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竜の覇者(38)




「なんだと!」「糸降りの周期は一体どうなってるんだ!」「今日は西部地域で既に一回降っただろう。なのに何故!」
 ハイリーチェスでゾロとサンジが聞いた糸降りの警報と、そっくり同じけたたましい音がここルアサ城砦でも鳴っていた。三々五々帰り支度をしていたお歴々の間では驚愕と舌打ちと嘆息とが入り交じり、不安と苛立ちの声が大きく上がっていた。

「糸胞はどこに降っている?」
 その中でもテルガー大厳洞のミホークは顔色を変えることなく、身支度の手を早めただけだった。
「今日はなんと忙しない日であることよ。しかし漫然と暇をつぶすよりは有益な時間がとれよう。ヒマス、我が伴侶よ、では参ろうか」
 鞭のように引き締まった身体をさっと竜の背に乗せると、心得たように青銅竜がばさりと翼を広げる。青銅竜の中でも大きい部類に入るだろうそれは、しかし優雅に音もなく飛び上がった。
「テルガーへ」
 充分に城砦から離れたころにミホークがそう呟き、ふっと竜と竜騎士はその姿を消した。

「糸胞は北西部から始まり、ケルーンの高地地域を斜めにつっきり、その後ルアサ、イゲンの平野部を通過するものと思われます!」
 先遣部隊のひとりが息を切らしながら戻ってきて、竜から降りるや否や大声で報告した。
「あららら。ミホークったら貴重な情報を聞きそびれたみたい」
 ベンデン大厳洞の統領補佐、エースが既にミホークとヒマスが消えてしまったあたりを振り仰いで言う。
「ま、あのオッサンなら進路なんて気にせずに周囲全部を焼き殺すつもりでいるだろうから、聞いたところで意味ないか」
 肩を微かにすくめながら、自分もまた青銅竜ヒケンスに跨って、これまたあっという間に姿を消した。どの統領も自分の大厳洞へ一目算に戻る。なぜなら糸胞の襲来に備えて部隊をまとめ上げねばならないのだ。今回のように突発的な糸降りだと有機的に大部隊が動くのは難しい。しかしそれを成し遂げるのが統領の役割でもあった。あらかじめ糸胞の襲来時期と方向が判っていたら、最も効率的に部隊を配置して迎撃することができるが、今回はそうはいかない。飛翔小隊の投入、引き上げ、どの小隊をどの場所に配置するか、糸胞の密度、飛翔隊長の経験、性格、すべてを考慮して、瞬間的に判断を下し、命令を伝える能力が求められる。

 一瞬間にして走った電流のような緊張に、誰もが現在自分が居るところについて頭から離れた。戻るべき大厳洞や、糸降りが開始した北西部に意識が飛んで、周囲に誰がいるか、どういった会話がされているかについては全く注意が払われていない。
「好機です。この混乱に乗じてもう一度潜り込んでまいります」
 マードックはフィヌカンの耳にそう囁き、自分の竜、ホルリスに跨った。ようやく感合できたホルリスは緑竜だったけれど、他のどんな竜より素晴らしいとマードックは思っていた。そう、あのサンジの黄金ノ伴侶よりも。



 ゾロはまだ帰ったばかりの煤まみれの格好のまま、まっすぐ鉢ノ広場へと向かい、そこへ向かう途中、大股に歩きながらも次々と指示を飛ばした。さすがにこう短い間の連続の戦闘は常に鍛えている竜騎士にしてもキツイものがある。タイミングは最悪だ。もしこれが戦闘中に起こった追加の襲撃だったなら、疲れの色が濃くなりつつあっても、集中力は途切れなかっただろう。
 しかし、一端戦闘の終了を見て、それぞれが自分の居場所に戻った今は、例え怪我をしていなかったとしても、戦闘後の脱力感、倦怠感にどっぷり浸っている頃合いだった。緊張の糸が途切れ、疲れ果てた筋肉は弛緩し、ぐったりと身体を投げ出している者が大多数だろう。
 しかしそんな状態でも、糸胞の接近を知らせる警報の音には飛び起きなくてはならない。言うことを聞かない身体を叱咤し、まだ汗で湿っている騎乗服にまた袖を通し、寝台の下に蹴込んだ長靴を慌てて探して突っ込むと、同じく休息に入ったばかりの自分の竜の元へと急ぐ。
 互いの身体をいたわりながら、竜と竜騎士はあらん限りの気力を振り絞り、もう一戦するために心を合わせて集まった。そう、どんな時でも飛ばねばならぬのだ、空に糸胞がある限りは。

