こちらのプルダウンボックスで読みやすいスタイルをお選び下さい。






竜の血脈(6)




 療法師の治療室では、サンジは何もできず隅に立っていることを強いられた。寝台に横たえられたゾロは相変わらず彫像のように目を瞑ったまま動かない。
「外傷は?」
「いくつか。ただどれも深刻な傷とまではいかないようです。それより、身体の反応がおかしいです」
「むう。確かに。腕や胴体はいいが、足はどこも反射を返さない。感覚がないのだろうか? 全身の箇所でチェックしろ。急げよ!」
「わかりました、直ちに」
 療法師のチームは、手分けしてゾロの足先や手先の末端から少しずつ身体の中心部へ向けて軽く叩いて反応を見た。
「──ターリー師」
「うむ。これは完全に反応していないな。下半身が全滅か…。上半身は右半分のみかろうじて反応を返しているが」
「見たところ原因となった外傷が判別できないのですが」
「おそらく、頭だろう」
「あたま?」
「強く打ったか、とにかく何か非常に強いショックを受けたのだろう。それ以外に説明ができんよ。とにかく絶対安静。意識が戻るまで交代で見張りをつけて。全身を暖かく保って。何かあったら私に知らせるようにしてくれ」
「了解しました。あの…」
「なんだ?」
「外にいる者にはどう説明をしたらよいでしょう」
 苦虫を噛みつぶしたような渋い表情でターリー師は質問を発した師補に言った。
「お前はそれを気に病む必要はない」
「あのっ…」
 そのとき、ずっと黙って壁に貼り付いていたサンジが声を上げた。
「洞母」
 療法師は初めてそこに居るのに気づいたかのようにサンジを見やった。
「どういうことです? 俺にはちゃんと説明してくれるんでしょうね。ゾロに一体何が起こったんですか?」
「わからないのだよ。私たちだって万能ではない。ただ、聞いていたろう? 何か強い衝撃を受けて、下半身とあとおそらく左腕が麻痺している。あとは彼の意識が戻らない限り、どれだけ具体的な障害なのかは何とも言えないな」
「じゃあ、どうすれば…」
「ただ待つしかないだろう。あとはサンジ、君が彼の意識に呼びかけて起こすしかない。ただ今の彼の様子では無理に起こさないほうがよいように思えるが、それでも起きない場合は──」
「やってみます」
 サンジはゾロの横たわっている診察台へと近寄った。五巡年前の、血まみれで運び込まれたゾロと重なる。今度のゾロはあまり大きな怪我をした様子がない。しかし顔色がとにかく蝋のように蒼白で、たたずまいはまるで人形のように気配がなかった。そして応えを返さないバシリス──サンジは胸に何か重苦しいモノを抱えて、それの正体がわからないままゾロへと向いた。
(ゾロ、ゾロ…)
(なあ、起きてくれよ。起きて俺を見ろ。お前一体何があったんだ?)
(ちくしょう、俺を見てくれよ。いつものように目を開けて「よく寝た」とか言ってくれ)
(いやそんなこたあいい。何も言わなくていいから、ただ目を開けてくれ)
(ゾロ…俺の声が聞こえねえのか、ゾロ…)
 必死で呼びかける。サンジの額から汗が一筋伝い、ぽたりと落ちて寝台に染みを作った。サンジはゾロの上にかがみ込んで、閉じたゾロの目蓋を力を込めて見続けた。まるでそうすれば透けてその下の目が見えると言うかのように。
 しばらく療法師はそんなサンジを見ていたが、僅かに肩を落とすと師補たちに目配せしてそっと療法室を出て行った。

