでにとっくにゾロはバシリスを交合飛翔で飛ばせ、ラティエスを勝ち取った。名実共に洞母サンジの大厳洞ノ伴侶だった。
 既に赤ノ星は目ノ岩から外れていた。夜明けの一時のこの現象がある時期は糸降りがある。まだまだ糸降りのシーズンは終わらない。そして休息期まであと数十巡年あるから、ゾロたちの生涯のほとんどは糸胞との戦いで費やされることがわかっていた。それも本望、とゾロは思う。戦いのない生活はさぞかしつまらないだろう。この一生をあいつと一緒に駆け抜けていければ、それだけで自分にとっては充実したものになるだろう。ただあいつさえ拒まなければ──
 そこまで考えたところで、ゾロは物思いをやめた。今日は糸降りの日だ。余計なことを考えている場合じゃない。
 ぶんとひとつ頭を振って、赤ノ星も、過去や未来への思いも何もかもを後にした。



「各小隊長は自分の隊が用意できたら、飛翔隊長へ報告!」
 既に偵察の任にあたった竜騎士から、遙か西の海上に糸胞の雲の発生の報告が入っていた。
 大厳洞中が幾度となく繰り返した緊張に包まれていた。竜騎士はみな自分の竜にきちんと騎乗帯がかかっているかを確かめたり、火焔石の袋に充分に火焔石が詰まっているかを確認するのに忙しかった。竜児ノ騎士ノ長のヤソップはいつものとおり、今日初めて糸胞に対峙する竜児ノ騎士へ、最後の注意を細かく与えている。下ノ洞窟ノ長のマキノも厨房と鉢ノ広場を何度も往復して細々とした、マキノでなくては気づかないことを伝えたり与えたり忙しくしていた。
 シャンクスは最初、脚をハキスにくくりつけてでも飛ぶと言い張ったが、ありとあらゆる方面からの猛反対に合い、最後にはベンとロビンに「邪魔だからおとなしく寝ていて下さい/ちょうだい」と左右から言われたものだから、臍を曲げてベッドの中にこっそり持ち込んだ酒瓶と不貞寝をしていた。

「ロビン、今日は貴女とご一緒できないなんて、本当に残念です」
 ようやく洞母として認められてきたのが自信に繋がり、それと共にサンジの言動も軽やかなものになってきていた。特にロビンやベン、主な飛翔隊長たち等、この厳しい日々を共にくぐり抜けてきた人たちの間ではそれが顕著に表れていた。
「わかっているわよ、こればっかりはしょうがないわ。その代わりにマキノと一緒に留守番をよろしくね」
「承知していますとも。それではお気をつけて!」
(アナタモ、アナタノ伴侶ニモネ)
 飛翔隊が次々と飛び立つ合間を縫って、ロビンと彼女のフルールスが優雅に舞い上がる。サンジは賛嘆のまなざしで日の光に煌めく巨躯を眺めやった。フルールスは彼のラティエスと非常によく似ていたが、気性はロビンに似て少しばかりとりすましたようなところがあった。そうはいっても、女王であるからにはそれは当然あるべき性質で、サンジと話すときは年長者としての落ち着きがその声音に感じられた。今の短いやりとりの中にもそれは感じられて、サンジは思いがけない竜の気遣いに胸がほんのり暖かくなった。
 今日の糸降りにはサンジとラティエスは参加せず、大厳洞に居残り組だった。サンジとしては、次々飛び立つ竜騎士を眺めやりながら、自分がその中に参加できないことに少しばかり苛立ちを感じないではいられなかった。しかし産卵を間近に控えたラティエスを残しておくわけにはいかない。ラティエスは平気な口ぶりをしてはいるものの、やはり初めてのお産を控えて思念の声の端々に時折緊張の色が混じるようになっていた。
(ミンナ行ッチャッタワネ)
「そうでもないさ。ハキスがいるよ。相変わらずシャンクスの岩室からあまり離れない位置に陣取っている。おしゃべりでもしに行く?」
(別ニイイワ。はきすハしゃんくすノコトが心配デ、ソレバッカリシカ考エテイナインダモノ)
「はは、まあそれはしょうがないかな。あの時は本当に死にかけたしね。意識を取り戻したあとも、何度もまた危うい時があったって言うし…。ああいった無茶をする人が伴侶だと気苦労が絶えないだろうなあ」
(ソウネ)
 気のないラティエスの声に、眠気の色を感じ取ったサンジは、何気なく続けた。
「少ししたら、先鋒隊が補給に戻ってくる。そうしたらまた蜂の巣をつついたようにうるさくなるから、その前に少しお休み。岩室の奥の方なら声も届きにくいだろうし」
(ソウスルワ。最近眠クテショウガナイノ)
 それはお産が近づいた証拠だよ、とこっそりサンジはラティエスに聞こえないよう心の奥で呟いて、彼女が静かな竜の居室へと消えていくのをそっと心を寄り添わせて見守った。

「サンジ、ちょっといい?」
「マキノさん」
 思いがけず呼びかけられた声にサンジははっとして、振り返ってマキノを認めるととたんに顔を輝かせた。既にサンジがマキノの手を離れてから久しい。それぞれ大厳洞で軽くはない責務を負っているので、他人の目があるところではそれなりに気を遣ってやりとりをするが、二人だけの時はマキノのサンジを見る目は柔らかい光を帯び、サンジも同様だった。
「シャンクスを尋ねて、療法師ノ長がいらしたの」
「キダ師が?」
「ええ。ターリー師が呼んだらしいの。私はターリー師はよくやってると思うんだけど、シャンクスが快方に向かうのが今ひとつ遅いのと、やっぱり大厳洞ノ統領が片腕を落とした、というのはかなり後々問題になるからでしょうね。できるだけのことはやった、ということを示しておきたいのかもしれないわ。それでね、一緒にキダ師の見立てを聞いて欲しいの」
「俺に? 俺なんかが聞いたって治療のことなんか、何もわからないよ?」
「そんなことはわかってるわ。万一の時のために証言ができる人間が要るのよ。これも洞母の責務よ。おいでなさい」
「…了、解」
 まったく洞母って何でもかんでも関わっておかなきゃならないんだからなぁ、と半分ため息をつきながら思う。
(でも、俺は今、大厳洞の中で動ける唯一の竜騎士だし、ロビンに留守番を託されているから、きちんとやらないとな)
 思い直してマキノの後からシャンクスの岩室へ入った。

