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竜の血脈(5)




 かつかつと長靴が固い岩にあたる音がリズムを刻む。しかしサンジには急ぎ足になれば少し不揃いになる自分の足音などまるで耳に届いていなかった。
 タイミングとしては、まるで計ったかのようだった。まず統領が行方不明になり、次に洞母の女王竜が交合飛翔をする。
 客観的に見れば、統領不在の期間が最短ですむので、統領行方不明という事件の中で唯一光明が見える明るいニュースだ。洞母の女王竜が番(つが)う相手、その竜ノ騎士が統領であり、女王竜が交合飛翔をすれば新しい統領はその瞬間決定するのだから。
 しかし当のサンジにしてみれば──
(ゾロ。お前どこに居る? このままだとお前、俺と一緒に交合飛翔で飛ぶことができねえぞ?)
 それどころではない。もしもゾロとバシリスが不在であれば、誰か別の騎士と竜が──。
(今更)
 ぎりっとサンジは唇を噛む。既に五巡年間だぞ。五回も俺とゾロは交合飛翔を成し遂げた。ようやくゾロとバシリスに挑もうとするヤツは出てこなくなったというのに…!

「サンジ」
 いきなり目の前にロビンが立っていてはっとする。サンジは自分がめくらめっぽうに通路を歩き回りながら、前統領のシャンクスとロビンの岩室の前までやってきたことに気づいた。
「サンジ、あなた今自分がどんな顔をしているかわかってる? そんな顔のまま大厳洞の中をうろつくものではないわ。すれ違った人が怯えていたわよ」
「ロ、ロビン…」
「私では力になれない? こちらへいらっしゃい。少し暖かいものでも飲んで落ち着かないと…そろそろラティエスは交合飛翔の時期でしょう? 彼女に影響が出ては大変」
 ロビンに岩室の中へと導かれながら、その言葉にサンジはぴくっと肩をふるわせた。そうだ。俺は自分のことばかり考えていて、ラティエスのことをおろそかにしていなかっただろうか? これから数日彼女はだんだんと本能が満ちて、それが溢れて留まりきれなくなったときに、荒々しい本能のみにその巨躯を委ね、精神を解放するのだ。
 サンジはその瞬間に彼女に振り落とされないよう、しっかりと精神を繋ぎ合わせて、ラティエスがその猛々しい飛翔を歓喜のうちに無事に終わらせるよう、手綱をとって制御しなくてはならない。
 しかし制御といっても必要最低限だけで、基本は竜の本能を尊重する。遠く、高く、速く飛んで、一番強い雄と番うことが、次の世代に最善の血を繋ぐことになるのだ。
 竜の血統。それこそが大厳洞が最も大切にするものであって、糸胞という災厄と戦い生き延びるために人間が長い時をかけて磨き抜いてきた武器であった。
 竜騎士はその伴侶の竜が交合飛翔に飛ぶとき、強く精神を繋いだまま、本能に引きずられる。生への、繁殖の衝動は抗(あらが)えるものではなく、竜騎士同士をも巻き込むことになる。
 その時の行為は、サンジがそれを十七巡歳の時に初めて経験した時は、まだラティエスにしがみついているのが精一杯だったので、ただただ引きずられ、高みに放りあげられ、翻弄されるばかりであった。そして行為が終わったあとは、身体がラティエスとは異なる性──男性であったために、数日寝込むほどダメージを受けていた。
 その後徐々に身体も精神もコントロールできるようになり、共に飛ぶゾロと厚い信頼関係で助け合えるようになったことも幸いして、サンジはこの「嵐の中を暴れ馬に乗るような」交合飛翔を自分も疾走することができるようになった。
『そうしょっちゅうしたいとは思えねえけど。何しろ身がもたねえから』
 サンジがそっとゾロに漏らしたことがある。
『臓腑を喰らわれるような、そして俺もテメエのはらわた喰らってるような感じだな、あれは。すんげえ……いい……』
 そしてうっとりと宙に視線を泳がせた。
 ──ゾロはあのときなんて答えたんだっけ…。

