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竜の覇者(42)




 サンジはずっと、半狂乱になって扉の内側を叩いていた。
「出せ! ここから出してくれ! 何が起こっているんだ? ゾロが戻ってきた筈だ、そうだろう? ゾロは無事なのか? おい、お願いだから俺をゾロの元へ連れて行ってくれ!」
 気が狂いそうだ。ゾロを一瞬感じた。それは間違いない。なのにすぐゾロの意識は暗闇に飲み込まれてしまい、何も感じられなくなった。これはどういうことなんだ? 誰か、誰か、ゾロは無事だと言ってくれ。ゾロを俺に会わせてくれ。そうでないと──。
 と、いきなり鍵が開けられて、扉が大きく開け放たれたので、サンジはのめって廊下に倒れこみそうになった。しかしすぐ立ち直って怒鳴る。
「ゾロはどこだ!」
「り、療法師のところへ運ばれました」
 サンジの気迫に押され、おびえた表情を見せながらも必要なことを伝えた男は、その場にへたりこんだ。
 サンジは走った。大厳洞の網の目のように張った通路を大きくびっこをひいて、のろくさいながらも必死に走っていた。見栄も何もない。
(ゾロ。ゾロ)
 通路でサンジを目にした者は大きく目を瞠った。サンジがこんなにも必死な形相で走るところを見た者はいなかった。
 ビアンが、そしてルルカがすれ違った。しかしサンジは二人ににこりと笑いかけることすらしなかった。いつも必ず見かけたら声をかけて、ちょっとした立ち話に興じるのが習慣になっていたのに、挨拶すらもしない。二人はぽかんとしてサンジを見送った。

「ゾロ!」
 療法師の診察用寝台の上に横たわったゾロの顔は土気色をしていて、目を堅く閉じていた。あちこちにまだ拭いきれず固まった血が赤茶けて残っていて、真新しく巻かれた白い包帯の色と相まってとても痛々しい。
 サンジは駆け寄ろうとしたがその場で足が固まってしまい、一歩一歩よろよろと近寄った。
「糸胞による火傷。あばら骨にひび、打撲。一番酷いのは身体の前面、左肩から右腰にかけてばっさりと剣で斬られた傷だ。しかしそれより──」
 療法師のターリーが入ってきたサンジに気づいて言った。
「体温が信じられないほど低い。脈も遅いし、まるで冬眠中の熊のようだ。身体の傷はちゃんと治療さえすれば治るが、代謝それ自体が落ち込んでいる」
「それってどういう──?」
「酷く弱っているってことだ。無理しすぎて、それまで意志でもって限度を越えて動かされていた身体が、動くことを放棄した。今は意識もなくただ深い眠りについている」
「いつ、目を覚ましますか?」
「わからん。今日か明日か、三日後か。それともこのまま目を覚まさないか──」
「でも生きているんでしょう?」
「生きてはいる。ただこのままの状態が続くと危ない。一旦覚醒してみないとなんとも──しかしいつ覚醒するかどうかはわからないんだ」
「そんな──!」
 ゾロの顔から目を離さないまま、サンジは絶句した。
(身体だけ帰って来たって意味ねえだろ)

「サンジ」
 部屋の隅にひっそりと座っていたシャンクスが声をかけた。サンジはのろのろと顔を上げてシャンクスを見る。
「大丈夫だ。傷が治ればいずれゾロは目を覚ます。あいつはお前を残して逝くようなヤツじゃない、そうだろ?」
 サンジは無言のまま、シャンクスを見つめた。そうだろうか。
 わからない。わからないけれど、ただ一つわかることは、自分がこのままゾロに何も伝えることができずにいるのは耐えられないということだった。
 ゾロ。
 いつかゾロに言った言葉がよみがえる。
『俺たち、変わらないよな?』
 馬鹿だった。変わらないなんて嘘だ。とっくに二人の関係も、立場も、そして意識も気持ちも変わっていたし、少なくともゾロはそれを知っていた。ただサンジがそれを望んだから、合わせてくれていた。
 大厳洞ノ伴侶として、ドライに割り切って? それは詭弁だ。
 今になって、サンジは誤魔化そうとしていた自分の気持ちを痛いほど自覚した。そのことをゾロに伝えなくては。何があっても伝えないでおくなんてイヤだ。
「ゾロ。なあ、ゾロ。帰ってこいよ」
 身体だけ帰ってきたって意味がないだろ? 俺はお前が欲しい。生きているお前が、丸ごと。
「(ゾロ、お願いだ、帰ってきてくれ! ゾロ、ゾロ!)」
 呼びかける声は思念と混ざり、絡み、一本の純粋な『想い』となってゾロに向かった。

 サンジにとって、数秒とも数年間ともとれる時間が流れた。
「…う…」
 か細い息が寝台の上から漏れた。サンジはさらにゾロの上にかがみ込んで顔を近づける。
 ゾロのまつげが細かく震え、やがてゆっくりとさも重労働だと言うように目蓋が持ち上がる。
「サン…ジ…?」
「ゾロ!」
「俺…は、戻ってこられたのか──?」
「ああ、間違いなく『今』に戻ってきた…! ありがとう、戻って来てくれて…」
「よかった…お前が居て…」
 それだけ言うと、ゾロはまた目を閉じた。しかし今度は先ほどまでと違い、顔つきが心なしかほんのりと柔らかくなっていた。

