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竜の覇者(5)




「おおい、竜の餌場に行って、竜が狩りをするのを見に行こうぜ!」
 同じ年の頃の少年達が先を争って駆けだしてゆく。ゾロも声につられて飛び出していきかけたが、ふと背後を振り返ってサンジを見た。
「いいよ。先に行ってて。後からちゃんと追いつく」
 三ヶ月が経った。サンジの足は順調に治ったものの、なめらかに曲げ伸ばしができず、歩くときはどうしても足をひきずるようになった。ましてや他の少年達と一緒に走ることはどうやっても無理だった。
 この年頃の男の子は意外と残酷だ。集団内では自分と他者との間の優劣を自然に決めたがる。サンジはどうやっても自分が一番下に序列されていることを悔しく感じないわけではなかったが、もとより自分は大厳洞に最近やってきた余所者であり、出自もどこかの城砦の太守の縁者とか、工舎の徒弟とかでもない、ただの旅芸人の一員だったという事実を充分認識していたから、足のことも合わせてしかたのないこととして受け入れていた。
 なのでサンジが懸命にうまく動かない足をひきずりながらゴツゴツとした岩場を昇り、汗だくになってようやく皆のいる場所までたどり着いたとき、
「なあ、もうここはいいから次は丘の上の湖へ行って水浴びをしようぜ」とリーダー格の大柄な少年が言い放った時も、何も言い返さずに黙ってうなだれていた。
 
 竜は好きだ。竜を見ていると時間を忘れてしまう。あの優美な首のラインやたくましい胸筋、大きな翼、長い尻尾、そして楔形の頭とその中できらきら光る目。それらがすべて一つの大きな生き物で、なおかつ知性を持ち、生涯ただひとりの人間=竜騎士とだけ心を通わせられるなんて、まるで奇跡のようだ。
 サンジは今日は竜を見るのをあきらめてすぐにほかの子たちへ追いつこうときびすを返したが、どうしても気持ちが竜へと向かってしまってついつい眼下の餌場へと視線が向かうのを止められなかった。
 どうしよう。やっぱりここに残っていようか。でも泳げないから来なかったと思われるのも癪(しゃく)だし。
 サンジは歩いたり走ったりするには不自由な足が枷になっていたが、水の中では負担が少ない分、それほど苦労せずに泳ぐことができた。だがそれをちゃんと見せる機会は今までなかったので、こういう時こそ一緒に行くべきだと心の中で声が言った。
 しかし、それ以上に竜を見ていることのほうがサンジにとって心躍らせるものであったのだ。竜の餌場という名目の箇所は、すり鉢状の窪地に周囲を簡単な囲いが巡らせてあって、その中にフェリを放し飼いにしている。フェリも竜が自らにとって危険なものだと知っているから、竜がその鋭い爪でもって飛びかかろうとするのを、死にものぐるいで左右に走って逃げる。
 今も一頭の蒼竜がまるまると太ったフェリを上空から追い込んでいるところだった。フェリは短い足をこれでもかといわんばかりに動かして逃げていた。最初の一撃さえかわして逃げれば、うまくすると蒼竜の爪から逃れて群れの中に戻ることができ、蒼竜はほかのフェリに目を移すかもしれない。しかしその蒼竜はいったんはあきらめたようなそぶりを見せながら、安心しきってのろのろと歩き出した先ほどのフェリをちらりと横目で確認してから、その巨体がまるで嘘のような身のこなしで、さっと一撃を食らわせた。フェリは断末魔の悲鳴を上げながらなおも竜の牙から逃れようとするが、蒼竜はどっしりとした脚と爪で押さえつけておいて、フェリの首元をぞろりと尖った牙で噛み切った。

(すごい)
 サンジは蒼竜がしたたる血で口の周りを真っ赤に染めている光景に、通常人ならば少なからず恐怖を覚えるところを、まるで意に介さず、それどころか魅せられて目を離すことができなかった。
 サンジのいる場所はすり鉢状の餌場のかなり上方で、その縁からのぞき込んでいる形だった。安全のために充分離れているので(とは言っても、竜が人間を襲うことなどあり得ないのだが)、竜の姿はかなり小さい。
(ここなら)
 サンジはそっと蒼竜の心に寄り添って、食欲が満たされていく満足感をともに味わった。やがて蒼竜は満足し、一声高く鳴くと、巨大な翼をばさりと拡げ、力強く飛び立っていった。おそらく伴侶である竜騎士と暮らす岩室へと戻るのだろう。もしくは腹が満たされたので日なたの岩の上に寝そべって昼寝でもするのだろうか。

