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竜の覇者(39)




 マードックはハイリーチェスの峰を見上げながら、さてどうするかと考えた。
 通常の照合座標を使って間隙を飛び越えれば、一瞬でルアサ城砦からハイリーチェス大厳洞まで移動することはできた。しかしそうするとハイリーチェスの峰の上空に現れることになって、当然大厳洞の中からも丸見えになってしまう。見張り竜が見ていたら一発だ。余所の大厳洞の竜騎士がなぜ訪問してきたか理由を問われるのは自然の成り行きだ。
 それがわかっているから、マードックはそっと低空を、ホルリスの翼でもって飛んできた。おかげで時間がかかってしまい、着いたときには竜騎士部隊が戻ってくる場面にちょうどあたってしまったのである。
(この前はうまく奴らの帰る前に入り込めたのに)
 低空進入して裏手の岩場の陰にホルリスを休め、そこから同じルートを通って一人で大厳洞内へ侵入するつもりだった。しかし今し方竜と騎士の一団がこぞって戻ってきたのである。
(まさか、もう糸降りは終結したのか?)
 ガープの部隊が予想外に早く到着したことをマードックは知らない。ほとんど空の大厳洞へ忍び込むつもりだった彼はしょっぱなから困難につきあたって、方策を考えなくてはならない羽目になっていた。
 ゾロが彼を見たのは、ちょうどそんな状態のところだった。

「おい、おまえどこの騎士だ。ここで何をやっている」
 ゾロは上空にバシリスを旋回させながら、明らかに不振な動きを見せている緑ノ騎士に呼びかけた。
 いきなり上方から降ってきた声に、マードックはびくりと飛びすさった。糸降りの最中である。健康な騎士が何の用事もなくぷらぷらとしていることが許される筈がない。
 言い訳を、何か──
 必死で何かそれらしきものをひねりだそうと頭を忙しく回転させながら声のした方を振り仰ぐ。
「すみません、実は私──」
 言いながら見上げた目はちょうど見下ろしたゾロの目としっかりかち合った。
「あんた、ベンデンの…」
 ゾロが以前サンジと一緒に訪問したときに出会った顔だと認識したとき、マードックもまた同時にゾロを認識した。
 まずい。今ここで捉まる訳にはいかない。言い逃れできない。
 咄嗟にそう判断したマードックは、岩陰のホルリスの下へ走り、さっと背に乗って逃げようとした。
「おっと、待てよ。なぜ逃げる?」
 ゾロはバシリスをホルリスと並んで飛ばせようとした。ゾロはなぜベンデン大厳洞の人間がこんなところにいるのか全く理由がわからず困惑していた。そしてなぜ逃げようとするのかも。ただ、彼の様子から、彼を逃がしてしまってはいけないと強く心の奥底で勘が告げていた。

 青銅竜は緑竜のおよそ1.5倍から2倍くらいの体長がある。特にバシリスは青銅竜の中でも大きい方に属し、力も強い。ただし、緑竜は小さい分スピードに優れ、小回りがきいて敏捷だった。ホルリスはバシリスの大きな翼の下をかいくぐり、急旋回をして逃れようとした。
 しかしバシリスは交合飛翔でラティエスを勝ち得たほどの竜である。緑竜がいくらすばしこくても、出し抜かれるようなことはなかった。楽々と追いついてまた首を並べる。と、その首が急にぐらりと傾いだ。
 ゾロもかなりの疲労を感じていたが、バシリスも同様だった。この伴侶に忠実で誠実な竜は不平をこぼすことなくゾロにつき従っていたが、休息と糸胞に焼かれた傷への手当てが必要だった。
 それを見て、マードックは急速に頭の中で計算をした。幸い、この目の前の青銅ノ騎士だけしか目撃者はいない。そして奴と奴の竜は怪我をし、疲れのためふらついている。何より、奴はあの憎い洞母の伴侶だ──。
 するすると、今度は逆にホルリスをバシリスに近づける。説得に応じる気になったのか? とゾロが気を許したその瞬間、マードックは背中に背負った剣を抜きはなった。
 ぎらり、と刃が凶悪な光を放つ。
 通常、竜騎士は刀剣の類は持たない。持っていたとしてもせいぜい細々とした雑用のための短剣どまりだった。竜騎士の持つ刃は竜そのもので、するどい爪や、吐く炎だけで充分以上に脅威となるうえ、長い剣など竜の背で振るっては、かえって竜を傷つけかねない。
 だが、今まさにマードックは背中に長い剣を背負っていた。これこそがロビンを昏倒させ、下働きの男を死に至らしめた凶器だったが、あいにくゾロはそんなことは知らずに、ぎらつく刃と真正面から対峙することになったのである。