「なんと──この状態で目を覚ますとは…」
 ターリーが信じられないといった風に声を上げる。あわててゾロの脈をとり、心臓の鼓動を確認し、あちこちをまさぐった。
「これは──先ほどよりもずっと心臓がしっかりと脈打っている。呼吸もゆったりとしているし…」
 そしてサンジの顔を正面から見て言った。
「『心』を呼び戻したね」
 もう大丈夫、あとは好きなだけ眠らせてあげなさい、とターリーは言うと、ちょうど入ってきた師補にうなずいた。

 ターリーはゾロの病室に師補だけ残して、残りたいとしぶるサンジとシャンクスを隣の病室へと招き入れる。そこはすでに師補によって治療をすませたマードックが横たわっていた。
「さあて、こちらの御仁だが」
 マードックは奇妙だった。寝台に横たわっているが、手足はフェル皮でできたベルトで寝台にくくりつけられ、動けないようになっている。
 目は大きく見開かれ、天井か、それともそれを突き抜けたどこか中空を見つめていた。
「身体の怪我はそれほど大したものはない。打撲が少々、といったところか。だが精神に何か強い衝撃を受けたようで、治療をしようとすると暴れたのでね、しょうがないので拘束しているといった次第だ」
「こいつは…」
 シャンクスがしげしげと眺めて言った。
「顔つきがえらく変わってしまっているが、ベンデン大厳洞の竜騎士じゃなかったか? ほら、キダ師を送ってくれるよう要請しに来た」
 まだ半分呆けているサンジをつついて、注意を促す。サンジはようやく寝台の上の顔を注意深く観察した。
「そうだ、この男はベンデン大厳洞のマードックだ。竜は…なんと言ったっけか…」
「サンジ。この男はゾロと一緒にバシリスに乗っていたんだ。気を失ってくくりつけられていた」
「え? それってつまり──」
「この男の竜は、もしかしたらそういうことだ」
 沈黙が部屋に落ちる。何があったか、その中でこの男がどんな役を担っていたのかはわからない。しかしたとえこの男が極悪人だったとしても、竜は騎士に従うだけだ。そして騎士が伴侶を失うということは──。
「可哀想に…」
「そんな同情していいのか? 俺が思うに、この男はこの一連の騒動に深く関係していると見たね。そんなヤツを哀れむ余地はないんじゃねえの?」
「そうじゃない。俺はこの男の竜を悼んでいるんだ。直接会ったことも話をしたこともないけど、この男の年齢から言ってもまだ若かっただろう。それが生涯をこんな中途で断たれて逝ってしまったなんて…」
「ゾロとこの男の間に何かがあった。この男の竜はその間でとばっちりを食って死んだ。そう考えるのが妥当だろうな」
 サンジは黙ってシャンクスの言葉を聞いていた。しばらくマードックの顔を見つめて思案する。竜を失った騎士の哀れな姿だ。精神を病んで、これから一生を魂の半分を失った喪失感と共に生きていかねばならない。それでも、ゾロを失いかけたことを思い、口を開いた。
「シャンクス。俺がこの大厳洞に拾われたいきさつ、前に話したよな?」
 そしてもう一度過去の自分の話と、竜は時ノ間隙も飛べるということ、ゾロが今日持っていた短剣の話をした。
「──というわけだ。ゾロは今日、十巡年前へ時ノ間隙飛翔をしてきたんだ」
「なんと──」
 さすがにシャンクスも絶句する。
「十巡年とはね…。あれだけ消耗するのは納得だよ。それに今日糸降りも指揮したんだろ? うえ、バケモンか、ヤツは」
「シャンクス、アンタ、もしかして──?」
「んー? 時ノ間隙飛翔? まあ、俺も遅刻しそうになったり、ちょこっと秘密のデートをしたり程度には使ったことあるけど? 統領って忙しいからさあ、時間はひねり出さないとなんねえんだよ」
 サンジは黙って目を剥いた。本当になんてとんでもない統領なんだ、この男は。
「まあ、それもせいぜい数時間て単位だぜ? 普通の間隙飛翔より遙かに疲れるからなあ。それをゾロとバシリスは十巡年とはね。無事に帰ってこられてホント、よかったぜ」
「うん…」
「で、ゾロが帰って来て、お前の過去の経緯もすべて判明して、それで──?」
「まだ終わっちゃいねえ。ロビンも下働きも、そしてこの男の竜も、きっと一連の出来事のとばっちりだ。二度と俺らに手出しできねえように、そんな気すら起こさねえようにさせてやる」
 サンジの隻眼が不穏にきらめいた。
「落とし前はつけさせてもらわねえと、な」
 すぐに、太守と統領による緊急会議の開催が要請された。


 

  

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