 小さくなってゆく竜の姿をずっと見送ったあと、サンジがふと我に返ってみるとすでにかなりな時間が過ぎ去っていた。どうしよう、今から湖へ行ったところで今度もまた水遊びが終わっているかもしれない。
 迷ったのは少しの時間だった。どうせすぐに夕方の雑用仕事の時間になる。まだ何者にもなっていない子供たちは石炭を袋につめたり、水を運んだり、掃いたり洗ったりなどそれぞれに役割分担がある。サンジもようやく大厳洞の共同生活に慣れてきつつあった。それら決められた仕事をさぼったり怠けたりするような人間は大厳洞に暮らす資格はないのだ。あちこちから血統交換やあわよくば竜騎士が身内からでることを夢見るような裕福な商人たちから送られてきた子供たちだったが、大厳洞にいられなくなるようなことはしない。
 湖で遊んでいるだろう童児たちも、サンジの在不在に関係なく時間になったら大厳洞に戻るだろう。ならば今さら追っていったところで無駄だ。
 サンジはあっさりと結論づけると、今またやってきた緑竜がフェリを追い始めたのを見て目を細めた。

「おい」
 ふいに背後から呼びかけられた。
 びっくりしてさっと振り向くと、ここ三ヶ月で急速に親しくなった厳つい顔だちの乳兄弟がこちらを向いていた。
「あれ、ゾロ。どうして…」
 こんなとこにいるの? と言いかけた言葉が宙で浮いた。
「ばかやろう。いくら待っても来ないんで、どっかで転んで動けなくなっちまってるのかと思って戻ってきてやったとこだ。したら、てめェはのほほんと竜のお食事風景を眺めていやがる。無事ならさっさとみんなのところへ来いってんだ。でねェと本当に舐められっぞ」
「…ごめん。本当はちゃんと追いつくつもりだったんだ。ただ、つい…」
 ゾロはサンジが本当に申し訳なさそうにうなだれているのを見て、がくりと肩を落とした。くしゃりとサンジの頭をなでる。サンジは幼い頃からの栄養不良のせいで、ゾロよりゆうに頭ひとつぶんは背が低かった。全体的な線も細いというか、ガリガリしている。
「まあ、お前はほんっとうに竜が好きだもんなぁ。ここにいるやつら、みんなそりゃあ好きだけど、さ。お前はそれに輪をかけて好きだし。そんな年がら年中見ていて飽きねぇの?」
 こくり、とサンジの頭がゾロの手を乗せたまま前に揺れた。ゾロはちょっとだけサンジのつむじのあたりを見つめていたかと思うと、言った。
「戻るぞ」
「うん」
 ゾロはサンジがひょこひょこと脚を引きずるのに合わせ、ゆっくりゆっくりと歩いた。歩きながらの会話はたわいもない毎日の出来事で竜に関しては一言もコメントがなかった。





 その後も折に触れてサンジは男の子たちのグループで厄介者扱いされていた。ひとつひとつは些細なことであるだけに、はっきりと喧嘩(けんか)にまでは発展するものではなかった。ゾロはサンジが静かに耐えていることに苛立ちを感じるのではあるが、面と向かって制止をかけようとするとサンジがそっとゾロの袖をひっぱって首を振るために上げかけた言葉を飲み込むにとどまるのだった。
 自分はこの大厳洞で正当に暮らすだけの身分ではない、ただ偶然ここにうち捨てられていっただけだといった遠慮と、さらに自分がいることで余計なトラブルに発展するのが嫌であったため、このくらいのことはちょっと我慢すればいい、と割り切っているさまは、ゾロの胸にさらに表現できない苛つきが浮かぶものであったが。

 サンジは規則正しい生活、安心して眠ることができるベッド、栄養価の高い三度三度の食事のおかげで少しづつ肉も付き、遅ればせながらも身長の方も伸び上がってきはじめていた。ひょこ、ひょこ、とした独特のリズムの歩き方も徐々に見なれ慣れてきて、最初は「ほら、あれが例の捨て子だってよ」とこそこそと噂のネタにされていたのが、いつの間にか誰も関心を持たないくらいにまで大厳洞に受け入れられてきた。
 そうは言っても動きに不自由なところがあり、まだまだ体もひ弱なサンジには、力仕事は任せられず、自然厨房の中での雑用をすることが多かった。そこで芋の皮むきをしたり、豆の筋をとったり、鍋の中をかき混ぜたり、串焼きの串をぐるぐる回したりといったことはほとんどがサンジの役目に決まったようだった。