 疲労が滲む顔ぶれを眺めながら、ゾロは冷静に指示を飛ばす。自分自身も身体が鉛の様に重かったが、そんなことにかまっていられる事態ではない。
「小隊ごとに直ちに集合! 遅い! オルト、フラム、コビーの隊はどうした! ブルックは!」
「ゾロさんすみません! 私の隊は私以外、さっきの戦闘で負傷して全員飛べません! 私はどこに行ったらよいでしょうか?」
「お前は?」
「コビー隊のソニエです。竜はダイクス!」
「そうか…コビー隊はお前だけか…。じゃあお前はトムのおやっさんの隊に混じれ! おやっさん、コイツの面倒を頼む!」
 まだ経験の浅い竜児ノ騎士をかき集めても、それでも絶対数が足りなかった。配置換えも編成の組み替えも時間を掛けて決定することもできず、咄嗟の勘でさばいてゆくしかなかった。
 こういう不測の事態になると、日頃の鍛錬がものを言う。幸い、ハイリーチェスの騎士たちは統領自身は「訓練」と銘打ったものにはさぼりがちだったが、模擬戦闘は大好物だったので、実戦に即した形の訓練はよくつんでいた。
 急ごしらえの編成隊をいくつも作り、ゾロはバシリスに跨った。手を伸ばして火焔石の袋を受け取ると、弾丸のように上空へと駆け上がる。
「俺に続け!」
 青銅竜の大きな体躯が太陽光に煌めいた。


 ハイリーチェス大厳洞を取り巻く峰の、特徴的なシルエットを背にしてゾロはバシリスを通じて号令を掛けた。
「見張りからの報告によれば、北西の方角からケルーンへ抜ける方向へ向かっているということだ。我々は糸胞の先頭を迎撃する。じきにフォート大厳洞の部隊が追いついてくる筈だから、それまでは何としても保たせるんだ。それから側面からテルガーの部隊が攻撃をかける。ケルーンから中央の平原にかけてはイスタ、イゲンの部隊が抑え、最後はベンデンの部隊が抑える。広範囲だが、我々が最初に迎え撃つ分、大いに力を振るえることは保証する」
 こういった危機に即して、ゾロは自分が実に平静なことに気づいた。既に糸胞の先鋒が薄く灰色に霞んで見えてきている。かなり激しい戦闘になることは始まる前からわかっていた。そして戦闘を前に気分が高揚するのは常のことであるが、その高鳴る胸の鼓動とは別に、頭の中では冷静に状況を観察している。

「各自、竜に火焔石を与えろ」
 ごりごり、ばきばきという岩をかみ砕く咀嚼音が空中に響いた。砕かれた岩の欠片を飲み込むと、竜の体内で有毒の気状燐化水素が発生し、空中に吐き出すとそれが発火し、炎となって糸胞を焼くのである。
「さあ、来るぞ…──かかれ!」
 何度となく慣れてはいるものの、いつも糸胞の先鋒と最初に交錯するときだけは瞬間、緊張の波が走る。しかしその一瞬が済むとあとは銀色の糸胞を探し追いかけることだけで頭がいっぱいになり、余計なことは一切考えられなくなるのだ。
 糸胞はくるくると回りながら大気の中を降りてきて、大気圏で空気に触れると球状の殻から細い触手のような塊にほぐれる。その一本ですら逃して大地に触れさせると、肥沃な大地に深く穴を開けて潜り、必要な栄養をとって無数に増殖して、大地を不毛の地にさせてしまうのだ。
 植物の群生している箇所では、たちまちにして緑色が枯渇し、死の土地へと変えてしまう。糸胞とは、意志を持たないだけの生きた悪夢だった。