 その時ロビンがクラをマグカップに注いで手渡してくれたのでサンジはハッと我に返った。熱い湯気を出すそれを、ふうふうと吹いてさましながらゆっくり飲み干すと、お腹のあたりがほっこりと暖まり、逆に頭がすっと冷えてきた。
「どう、落ち着いた?」
「ええ…。すみません、心配をかけてしまって」
「ふふ…まあ、一応私も洞母ですからね。貴方の考えていることは多分きっと私が一番理解していると思うわ」
「そうでしょうか」
 サンジがマグカップを持つ手に力を込め、床に視線を落とす。
「そりゃあね、シャンクスは一度たりとも交合飛翔で他の騎士に出し抜かれたことはないわ。でもこれだけ長年連れ添ってきて、なあんにもトラブルがなかったなんてことはないわよ?」
「………」
「いい例が、五巡年前ね。シャンクスが腕を失った時」
「───!」
「結果から言えばあの人は驚異的な回復をみせて、交合飛翔を例年どおり乗り切ったわ。誰もがあの人の完全復帰を疑ってはいなかった。でも本当のところはかなり無理をしていたの」
「そうだったんですか…」
「そうよ。いつ倒れてもおかしくなかった。けれど意地だけで乗り切ったの。その裏には統領のイスを時期が来るまで他の人に渡したくない、というのもあったけれど、おそらく──」
「貴女のため、だったんでしょう。羨ましいな」
 サンジの言葉にロビンは返事をせずに黙って目を伏せた。長い睫毛が顔に微妙な陰影を作る。
 こうやって改めて見てみても、ロビンは非常に美しかった。洞母としての日常の激務、騎士としての体力を削る仕事も、ロビンの生まれつきの美しさを損なうものではなかった。それに加えてロビンには真っ直ぐに立つ強い芯みたいなものがあって、それが彼女をオーラのように包みこんで光るように輝かせている。
 シャンクスも最初出会ったときから彼女に惚れ込んで、以来もう二十数年連れ添ってきたわけだ。
「でも私は、シャンクスがもう二度と飛べないかもしれないと、覚悟していたわ」
「そんな…」
「──そうよ。一時は生命さえ危うかったのですもの。だから、意識が戻ったときは、ただもうそこに居てくれるだけでいい、生きていてくれさえしたらそれでいい、って本当に思えたの」
「俺も…」
 ロビンはサンジが何を思い出しているかを察してにっこり微笑んだ。
「そうでしょう。ただもう生きていてくれさえしたら、あとはもういい。その気持ちを忘れなければ何でもできる、って思っていた。だからシャンクスが飛べなくてもそれでよかった」
「そうですね」
「けれど、シャンクスがだんだん回復してきて、また飛べるようになりそうだと分かり、そしてそれがフルールスの交合飛翔に間に合うかもしれない、と思ったとき、私はこれまでにない恐怖を覚えたの」
「何故? だってシャンクスが無事回復してきたのに?」
「それ。その『希望』が却って厄介だったの。私はそれまで、交合飛翔を他の騎士と成すことを受け入れていた。覚悟していた。あの人が生きているのだからそれくらい大したことではない、と」
「………」
「けれど僅かに見えてきた希望で、私は焦ったわ。もしかしたら、もしかしたらって。そしてその希望があるおかげで私の覚悟が揺れに揺れた」
 にこり、と首を傾げてサンジを見、ロビンが続ける。しかしその笑みの裏に当時の彼女の苦悩を見て取ってサンジはちりり、と胸の痛みを覚えた。
「私たち洞母にとっては、自分で相手を選べない交合飛翔は苦痛でしかない。一応、本能の海に溺れてしまうという逃げ道は許されているけれど」
(この子にとってはその逃げ道もあるのかどうか、私にはわからないけれど)
 口に出さずにロビンは胸のうちで呟いた。
「でも思ったの。これも強い洞母であるために、心を、精神を強くするための必要な試練なのかもしれない、って」
「そう、なの、かな……」
「結局のところシャンクスが無理して飛んでくれたおかげで、他の騎士に抱かれずに済んだ私がこれ以上どうこう言う資格はないわ。ただ、同じ問題に直面した洞母は私と貴方だけではない。それどころか大厳洞ノ伴侶と決まった騎士にどうしても馴染めないという洞母もいる」
「うん…そうだよ、ね」
「だから貴方も我慢しなくてはいけない、というわけではないのよ? これは勘違いしないで欲しいのだけど。私に言えることは、これからゾロが無事に発見されてもされなくても、それに関わらず貴方は心を強く保たなければいけない、ということよ。すごく難しいことを言っているという自覚はあるわ。でも今貴方はこの大厳洞の首位洞母だから。貴方の双肩に大厳洞の全てがかかっているのだから……」
 ロビンは言いながら厳しい言葉とは裏腹に哀しそうな目でサンジを見つめた。
「ごめんなさいね。貴方の気持ちがわかると言いながら、こんなことしか言えないなんて」
「いえ、充分です。ありがとうございます」
 サンジは心から礼を言った。ロビンは自分のために心を砕いて、他人には言わずにおこうとしていただろう自分の心情を語ってくれた。その気持ちだけで充分だった。



 俺がしっかりしないと。統領不在の今、首位洞母である俺が心挫けていてはいけない。動揺も焦りもすべて奥深くに押さえ込んで、冷静に最善の手を打たなくてはならない。
 ゾロがもし間に合わなくても、統領不在のままにしておくわけにはいかない。すぐに交合飛翔ができてよかったじゃないか。
 無理矢理思いこもうとした。
 サンジは首をブンブンと振り、バシンと自分の頬を両手で打った。
(しっかりしねえと)
 ゾロが死んだと決まったわけじゃねえ。ロビンの言うとおり、ゾロはただ生きていてくれさえしたらいいんだ。その前には交合飛翔で別の騎士に抱かれることくらい、何てことない。
 とにかく今はラティエスだ。彼女の思念から離れないようにして、その時が来たら間違いなくぴたりと寄り添えるように──。
 