「おい。そっちはもうできたか。なら次はこれだ」
 ぶっきらぼうな声がサンジに向けて掛けられた。厨房の主、ゼフがぎろりとした目でサンジの脚の間にあるカゴをチェックする。
 ゼフはその昔、堂々たる青銅竜ノ騎士だったという。詳しいことは昔すぎて判らない。今一緒に働いている人が生まれる前の話だし、知っている人たちは軽々しく話してくれるような人たちではなかった。ただ酷い事故だったということだけは伝わっていて、その事故でゼフの伴侶であった青銅竜とゼフの右足の膝から下は永久に失われたのだそうだ。
 生涯心を通わせる伴侶を失うってどういう心持ちがするものなんだろうか、とサンジはゼフの背中を見ながらぼんやり考えた。竜騎士からただの人に戻るなんてことはそれこそ滅多に起こることではない。もし先に騎士の方が死を迎えた場合、竜は悲しみに耐えられずに独りで間隙に入ってしまう。そして竜の方が先に寿命を迎えることはない。体も頑健で、病気とは縁がないために竜だけが死んでしまうケースはまずもってあり得ないのだ。
「小僧。ぼーっとしてるんじゃねぇ。手を止めるな」
 背中を向けているゼフが低い声でぴしりと叱責した。見てないのにどうして。サンジは慌てて止まっていた手を動かしつつそう心に浮かんだ疑問を、けれど口に出すことはなかった。

「サンジはいい子よ。生まれ育ちがどこかわからない、多分流浪の民の出なんだろうけど、血が卑しいようには見えないし。まあ、私は血がどうのこうの言うより、その人間の性質や気性のほうを高く評価するけどね」
 マキノは夜遅くに厨房にやってきて、そこで寝入ってしまったサンジをなんとか連れて帰ろうと思案しながら、そこにいたゼフと話し込んでいた。
「あの子は親がないといったハンデで少し気後れしているところがあるけど、役に立とうと一所懸命やってる。私はその気持ちと、素直なところが好きなの。口数が少なくて、表情が乏しいのは、今まで辛い育ちをしてたから、自然と自分を守る手段で、鎧を装ってるの。でも中身はとても繊細。だからこそ、表面を固くして心を閉ざしているんだけどね」
 ゼフは低い唸り声だけで、マキノの言葉を肯定した。
「だから、できる限り目をかけてやって欲しいの。別に特別に甘やかす必要はないけどね。ただ、他の同年代の子と比べて、かなり気後れしてしまっているところがあるから。この子にはもっと素直に伸び伸びとした心を持って、年相応に人生を楽しむってことを知ってもいいと思うのよ。幸い、貴方には懐いているみたいじゃない? 厨房の雑用がサンジの仕事に定着しているっていうこともあるけど」
「懐いてるってほどでもないがな」
 ぼそり、とゼフが言葉を放った。竈(かまど)の中で炎がぱちぱちはぜる。よっこらしょ、と立ち上がって竈(かまど)の中に常にぶら下がっている薬罐をとると、自分とマキノの前にあるマグカップへ中身を注ぎ足した。
「こんな老いぼれにできることなんざ、ほとんどねぇ。だが、まあ、このチビナスが悪い方向へ向かわないように目を光らせておくとしよう」
「ええ。とりあえずはそれで結構よ」
 口には出さなかったが、マキノはゼフもまた同じように脚にハンデがある者同士でそういった点でも力になってくれるのではないかと期待していた。サンジがこのまま大厳洞に暮らし続けることを選択するのなら、厨房の仕事を覚えるのは悪くない。現に大所帯の大厳洞の食事を取り仕切るのは意外に責任のある仕事でもあった。下ノ洞窟ノ長であるマキノが責任の大きな一端を担っているとはいえ、実のところゼフの力量にほとんどを任せきっているのが実情だった。ゼフの経験と存在感。ぶっきらぼうで一見恐ろしげな風貌でありながらも人に尊敬され慕われる人間性は彼が竜騎士であったなら、飛翔隊長かひょっとしたら大厳洞ノ統領となっていたかもしれない。
 サンジがゼフの後継者として育ってくれたら…。そのためには身体も心ももっと丈夫に、強くなってもらう必要があった。そう、竜騎士からただの人に戻って、それでも心折れなかったゼフのように。
「ありがとう…。さて、いい加減連れて帰ってちゃんとベッドで寝かせないと」
 マキノはテーブルに突っ伏して眠っているサンジの肩に手を置いて揺さぶったが、全く起きる気配がない。もう一回繰り返そうとしたマキノの手をゼフのごつい手が遮(さえぎ)った。
 驚いてマキノが見つめる中、ゼフはサンジを軽々と担ぎ上げると、無言のまま歩き出した。カツ、カツ、と義足の音が固い石の床に響くが、それはけして耳障りなものではなく、安定したリズムを刻んでサンジを一層深く眠りの淵に沈み込ませたのだった。


 

  

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