 バシリスは一気に急上昇をかけ、ちょうど目の前に降りてきた糸胞の固まりに向かって炎の息を吐いた。ぢりぢりという音をあげて黒く脆(もろ)いチリとなって落ちるのを見て、ゾロは満足を覚える。首をめぐらせて斜め上空に落ちてきた糸胞へと向かい、それも焦げたチリにしてほっと安心したときに、バシリスの翼に一本糸胞が落ちた。途端バシリスはぎゃあ、と鳴き声をあげると、次の瞬間には間隙に入っていた。
 間隙の冷たい中で糸胞は凍ってぽろりと落ちる。ゾロとバシリスはほんの一瞬だけ避難しただけでまたすぐ現実の世界へ舞い戻っていた。
 少ない数ながらよくやっている、とゾロは考えた。飛翔部隊の編成が変わるのはこの秋から冬にかけてしょっちゅうだったので、ベテランの竜騎士たちはすぐに適応できるような技を身につけていた。経験の浅い竜騎士たちですら、飛んでくる指示にすぐに従うコツを掴んでいる。
 戦いが激しくなるに従って、あちこちでぱっぱっと竜が間隙に出たり入ったりする姿が目立ってくる。
 またひと塊がゾロとバシリスの前に落ちてきた。難なく黒こげにして次を探したとき、ゾロは右の二の腕に焼け火箸を押しつけられたような強烈な痛みを感じた。ぐっと食いしばった歯の隙間からうめき声が漏れる。すぐにバシリスは間隙に潜り込むと、糸胞は凍って剥がれ落ち、ゾロはほうと息を吐いた。またすぐに通常空間に戻ると今度は急降下して下方の、今にも地面に着きそうな糸胞の固まりを焼き払った。地上部隊はまだか、とゾロは内心で舌打ちをする。城砦の領民で構成される地上部隊は竜騎士のようにすぐに飛んでこられるわけではないから、今回のような不意打ちの襲来にはどうしても遅れてしまいがちだ。
(あとどれくらい)
 ゾロはバシリスを大きく羽ばたかせて急上昇させた。できるだけ高い位置から全体を俯瞰する。ハイリーチェスの竜と竜騎士たちは出来る限りのことをやっていた。しかしゾロの位置から見れば櫛の歯が欠けたように、あちこち編隊の一部に隙間が出来ているのがわかった。疲労は判断力と感覚を鈍らせ、反応を遅くさせる。何人もの、何頭もの負傷者がまた出たのがわかった。中には間隙の中へ飛び込んでそのまま還らない者もいたかもしれない。
 そのとき、急に眼下一帯が竜で一杯になった。

「ありがたい、フォートの部隊が来てくれた!」
 ゾロは安堵の言葉を口に出して言ったことに気づかなかった。どのみち、誰も傍にいなかったから聞かれる心配はなかったが。
 これで少しは息がつける、と後陣中央にフォート大厳洞ノ統領の姿を見つけ、必要な情報を交換するために降下していった。
 統領『拳骨のガープ』率いるフォート大厳洞の部隊は、元気いっぱいで気力も体力も充実し、交戦に備えて全員うずうずしていた。
 しかしよく統率のとれている証拠に、間隙から出てきたときも一糸乱れることもなく見事な隊形を維持していて、気にはやって飛び出る者などはいない。
「ガープどの!」
 ゾロは急いでガープの青銅竜、メテオスの斜め後方にバシリスをつけて呼びかけた。

