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竜の覇者(7)




 大厳洞全体を揺るがせるほど盛り上がった孵化ノ儀と感合ノ儀、そしてそれに続く祝宴から三日が過ぎた。
 すでに客は去り、大厳洞全体は普段の落ち着きを取り戻していた。しかし変わったことがいくつかある。
 新しく誕生した竜の雛とその騎士たちは、竜児ノ騎士ノ長の監督のもと、全く新しい生活が始まっていた。まず今まで暮らしていた下ノ洞窟から少し上方の岩室に引っ越し、今後は自分の伴侶の雛と一緒に暮らすこととなった。竜児ノ騎士とはいえ、騎士となったからには独り立ちが当然と見なされる。岩室は大きく、騎士のための居室と、続いて竜のための大きな洞とが内部で繋がっていた。飛翔隊長や統領、洞母など位が高い人間はさらに上方の岩室で大きさも比例して広く、また居室に直接湯殿が接しているという贅沢な設備もあったが、それは責務に応じた特典でもあった。

 竜の雛は絶えず空腹を訴える。身体がぐんぐん大きくなるので、それに応じて食欲がものすごいのだ。これから成長が止まるまでひっきりなしに食べさせることになるし、同時に身体が大きくなるため引っ張られ痒(かゆ)みを訴える皮膚に油を塗ってやるのも竜児ノ騎士の役目だった。
 竜の雛は空腹を訴えて目覚め、食べると湖で泳ぎ、日の当たる岩の上で身体を乾かし、うとうととまた眠る。その隙に竜児ノ騎士は皮膚に油を塗るのだが、まだ小さい手で背も伸びきっていない少年にとっては竜の身体全部に油を塗り込むのは大変な仕事であった。それでも、自分の伴侶が二重のまぶたの外側だけを持ち上げて、気持ちよさそうにしながら自分の動きを見ていると知ると優しい気持ちで心が満たされ、自然、口元に笑みがこぼれるのだ。
 竜の世話をすること。これがまず竜児ノ騎士に課された最重要課題であり、今のところそれがすべてだった。最初のうちはただ新しい生活に慣れることだが、そのうちに飛行訓練が始まる。集団や単独で飛ぶ方法、いろいろな気象条件で飛ぶ方法、二地点間を瞬時に繋ぐ「宇宙間隙」を飛ぶ方法、とだんだん訓練は高度になり、さらに長い時間をかけて糸胞と戦う方法、つまり火焔石を噛み砕き火を吐く方法を教わるのである。

 ぎゃあぎゃあ、と甲高い雛の鳴き声が餌場の方角から響いてくる。それに続いて竜児ノ騎士ノ長の怒鳴り声が続く。
「こらあっ! 自分の竜から目を離すな! 竜同士でフェリの取り合いをさせるんじゃない! 食べてる最中は夢中になるから、騎士がきちんと誘導し押さえておくんだ!」
 孵化が終わると、新しい住人の奏でる声でいつもより大厳洞は騒々しくなるのが常だった。

 サンジはそっと騎士に成り立ての少年たちと竜の雛との群れを物陰から眺めていた。集団の中からゾロを見つけると、ゾロとバシリスの一対をじっくり眺める。バシリスは堂々とした青銅竜で、誕生時から他の竜たちより一回り大きかった。当然、黄金竜を除けば、青銅竜は他の竜よりも一番大きいのだが、ゾロのバシリスは同時に生まれた他の青銅竜よりもさらに大きかった。
 ゾロは騎士となった瞬間からマキノの養い子ではなくなった。生活すべてが大きく変化し、今までは毎日の生活であまり時間を共有することがなくなったとはいえ、寝る前のひとときくらいはサンジと今日あった出来事などを語りあうこともあったのに、独立してからは顔を見ることすらない。
 ゾロは騎士としての道を踏み出し、それに慣れることで現在が精一杯だとサンジも判っていたから、ゾロがいなくて寂しいとか愚痴を言うつもりもなかったが、それでも初めての「家族」が遠いところへ行ってしまったという思いは拭(ぬぐ)えなかった。
(でも)
 ゾロが最初の孵化ノ儀で一発で感合、それも青銅竜を感合したことは、当の本人でないサンジでも非常に誇らしかった。
 あの瞬間、サンジもこっそりと厨房からの通路からのぞき見をしていたのである。思い返すと今でも胸が高まってどきどきしてしまうくらい素晴らしいものだった。

 候補生の簡素な白い長衣を着たゾロは、揃いの同じ衣を着た他の少年の中に埋もれ、誰とも知らぬ「候補生のひとり」になってしまって遠くからでは見分けがつきにくくなってしまっていた。
 それは雛が外見では選ばないようにという配慮も含めた方策であったのだが、まだサンジはそこまで思いが浮かばなかった。