(五巡年前は、俺の呼びかけに目を覚ましたのに…!)
 サンジは苛立ちのあまり叫びだしたくなっていた。しかしそんなことをしたって何にもならない。
 静かな時が流れた。相変わらずゾロは蒼白な顔のまま診察台の上に横たわったまま、ぴくりとも動かない。サンジはどうやってもゾロの意識が戻らないことが納得できなかったが、そっとサンジを呼ぶ声にのろのろを首を捻ってそちらを向いた。
「洞母…お取り込み中のところ大変申し訳ございませんが…」
「なんだ」
 つい硬い声になってしまったのは無理もないだろう。
「他の大厳洞に統領捜索の依頼をお出しになった件ですが、急ぎまた取り消しの連絡を入れないとならないと洞母ロビンがおっしゃっています。太鼓ノ塔から暗号通信でお出しになりますか?」
「ああ…」
 サンジは診察台に乗り上げるような姿勢を元に戻し、その報せをもたらした伝令へきちんと向き直った。ざんばらに落ちた前髪をぱらりと透くと片方だけの蒼い目がまだ若い竜児ノ騎士を見る。
「そうだな。短い時間とはいえ、手間を掛けたお詫びもしなければならないから、通信ではなく騎士で伝言を飛ばしてくれないか。人選については一任する」
「はい。それでは洞母ロビンにそうお伝えします」
「そうしてくれ」
「あの、」
「まだ何か?」
 用事が済んだらすぐ出て行くと思った若者は、サンジの背にまた呼びかけた。
「統領、大丈夫ですよね? 俺、いや私はまだ統領の元で飛ぶ名誉を得ていないんですが、次の糸降りからは参加していいって竜児ノ騎士ノ長にお許しを得ているんです。俺…私はずっとゾロ統領の指揮で飛ぶことを夢見ていました。まだ飛翔隊長の頃から、ずっと憧れだったんです。だから行方不明って聞いてすごく心配したんですが…でも戻って来たのですから、いつかまた元気になって糸降りを指揮してくれる、そうですよね?」
 黒目がちな瞳は必死にサンジに訴えていた。サンジは何と返事を返したらよいか途方に暮れたが、結局のところ出てきた言葉は平易なものだった。
「ああ、そうだ。ゾロは問題ねえ、大丈夫だ」
 一体どこが大丈夫と言うのだろう。現状から言えば何の保証もない。ゾロが意識を取り戻すのをただ待つしかないし、療法師の見立てでは下半身と左腕に重大な損傷があるというのに。
 しかしそれでも、サンジは無理矢理に笑顔を作ってみせた。
「ちっとばかり寝かせておくしかねえみたいだが、心配すんなって他の皆にも言ってやれ」
「ありがとうございますっ!」
 竜児ノ騎士は元気よくサンジに礼を言うと、今度こそ部屋を出て行った。
 
「今度の糸降り」か──
 サンジは竜児ノ騎士が何気なく言った一言に思いを馳せる。糸降りはまだ終わらない。今の接近期は自分たちが寿命を終えてもまだ続くはずだ。絶え間ない糸胞との戦い、そして城砦や工舎の人々を、大地とその恵みを守ること。この厳しい時期を乗り切るには強い統領が必要だ。大厳洞の竜騎士全てを率いて、糸降りに立ち向かえる強いリーダーがどうしても必要なのだ。
(ゾロ)
 ゾロならばその重責を共に担っていけた筈だった。
 サンジは黙ったままのゾロの顔をもう一度見て、そっと手を差し伸べた。頬に触れるとひんやりと冷たかった。
(俺はお前をあきらめねえぞ。だけど)
 サンジはばっと診察台に背を向けると二度と振り返ることなく部屋を出て行った。