「何をする! 貴様、正気か?」
「うるさい! 死ね!」
 マードックは剣を大きくふりかざしてゾロへと打ち下ろした。ゾロは素早く身を沈めることでこれをかわす。剣の重さに引きずられてマードックは大きく身体を揺らがせた。
(一体、何だってんだ)
 ゾロは驚きながらも空中でバシリスに制動をかけ、マードックをやりすごそうとした。しかし、マードックはぐるりとホルリスを旋回させ、今度はゾロを正面から薙ぐように斬りかかった。
 この攻撃もゾロはぎりぎりで避けた。自分だけが避けることは簡単だが、マードックの剣がその勢いでバシリスまで傷つけることを怖れたのだ。
「くそう!」
 マードックが憤怒の叫びをあげる。今ゾロを確実に仕留めておかない限り、自分は破滅だ。すでに充分怪しまれているところへ、殺意を持って斬りかかっているのだ。どんな理由を並べ立てても言い抜けられるとは思えない。
 三たび、マードックが剣を振り上げた。空中で思うように斬りかかれないもどかしさから、開いている片手で騎乗帯をはずす。
「危ねえぞ!」
 思わずゾロは声を上げる。
(誰か、この狂った馬鹿を止めるのに手を貸してくれるヤツはいねえか)
 苦い思いでゾロは必死に目だけで空中に助けがないか探すが、ハイリーチェスの峰からは徐々に離れてしまい、今となっては他の竜が大厳洞から出てきたところで彼らを視界に入れることはできないだろう。
 援助がないことを舌打ちして受け入れる。
 マードックはホルリスの上に片膝だちになっていた。左手だけがかろうじて騎乗帯にかかっている状態だ。
 その時、ゾロは上空に銀色のちりを見た。
「───糸だっっ!」
 いつの間にか糸胞が降っている地帯へと近づいていたのだろうか。いや、ガープの部隊が戦っている一帯はこの場所からは見えるほど近くない。 大多数の糸胞が降る箇所から遠く離れてほんの一握りだけがひらりと落ちてきた、それっぽっちの量にしか過ぎなかったが、糸胞の持つ意味は同じだった。
 ゾロは大急ぎで火焔石をあさる。しかし手にとれたのはほんの小さな欠片しかなかった。それでもないよりましとバシリスに与えた。
 バシリスは急いで咀嚼して、口を開ける。ちろり、と炎の舌がバシリスの口元から零れた。
 そうして、落ちてきた糸胞の塊にむかってバシリスがさらに大きく口を開けたとき、横合いからマードックがホルリスを突っ込ませてきた。
「死いいいねえええっっっ!」

 その時、上からは糸胞が、下方からはバシリスの炎が伸びた、その交錯点上にホルリスが来た。
「ギャアアアアアッッッッ!!」
 翼の大部分に銀色の糸を絡ませ、みるみるうちに皮膜に穴が開いてゆく。同時に顎から胸、脚にかけての広範囲を炎に焼かれ、一瞬にして肉の焦げる臭いが空気に漂った。

 激しくもだえるホルリスの背中から、騎乗帯をはずしていたマードックは簡単に振り落とされる。ぽうんと空中に投げ出されたマードックをゾロは信じられないほどの器用さでもって片手で受けとめたぐり寄せた。
 あまりに突然の出来事に何が起こったかまだ把握できていないマードックは目がうつろになっていたが、空中でのたうちながらおちてゆくホルリスを目にして、半狂乱になって叫んだ。
「ホルリス! ホルリス! ホルリス! 何てことだ! ホルリス!」
 石のように落下しながらも、からみつく銀色の糸は執拗にホルリスを苦しめていた。ホルリスは断末魔の叫び声をもう一度高く上げると、ふっとその姿を消した。
 長く高く、バシリスが仲間の死を悼んで咆哮した。慈悲深き間隙の暗さと冷たさはホルリスを包み、彼女を苦しめた熱と痛みを取り去ってくれるだろう。しかしそこからこちらの世界にホルリスが戻ってくることはなかった。永遠に。
「ホルリス… おおお…」
 バシリスの上に引きずりあげられたマードックは伴侶を失った衝撃に茫然自失となっていた。涙は頬をとめどなく濡らし、嗚咽はひっきりなしに喉の奥から溢れている。
 目がホルリスの消えた地点をいつまでもさまよっていたかと思うと、いきなりぐいと顔を上げて何かをを探し出した。
 その目は血走り、怪しい光をたたえていた。
「誰だ、だれが俺のホルリスを──!」
 もともとかなりの興奮状態にあったものを、そのピークで伴侶の死という衝撃で打ちのめされて、マードックは完全に精神をおかしくしてしまっていた。
(やばい。コイツ、目がイッちまってる)
 ゾロも目の前の出来事に少なからず衝撃を受けていたが、まだ冷静な判断ができていた。
(こいつが一体何で俺を殺そうと思ったのかは後だ。とにかく落ち着かせて地上へ無事に降ろさねえと)
 一発お見舞いするのもやむなし、と覚悟した時だった。

