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竜の血脈(7)




「なあシャンクス、アンタがまた統領をやってくれよ」
 サンジが硝子杯を掲げながら言った。杯の中には赤い液体が半分ほど入っていて、サンジはそれをゆらゆらと揺らして中の液体がランプの光に色々な赤を反射するのを半分伏せた目で見ている。
「やなこった。ようやく肩の荷を降ろしてただ飛ぶだけの気楽な毎日なのにさ」
 シャンクスも同じ硝子杯をくいっと呷ると、テーブルの上の瓶からなみなみと赤い液体を注ぎ足した。
「だって、大厳洞には統領が必要だろ」
「お前、冗談で言ってるんじゃねえの? いくらティレク産の葡萄酒が酸味が強いからっていっても悪酔いするほどじゃねえだろ」
「えー…、冗談だよ、冗談に決まってる…だけど、冗談だとしてちょっと考えてみてくんねえ?──ください」
 サンジはすこし舌足らずになった怪しい口調でシャンクスに言いつのった。シャンクスは杯を傾けながら目を細めてサンジを見る。二人の視線が硝子杯越しに重なった。ことり、とシャンクスが杯をテーブルに置き、サンジから視線を逸らす。シャンクスの口から普段の彼からは想像できないくらい低く冷たい声が流れた。
「それで気心が知れている俺ならお前も抱かれるのがマシってか? ダメだね。お前はなんとか決意したかもしれないが、俺はどうなる? というかロビンちゃんは? 俺はロビンちゃんを悲しませるくらいなら舌噛み切って死ぬね」
「………」
「なあサンジ、こんな事態になって確かにお前は一番厳しい役回りが振られた。もし今のお前の立場にロビンちゃんが立たされたら、って考えたら俺だって正気でいられるかわからねえ。葡萄酒なんか樽で空けてぶっ倒れたいところだ」
「………」
「俺なんかに何がわかる、って言いたいんだろうけどな。だけど冗談だけにしとけ。弱音を吐きたいならつきあってやっから」
「…ん……」
「ホント、因果な商売だよなあ、統領と洞母なんてさ。尊敬されて頼られてはいるけど、自分が一番大事な者を置いていかなきゃならない」
「けど、俺はゾロを捨てるわけじゃねえ」
「うん、わかってる」
「義務を果たし、ゾロの復活を待つさ。それしかできないから」
「ま、それしかねえよな。酒ならいつでもつきあってやる」
 シャンクスは言い、サンジの杯に葡萄酒を注ぎ足した。
「今日のさ…」
「ん?」
「今日の合議ノ間にいた連中の中で、誰が交合飛翔に名乗りをあげてくるだろうな」
「そんなこと考えるな。何もかもその時になりゃわかるさ。お前はただゾロが一刻も早く意識を取り戻すことだけ考えてろ」
「…そうだな…考えたってしょうがねえよな…」
 そしてサンジは杯に手を伸ばした。



朝から緊張感が空気中に漂っていた。サンジは起きた直後からすぐにそれを察して、(とうとうか)と気持ちを引き締めた。
 間違いなく、今日ラティエスは交合飛翔に飛び立つ。サンジも伴侶だけが感じ取れる予感のようなモノに突き動かされるのを認めた。
 岩室の奥にしつらえてある湯殿で丁寧に身を清め、精神を落ち着かせる。ラティエスはまだ深く眠っているのは思念を伸ばさなくても感じ取れた。けれども間違いないだろう。彼女はもう何も知らない若い女王竜ではない。サンジもまたそうだった。交合飛翔は本能に根ざす部分が大きいといえども、何も知らない頃よりはある程度コントロールできるし、経験を重ねた分、予測がつくようになっている。
 岩室に長々と体躯を伸ばして眠っているラティエスをしばらく愛しそうに眺めた後、サンジは療養室へと向かった。そこにはゾロがまだ意識を取り戻さないまま静かに横たわっていた。
 ただ眠っているだけに見えるゾロの双眸は静謐(せいひつ)で、何者にも侵しがたい聖域のようだった。サンジは荒々しく思念で呼びかけるでもなく、ただ黙ってゾロの顔を見つめていた。
 どのくらい時間が経ったろうか。サンジは大厳洞がざわざわと目覚めてくる音を聞きとってそっと腰を上げた。
「じゃあな、行ってくる」
 ゾロの上にかがみ込んで、そっと軽く触れるだけのキスをし、サンジは療養室を後にした。