 ロビンの言葉がサンジの頭の中に響く。
『あの人が生きているのだからそれくらい大したことではない』
『けれど僅かに見えてきた希望で、私は焦ったわ』
(ちくしょう)
 胸の内だけで罵(ののし)り声を上げる。
(ほんっとロビンが危惧したとおりになっちまいやがった。俺も同じだ。ゾロが生きていてくれさえしたら、と思っていたのに偽りはねえ。だけどゾロが戻ってきたと聞いた時、一瞬湧いた希望に心が揺さぶられちまった)
 けれどそれは無理のない心の動きよ、とロビンがサンジの心の内を聞いたらそう言ったことだろう。誰しも親しい者の無事を願うものであるし、大厳洞ノ伴侶ならば肉体も精神も繋ぎ合わせるものであるからより一層感情に左右されてしまう、と。
『これからゾロが無事に発見されてもされなくても、それに関わらず貴方は心を強く保たなければ』
 ぎり、と奥歯を噛みしめる。わかってるさ、ゾロは大事な俺の伴侶だ。それには変わりないけれど、俺はこのハイリーチェス大厳洞の首位洞母だ。洞母としての務めを果たさなければならない。
「飛翔隊長を合議ノ間に全員呼んでくれ。前統領と洞母もだ。あと全ての大厳洞に改めて触れを出す」
 通りかかった男を掴まえて命を下す。見たことがあったようななかったような気がするが名前まで思い出せなかった。男はちょっとびっくりしたように一瞬目を瞠(みは)ると口を開いた。
「皆さん既に合議ノ間にいらっしゃいます。俺は貴方を呼びに行くところでした」
 サンジは瞬間きょとんとしたが、すぐに頷いて男に従って合議ノ間へと向かった。当然だ。統領があの状態なのだから、今後について話し合いをしなくてはならない。
 歩きながら、そういえばこの男はつい最近着任した新任の鍛冶師だったと思い出した。糸降りからゾロの行方不明とごたごたが続いていたので着任後の挨拶を済ませただけですっかり存在を忘れていた。確か名前はフラック──いや、フランクだったか?
「どうぞ。洞母サンジがお越しになりました」
 後半部分は扉の中へ向けて言いながら鍛冶師は扉を開け、自分はそっとその陰に大柄な身体を引いた。
 サンジはその途端鍛冶師の存在を頭から消し、部屋の中へと踏み込んだ。そうして皆の視線が自分に集まっていることを確認したのち、一呼吸置いてから、今皆が一番心配しているであろう問題について、その解決方法を決断した。
「今度のラティエスの交合飛翔は、公開飛翔にする。誰でも、我と思うものは名乗り出るように、全大厳洞へ向けて触れを出してくれ」
「───!」
 おそらく、サンジはその決断を自分から口にすることはないだろう、とその中の誰もが思っていた。洞母になりたての時ならともかく、すでに五巡年も連続してゾロのバシリスと交合飛翔を行って来ているのだし、ゾロは負傷しているといえどもちゃんと大厳洞に戻った。だからゾロの回復までをどのように統領代行を立てて大厳洞を運営していくのか、そういった動議がサンジからは発せられるだろうと目されていたのである。
「いいのですか…?」
 最古参の飛翔隊長のトムが尋ねた。サンジはゆっくりと卓に集まっている顔ぶれを見渡して頷いた。
「いい」
 ロビンの視線を捉えると、彼女は痛ましそうな表情でサンジを見ていた。サンジはすっと彼女から視線を逸らして口を開く。
「我々の使命は何だ? 糸胞と戦い、民と大地を守ることだろう? それには強いリーダーが必要だ。こういった危機にこそ伝統(しきたり)に従って、一番強い青銅ノ騎士を統領に迎えるのが筋ではないか。俺は洞母の地位をかさに着て、ゾロの復活を待って統領選任を先延ばしにはしたくない。そんなことをしたって困るのは我々だけでなく、庇護下の土地全てに影響が及ぶんだ。それに、俺はゾロはすぐに復帰すると信じている。それまでヤツの場所を大事に温めておいて差し出したってきっとヤツは喜ばない。ヤツなら堂々と奪い返すだろう。だから、一時だ──一時だけヤツの代理の統領をきちんと立てよう。伝統(しきたり)どおりに執り行うのだから、大厳洞も城砦も誰も文句は言えねえ筈だ。そうすれば皆新しい統領の指揮についてゆく。そうだろう?」