 大丈夫だろうか。最初の孵化ノ儀で感合することは重要ではない、とマキノは言っていたし、これから何回でもゾロはあの熱い砂の上に立つことができるのだから、いつかは立派な竜と感合するだろうけれど、孵化ノ儀にまつわる危険な側面がサンジを不安にさせていた。
 生まれたての竜の雛はあまりにも純粋だ。はっきり言って伴侶しか視野に入っていない状態で、他のすべては邪魔者として映るらしい。
 ほんのちょっと注意が逸れただけで、殻から飛び出た雛にその爪で引き裂かれ、前脚で身体を吹き飛ばされ大怪我をした少年の話をサンジも聞いたことがあった。立てないくらいの大怪我はなくても、踏まれたり倒れたり、そのための火傷や切り傷、捻挫などの小さな怪我は必ず毎年あるという。
 ゾロはとても敏捷で同い年の少年たちの中では腕力だって強い。けれど雛の前では腕力は意味がないし、そもそも雛と戦うようなことは絶対やるはずもない。ただ伴侶を目指して駆け寄ってくる雛の邪魔をしないだけなのだが、三十二もある卵が一斉に孵化をするのだ。混乱は避けられないだろうし、もし転んでしまったりしたら…そしてその時その方向に突進してくる雛がいたら…。

 しかしそんなサンジの憂慮を余所に、ゾロはあっさりと一番大きい青銅竜を感合した。ゾロとバシリスはまるで最初から申し合わせたように、殻にヒビが入り雛が顔を出した瞬間、ばちんと視線を合わせ、その後はまるで磁力か何かで吸い寄せられるように近づいていった。
 あのゾロの表情! サンジはゾロがあまり感情を表に出すのが得意なタイプではないと知っていたが、あの瞬間だけは歓喜という歓喜があふれ出てしょうがない、という顔をしていた。
 おめでとう、とゾロの喜びを自分の内に同じように思いながら、ちくりと小さく胸の奥が痛むのを感じていた。

『サンジは、何になりたい? 何をやりたいの?』
 マキノの声がサンジの頭の中でこだまする。
 自分は、何になりたいんだろう? それまでそんなことはちらりとも考えたことはなかった。物心ついてから、ただ毎日空腹と戦うことがすべてだったから。自分を守り慈(いつく)しんでくれる親という存在ははなからなく、街で親子連れを見かけてあれがああいうものか、と思ったけれども自分には関係がないものとして何の感想も持ったことがなかった。
 友達というものも──老いた見張りフェルを除けば──なかったし、考えてみれば笑うことすら知らなかった。飢えはいつも身に染みついて、その感覚は常にサンジを苛(さいな)んでいたし、将来という遠い未来よりも今日どうやってこの飢えをなだめるかが重要だった。

 今はあれほど執拗にまとわりついていた飢えは霧散し、毎日を厨房での仕事と決められた課題をこなすことで過ごし、新しいことを覚え、昨日覚えたことを復習し、忙しい中でも知った顔も増えてきて、徐々に「人の中にいる自分」に喜びを感じている日々だった。
 学業に関してサンジは同年代の子供より遅れていた。それはサンジに読み書きなどを教える必要があるなどと周囲の誰も考えていなかったからに他ならない。三度の食事すら満足に与えられていないのに、勉学の機会など与えられようはずがなかった。
 そういうわけで、スタートが遅れているサンジは二巡歳年下の子供たちに混じって一番最初から始めることとなったが、もとより身体の発育も遅れていたため、見た目がそれほど違和感なかったのが救いといえば救いだった。
 文字を覚え、教訓ノ歌や歌謡(バラッド)を歌い、石版で計算を行う、そういったすべてがサンジにとって新鮮だった。
 ──自分は何になりたいんだろう?
 初めて、自分で自分の行く末を決めていい、と言われてサンジは天が落ちてきたような衝撃を受けた。そういったことが許されるのは、始めから二親揃って生まれてきて、大厳洞や城砦や工舎で暮らすことがあたりまえになっている人たちだけだと思っていた。まさかこの自分までもがそういった恩恵を受けられるとはサンジは想像だにしていなかったのである。

(ゾロのように)
 ゾロの感合はサンジの心を揺さぶり動かした。大きく力強く美しいあんな生き物と伴侶になれるなんて。もしいつか自分があの熱い砂の上に立って、どんな竜でもいい、ただ一頭と絆を結ぶことができたなら。
(でも)
 そっとサンジは見えない左目に手を触れた。
『竜騎士は飛ばねばならぬ、空に糸胞があるときは──』
 習い覚えた教訓ノ歌の一節が心に浮かんだ。糸胞と戦うために、まずそのために竜と竜騎士は存在している。
 ひょこ、とすでに馴染みとなったリズムで脚を踏み出した。
 自分に出来るだろうか。不自由なこの脚と目で激しい任務をこなすことが──? 糸降りのたびに竜と騎士たちが戦隊を組んで飛び立つ光景をすでに何度も目にしていた。自分ひとりだけの問題ではない。部隊に迷惑を掛けることになるかもしれない。ほんのちょっとのミスが文字通り命取りになるのだ。ゼフだって年老いた今でも神経、感覚、腕っぷし、何ひとつとっても現役の竜騎士と遜色ない男なのに、たった一度の事故で竜を失い、自らも脚を切断という目に遭っている。

『竜が、選ぶのよ』
 だけど、マキノさん。僕なんて選択の候補のうちにも入らないかもしれない、いやその可能性の方が遙かに高いから──。
 幸運に恵まれて選ばれた竜児ノ騎士たちを見ながら、それならせめて竜のそばにいられるように努力しよう、とサンジは思った。この大厳洞に受け入れられたことに感謝しよう。そしてできるだけ大厳洞のために尽くすことができるように、できることを探していこう。
 サンジはもう一度ゾロとバシリスに目を走らせると、その場からきびすを返して自分の仕事場である厨房へと戻っていった。


 

  

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