「おお、ハイリーチェスのヒヨッコかい」
 首を巡らせてゾロの姿を認めると大きくにやりと笑って言う。この歴戦の勇士にかかればゾロは確かにまだまだ若造と言っていい年だが、
(それでもヒヨッコは勘弁して欲しいもんだぜ)
 こめかみのあたりがひくついたが騎乗帽の下に隠れている。
「ようこそ、灼熱の戦場へ。来ていただいてよかったです。恥ずかしながら我が部隊だけではそろそろ戦線を持ち堪えられなくなりそうでした」
「気にするでない。貴君のところでは最近出動回数が多すぎる。ただでさえシャンクスがおらんのにようやっとるわい。それに此度は…」
 言いかけてガープは口を噤んだ。今話題にするようなことではなかった。
「それより、状況は?」
 それに応えてゾロは糸胞の頻度、移動方向などを手短に伝えた。ガープはひとつ頷くと、自分の青銅竜に言った。
「聞いたな、メテオスよ。全飛翔隊長に伝えてくれ。そして一斉に突入することもじゃ。ゾロよ、我々が突入すると同時にハイリーチェスの者どもを退がらせよ。貴君らは息をつくことが肝要じゃろうて」
「お心遣い、痛み入ります。しかし我らとてまだ戦えます」
「阿呆、完全に撤退しろと言っているのではない。一旦退いて、補給と手当をしてこいと言うことじゃい。戦いはただ闇雲に突き進んでいくのがいいと言うものではないぞ」
 ゾロはガープの言葉にうなだれた。さすがに年をくっているだけのことはあって、他者を圧倒する威圧感は強く感じられた。
「…了解いたしました」
 そう答えるほか、ゾロにどんな道があっただろう。しかしガープの言は全て尤もなことだった。

「バシリス、全員の竜に伝えてくれ。合図と共に一旦後退。今だ!」
 さっと戦線で竜たちが交錯した。ハイリーチェスの部隊は後方に退き、フォートの部隊が替わりに糸胞との前線に位置する。
 たちまち空一面でオレンジ色の炎があちこち見え、空中に燐化水素の臭いが一層強く漂ってきた。
「一旦、補給に戻る。負傷者はこの折に手当を。できれば何か簡単に腹に入れること。では、戻るぞ!」
 ゾロは新たな戦場の音に負けないよう声を張り上げたが、自分の声がかなり掠れているのに気づいて、二度繰り返した。
 ハイリーチェス大厳洞へ戻りながら、確かに火焔石が底をついていることに気づく。ガープが指摘しなくても補給に戻らなくてはならない頃合いであった。しかしフォートの部隊が来なければ、これだけ欠けた人数では交代に補給に戻ることすらも困難だっただろう。
 ほう、とバシリスの背中で微かにため息をつく。シャンクスが戦線に復帰するにはあとどれくらいかかるのだろう。ロビンは? ベンですらこの間足の骨を折ってしまってしばらく負傷者リストに載ることになった。そして──サンジは?
 ラティエスが卵を産み、その卵が孵るまでは戦場に復帰することはできないことは以前からわかりきっていたが、監禁されていては後方支援もできない。シャンクスさえ目覚めれば大丈夫とは言っていたが…。
 いや、それより何より一時的とはいえ、洞母が容疑者として監禁されるなど、言語道断だ。

 怒りとない交ぜになった思いに耽っていたので、ゾロはいつしか大きく遅れていた。もともと最後尾でしんがりを務めていたので全員を視界に入れていたのだが、すでに全部の竜が大厳洞の中へ消えていた。
(とにかく、今は目の前の糸胞を考えよう)
 途端、ゾロは頭が重く感じられた。度重なる出撃は確実に体力自慢のゾロですら例外なく疲労という重い枷を着せていた。全身の筋肉が強張っている。糸胞が掠めた右腕は痺れるような痛みを訴えていた。
(少しばかり休息が必要だ、俺にもバシリスにも)
 暖かい大厳洞に戻り、怪我した箇所に軟膏を塗らなくては。バシリスに水を、自分には熱いクラを一杯。ほんの少しだけ休めさえすればまた戦いに戻って、あと少しだけ続く糸胞の襲撃をやりすごすことができるだろう。
 そう思って降下を始めたときに、ちらり、と緑色の竜が低い位置から大厳洞の裏手に着地したのを見た。


 

  

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