 サンジの熱弁に誰もが声を失った。確かにそのとおりだ。もしも統領代行を立てて大厳洞を仮に運営しても、どこかで必ず軋(きし)みが出る。大厳洞とて一枚岩ではない。サンジが初の男性洞母として受け入れられるまでにどれだけのねたみ、陰口、いやがらせがあったことか。しかしサンジのラティエスが堂々と交合飛翔を成し、その結果として多数の卵を産んで、同時にサンジの稀(まれ)な能力と堅実に培(つちか)った実力とが顕(あらわ)されるにつれて徐々に不満の声は消えていった。しかし陰に消えたと見えたそういった不満分子は折あればすぐに膨れ上がることだろう。
 伝統(しきたり)に則(のっと)っていさえすれば少なくとも文句の出しようはない。サンジはまずそういったところでも機先を制すつもりなのだ。
「でも、他所(よそ)の大厳洞の青銅ノ騎士が統領になったとして、皆素直に附いてまいりますでしょうか?」
 とこれは一番若い飛翔隊長のコビー。
「それはここにいる皆の手腕にかかってる。飛翔隊長がまず手本を見せてやってくれ。でもまあ、とんでもねえヤツはいないさ。基本的に今現在候補になりそうな青銅ノ騎士の中にはな。若手(ルーキー)の中ではそうだな、キッド、ホーキンス、ロー、ベッジあたりが有望か。それよりお前だって資格はあるんだぜ。他所の大厳洞の騎士を統領にしたくねえっつうんなら、ここに居る誰かが挑戦すればいい。どれもこれもラティエスを掴まえられればの話だけどな」
 サンジはふっと余裕の笑みすら浮かべていた。
「しかしその…実際のところ、統領の具合はどうなのだ?」中堅どころの騎士、ザンバイが真面目な顔で尋ねた。見た目は少しばかり人相が悪いのだが、実際は情に厚く、信頼性が高いところが買われている。実力も、目立たないところでさりげなくサポートをこなしているあたりなかなか評価が高い。
 サンジは真剣な顔に戻り、言った。ここにいるメンバーに嘘を言ってみても何にもならない。下手なごまかしも一切なしだ。
 おそらく先に退出したターリー師から聞いてはいるだろうが、皆サンジの言葉を待っていた。
「…師の話では下半身と左腕に反射がないそうだ。おそらく脳にかなり強い衝撃を受けたらしい。そして意識が戻らない。何度俺が呼びかけても──そうだ思念でだ──反応が返ってこない。バシリスですら沈黙したままだ。正直なところ、回復の目途はまるではっきりしていない」
「貴方自身は、どう思っているんです」
 シンとした中、声を発したのはベンだった。彼はシャンクスの引退と共に身を引き、サンジとゾロがどんなに統領補佐の続投を依頼しても頑として聞き入れず、今は一飛翔隊長としてこの席にいた。
「俺は…」
 サンジは一旦言葉を呑んだ。俺がどう思っているかだって? 俺はただ信じるしかねえ。ゾロは戻ってくるって。俺は療法師でもねえから、実際ゾロの負った怪我の具合だってよくわからねえけど。
『俺は必ず戻ってくる。お前が俺の、照合座標なんだから』
 そう言ってのけたゾロを憶えている。サンジはぐいと背を伸ばしてきっぱりと言った。
「ゾロは必ず、また飛ぶ。アイツは骨の髄まで竜騎士だから。どんなに時間がかかっても、必ず」
 ベンはサンジの言葉に軽く頷いただけでそれ以上追求しようとしなかった。
「それでは…?」
 そのほかの質問を求めてサンジが見渡したが、誰も何も言わなかった。ほとんどの者が黙ったまま席を立って静かに部屋を出て行く。数名がサンジの肩を軽く叩いていったが、サンジはそれに気が付かなかった。
 ロビンが立ち上がり、サンジの顔を真っ直ぐ見つめたまま歩み寄る。しかし彼女はしばらく視線を交わしただけで何を言おうともせず、立ち去った。
 最後にサンジがひとり合議ノ間に残された。サンジは会議用の円卓に手をついたまま、彫像のように動こうとはしなかった。

 

  

(5)<< >>(7)