 突然、ばたばたと走り回る足音、どやどやと人が大声で呼び交わす声がサンジの岩室の外で聞こえた。
「何だ? 何が起こった?」
 サンジは扉から首をつきだして様子を探ろうとした。そこへ慌てた様子の竜児ノ騎士が走ってやってきた。
「洞母様! 統領が…、統領が戻ってまいりました!」
 サンジはその言葉を聞くやいなや騒ぎの方向へ向けて駆けだしていった。後に残された竜児ノ騎士は瞬間ぽかんとし、慌てて後を追いかけていく。
「洞母様、待って、待って下さい! 洞母様──」
 必死で言いつのるが、サンジは聞く耳を持とうとしない。とにかくゾロの顔を見ることだ。アイツがすかしたツラでにやりと笑ったら、一発ケリを入れないことには気が済まない。
 いやもしかして珍しく皆に心配を掛けたことを反省して神妙にしているかもしれない。それならそれで一言言ってやらないと。
(俺を死ぬほど心配させた罰だ。小言のひとつやふたつぐらいじゃ許してやれねえぞ、覚悟しやがれ)
 そしてサンジは人だかりができている鉢ノ広場に到着した。サンジの姿を認めて、皆が身体を引き、道を譲ってサンジをその中心へと誘った。
(ゾロ…?)
 何かがおかしい。
 サンジはその場の異様な雰囲気にさっと警戒の視線を投げ渡した。何で皆俺をそんな目で見る? 何で皆押し黙っているんだ? 統領が戻ってきたのにその複雑な表情は一体どうしてだ?
(おっと。とにかくゾロだ)
「ゾロ」
 サンジは呼びかけながら人の輪の中心へと踏み込んだ。ほらここにゾロが居るじゃねえか。
 しばらくぶりに見るゾロは無精髭が生えていて、少し痩せているようだった。
 顔は青白さを通り越して蒼白。今ようやくバシリスの背から降ろされて床に寝かせられたところだった。
「担架は! 担架はまだか!」「療法師は! 急いでくれ!」
 誰かの声が遠くでこだましていた。サンジはゾロの顔を穴が開くほど見つめていた。
「ゾロ。何で目を瞑(つむ)ってるんだよ。起きやがれ」
 そう、起きて俺を見ろ。俺の目を見て「すまん、心配掛けたな」とか何とか言ってくれ。そうしたら俺は仕方がねえな、と言って笑えるから。
「洞母様。担架が来ました。ちょっと場所を空けて下さい」
「ターリー師! こちらです!」
「意識は? 統領は自分で飛んで来たのだろう?」
「それが判らないのですよ。意識が無いままだとしたら、どうやって戻ってきたんだか、皆目見当がつきません。とにかくどんなに呼びかけても応えないのです」
「洞母様、さがってください! 統領を運ばなければ!」
 誰かに腕を引かれてよろよろと数歩退いた。その場でへたり込まなかっただけ運がよかった。
 ゾロが? 嘘だろう? 何やってるんだ? 意識がないって?
 サンジはその昔にゾロが十巡年という時ノ間隙飛翔から戻ってきた時のことを思い出していた。あのとき、上空にゾロとバシリスが現れた瞬間、意識を失い落下して、それを察知したサンジの咄嗟の呼びかけに竜たちが一斉に協力して受け止めたのだった。
 しかし、今回は? 彼らは自力で戻ってきたのだろう? それなのに何故意識がない? 
 そういえば、とサンジが今更のことに気づく。俺はゾロとバシリスの思念を一瞬でも感じていねえ──
 確かに四六時中全ての竜の思念を聞いているわけじゃないが、それにしても、ゾロとバシリスなら存在くらいは感じ取れるはずだ。
 そして先ほどのゾロ。紙のように白い顔。痩(こ)けた頬。落ちくぼんだ眼窩。固く閉ざされた瞳。
「まさか、死にかけてるわけじゃねえよな…?」
 サンジはふと我に返って担架が消えた先を探す。療法師の邪魔をしたくはないが、確認しないわけにはいかない。
 その時、バシリスが楔形の頭を上げて、弱々しくうめいた。サンジはハッと振り返る。そうだ。バシリスなら知っているはずだ。何が起こったのかを。
「バシリス! 一体何が起こった?」
 単刀直入、ずばりそのものの質問をぶつける。しかし青銅竜からは何の応えも返ってこない。
「バシリス!」
 サンジは重ねて呼びかけた。しかしいつもなら少し茶目っ気を含んだ穏やかな思念は聞こえなかった。
「何で黙っているんだ! お願いだ、何か言ってくれ! バシリス!」
 サンジの声が鉢ノ広場に響き渡った。ざわざわと不安があたりを支配する。サンジにバシリスの声が届かないのか、バシリスが固く沈黙を守っているのか。いずれにしろゾロの状態と併せ異常事態だった。
「くそっ!」
 サンジは沈黙を続けるバシリスに背を向け、ゾロの担架を追った。

 

  

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