「ラティエス!」
 サンジの声が響いた。交合飛翔が始まるのだ。ラティエスは本能に揺さぶられて炎のように複眼を煌(きらめ)めかせている。楔形の頭をぐいを持ち上げて、左右に大きく振った。
 さすがにサンジも落ち着いたもので、次のラティエスの行動を読み、岩室から出て眼下に竜たちを見渡せる箇所へと場所を移す。
「青銅竜たちは!?」
 誰かが怒鳴っていた。
「洞母の指示でとうに各大厳洞へ伝令は飛ばしています! これから飛んでくるにしても充分余裕があるはずです。そろそろ…」
 その言葉のとおりに、ハイリーチェス大厳洞の上空にぱっ、ぱっと次々に間隙から現れる竜の姿が見て取れた。それらはすぐにさっと滑空の体勢に入ってあっという間に大厳洞に降り立った。
 騎士たちを降ろした後は、慣れた仕草でさっと岩棚に飛び移る者やそのまま広場にいて翼を拡げたりたたんだりを繰り返す者などまちまちだったが、皆共通しているのはどんなことをしていても常にラティエスをぎらぎら光る眼で見つめていることだった。
 当のラティエスは落ち着かなげに苛々と首を振ることを繰り返していたが、ぐいと顔をあげるとさっと畜獣に襲いかかった。
(ラティエス。だめだよ)
 サンジが優しくしかしきっぱりと制止する。畜獣の肉を喰らっては腹が重くなり、遠くまで飛べなくなる。だから黄金竜には畜獣の血だけで我慢させることが肝要なのだ。
 ラティエスはわかってる、というように低い唸り声を上げた。サンジはラティエスと精神を緊密に繋ぎ合わせながら、自分の周囲を見渡した。
 誰が来ているのだろうか? 優秀な青銅ノ騎士なら有り難い。このハイリーチェス大厳洞を預けるのにふさわしい、できれば経験豊かな騎士がよい。若手はダメだ。若い竜はスピードはあるかもしれないが、技術(テクニック)で劣るだろう。多分ラティエスは軽くあしらえるはずだ。
(ラティエスと俺、二人を出し抜くには結構難しいぜ?)
 こんなときにもかかわらず、サンジはうっすらと笑みを浮かべた。ゾロとバシリスですら、かなり長いこと飛び続けなければ俺たちを掴まえることはできないんだからな──
(さて、本番がスタートするか)
 サンジはラティエスが畜獣の血で口の周りを真紅に染めて、ぐいと頭をもたげたのを見て取って気持ちを引き締めた。ラティエスが翼をさっと拡げて予備動作なく飛び上がった。その瞬間、サンジの精神もラティエスと共に大厳洞を後にした。
(ゾ、ロ)
 最後に一回だけ、ラティエスを追って飛び立った青銅竜たちを眺める余裕があった。あの中に慣れ親しんだバシリスの姿が在れば。一番最初のあの時のようにぎりぎりの瞬間に飛び込んで来てくれれば…。
 しかし今度は何の奇跡も起こりはしなかった。



(ラティエスの意識に完全に委ねるんだ)
 サンジは自分をとりまく青銅ノ騎士たちの荒い息づかいを感じ、自分もラティエスの飛ぶ歓びに興奮を感じながら、一方心の奥底でこのシーンを冷静に眺めているもうひとりの自分、「サンジ」である自分が苦しんでいるのを無視できずにいた。
 生きていることの歓び、強く速く飛ぶことの歓喜、そしてその生を繋ぐことの渇望、繁殖への純粋な欲望。全てラティエスが今感じていることをサンジも同じ心で感じていた。
 衝き動かされる──コノママ全テ何モ考エズニコノ渦ニ身ヲ任セテシマエバイイ──融け合ったラティエス/サンジの部分がそう言った。渦はどんどん拡がり全てを巻き込もうとしていたが、その奥底で小さく膝をかかえた「サンジ」が、ぎゅうとその身を固くして渦に巻き込まれまいと抵抗していた。
(無理ヲシナイデ、コチラニオイデナサイ)
 ラティエス/サンジが優しく促す。
(チャント割リ切ッテイタノニ)
(ゴメンヨ、デモ俺ハドウシテモアノ欠片ノ部分ヲ手放セナイミタイダ)
(苦シイ思イヲスルワ)
(ワカッテル。ショウガネエ)
 そしてラティエス/サンジは一部分だけ融合を欠いたまま飛び続けた。


 

  

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