 キダ師は子供みたいに目がくりくりと大きく、眉も睫毛も濃い、顔じゅうの造作の何もかもがくっきりと大きい印象を持った人だった。療法師ノ長、という地位から予想して、白髪の老人かそれに準ずるタイプを想像していたサンジは、予想から大いにはずれた驚きを顔に出さないようにしたが、ほお骨あたりがぴくりとしたのは止められなかった。
「おお、こちらが例の洞母だね。初めまして、サンジ。私がキダだ」
『例の』と言われることには慣れていたが、次の言葉にはさすがにカチンときた。
「ふむ。私もしょっちゅう身分と見た目が違うと言われ続けてきたが、君には負けるな」
「…もっとなよなよとした男を予想されていましたか」
 思わず声が固くなる。
 ははは、と突然キダ師は笑い声を上げた。
「いや、失敬。気を悪くさせるつもりじゃなかったんだ。ちゃんと普通の男性だとは聞いていたがね、こんな強い目をした若者だとは思ってなかったよ。実のところ、私も期待される『療法師ノ長』像からから遠い分、かなり損をしててね。よく患者には師補扱い、下手すると徒弟にしか見られなかったこともあったっけ」
 そしてもう一度はっはと笑った。シャンクスは上半身をはだけながらにやにやしている。
「まあ、外見で舐められるのと、あまりありがたくない先入観をもたれるのと、どちらもどちらだけどね。結局のところ、実力で跳ね返すしかないのさ。そして聞くところによると、君はきちんと実力を発揮しているようだ」
 うむうむ、とうなずいたところはちゃんと長と呼ばれる地位にふさわしかった。
「さて、ターリー、君のやった処置を最初から説明してくれ」
 シャンクスの包帯を解いて露わになった傷口を観察する目は鋭く、いきなり顔つきも変わった。すでにサンジのことは関心からすっかり外れていて、大厳洞ノ療法師と交わす言葉は専門用語だらけだった。
(これ見りゃ、見た目で舐められるのなんか、一瞬で終わるじゃねえか)
 どう見たってキダ師は療法師ノ長だ。彼はシャンクスに二、三、質問をし、舌を調べ、瞼を裏返し、首のあたりや背中や胸を押したりつついたり、その手は迷いなく動き回った。
「まあ、無くなった腕は帰ってこないけど、とりあえずアンタ自身はあの世の境目から無事帰ってこれたことを感謝しなくてはならないよ」
 にっこりと笑って、ターリーの仕事を肯定した。
「あとは体力回復に向けてだが…」
 そしてまたターリーと調合するべき薬の種類と量について話しあう。ひとしきり今後の治療方針について話し合ったあと、シャンクスの方を向き直って言った。
「さてさて、この患者の困ったところは、少し快方に向かえばすぐ自分はもう治ったと言い張って無理を押し通すところだな。これでは周囲の者がたまらんだろう。どうだい、シャンクス、お前さんたまには『いい患者』ってモンをやってみる気はないか?」
「なに言ってるんです、キダ師。俺はいつだって借りてきた猫のようにおとなしいイイコですよ?今までだって周りを困らせたことなんてなかったですって。なあ?」
(嘘だ)(嘘です)(絶対、ウソ)
 黙ったままでささっと交わされる視線は同じ内容を告げていた。
「周りの皆は、少しばかり意義があるようだぞ? ふふん、わかってる。貴方のような御仁のことを一般的になんて呼ぶか私は知ってるぞ。天の邪鬼、って言うんだ。一応、言っておくが」
 そこですい、とくりくりの大きな目を細めて真面目な顔になる。
「死ななかったのは、単なる運にしかすぎないんだぞ。ターリーはいい仕事をした。短い時間だったのに綺麗な切断面だ。もう少し切除が遅かったら、ターリーの腕でも間に合わなかっただろう。あと自分の化け物じみた体力も幸いしたな。この大厳洞にターリーが配置されていたこと、毒が回りきる前に手術できたこと、いろいろな要因が重なったのはひとえにアンタの『強運』だろう」
「強運な人間はそもそも糸胞にやられないんじゃ?」
「それはアンタが他人を庇ったからだろ? そういうのは運ではないよ。さて、強運のアンタもそろそろ運が尽きるかもしれん。運に見放されないように、しばらく無理はしないこと。あと一ヶ月は安静を守るように。寝台を出るのはあと一週間は禁止。その後はターリーの指示に従って少しずつ身体を慣らして、筋肉を動かすリハビリをするようだな。竜に乗るのはその後」
「げ! そんなにじっとしてられねえよ!」
「じっとしてるんだ。ハキスは待っていてくれるさ。ではターリーの言うことを聞いてな。お大事にして下さい」
 くるりと目玉を回してシャンクスを面白がっているような目で見ると、シャンクスはむすっとして睨みあげた。子供みたい、とマキノが思ったところに、なにやらばたばたと走ってくる音が聞こえてきた。続いてドンドンと扉を叩く音がする。


 

  

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