 マードックは手にした剣をまた振り上げたのである。しかし振り上げたまま、ぎらぎらと光る目をゾロに据えて怒鳴った。
「お前がいけないんだ! そもそも、あんな馬の骨を大厳洞に入れたりなんかするから! アイツがハイリーチェスにさえ来なければ、俺が出て行かなければならなくなることもなかったんだ!」
「一体誰のことを言っているんだ──」
 ゾロの声はマードックの耳に全く届いていなかった。
「そうさ! あんな不吉な洞母なんて、もともとこの大厳洞に来なければよかったんだ! かなうことなら、あの洞母がこの大厳洞に拾われた日に戻って、大厳洞の入り口をまたぐ前に殺してやりたい! 男のくせに、洞母だなんて──!」
(サンジか──!)
 ゾロは息を呑んだ。一気に自分の胸が押しつぶされた様な気がした。こんな憎しみがぶつけられるなんて。殺されかけた時だって、何かの間違いであることを疑っていなかった。
 しかしマードックの憎悪は目に見え、手で触れられるほどだった。
 マードックの呪詛の言葉はゾロを指先すら動かせなくさせた。サンジへの憎悪。そのサンジを許容したゾロへの憎悪。
 全ての筋肉が動くことを放棄した一秒の何百分の一かの瞬間、ゾロの脳裏にはマードックの言葉が駆けめぐった。

 サンジが大厳洞にさえ来なければ──?

 途端、一気にゾロの思考は飛んだ。初めてサンジと出会った朝の空気の冷たさ。体重をかけなければ開かなかった扉の重さ。東の空に瞬く赤ノ星の不気味な光。そしてぐったりとした小さなサンジ。いや、何度だって俺はサンジを大厳洞に連れてくる。

「死ね───!」
 マードックが大喝して剣を振り上げた瞬間、またはぐれ漂ってきた一筋の銀色の糸がバシリスの翼に落ちた。

 全ては同時に起こった。

 バシリスは糸胞が翼を焼く痛みに、何百回となくやってきたようにするりと間隙にもぐった。
 間隙の冷たさにたちまちのうちに糸胞は凍ってぽろりと落ちる。
 しかし、いつまでたっても間隙から抜け出ない。
通常の二地点間を結ぶ間隙飛翔ならゆうに十回は往復しただけの時間が経っても、まだ二人と一頭は間隙の暗い空間にいた。
「うひ、うひひいいいい」
 壊れかけていたマードックが奇妙な叫び声を上げた。その声もどこへも響かないまま消え果てる。
 恐怖が、背中を伝って這い回る──

 と、いきなり明け方の空に飛び出した。
 空気はぴんと冷たく、春まだ浅いころのようだった。吐く息が白い。
 低い位置に細く雲がたなびいて、その間から赤ノ星が不吉な色を見せていた。
(ここは──?)
 ゾロが頭をめぐらすと、ハイリーチェスの見慣れた峰の形が見えた。長く間隙にいた割には、大して遠くへ行かなかったのかと首を捻る。
 しかし何かが決定的におかしい。
 異変に気を取られていた隙に、マードックが長い間隙の衝撃から立ち直り、ゾロの方をのろのろと見た。
 素早くゾロはバシリスを着地させる。とにかく空中で抜き身の剣を振り回されるのは危険きわまりない。バシリスを傷つけられるのだけは避けたかった。
 着地と同時にバシリスの背から転がり落ちるようにして振りかざした剣の下から逃れた。その時になって、ゾロも自分がマキノから短剣を押しつけられたことを思い出した。腰から引き抜いてさっと構える。
 その時でもゾロはマードックを傷つけようとは考えていなかった。ただなんとか彼から武器をとりあげて、当て身でもくらわせておとなしくさせることを考えていた。彼がサンジを陥れようとした張本人ということは間違いない。それならなおのこと大厳洞へ連れ帰って証言させなくてはならなかった。


 

  

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