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竜の血脈(8)




(ゾロ…ゾロ…)
 サンジは重い目蓋をようやく持ち上げた。どこもかしこも怠(だる)い。交合飛翔の後はいつも疲労困憊しているから、身体が重く感じるのは別段不思議でもなんでもなかったが、今までずっと頭の中でゾロを呼んでいた名残で酷く頭痛がした。
 よいしょ、とかけ声をかけて半身を起こす。隣に気絶するように深く眠っている男を見て、こいつか、と思った。誰だっけ、確かイゲン大厳洞の青銅ノ騎士だったと記憶を探ろうとしたが、こめかみがずきずきしてきたので詮索は後廻しにして寝台から抜け出し、湯殿に向かった。
 こんこんと湧き出る湯にゆったりと浸かりながら、サンジは自分の身体を冷めた目で調べた。全て受け入れるつもりでいたのに、本能に抗う自分の「欠片」のせいで、身体が緊張を解けずに抵抗してしまった。おかげであちこちしなくていい怪我──怪我というほど大げさなものではなかったが──をした。
 腕に残る痣やあちこちに散らばる鬱血の痕を見て、サンジはため息をついた。まるで処女を相手にしているようだっただろう。まあ別段期待していた訳ではなかっただろうし、今後とも閨(ねや)を共にするつもりはないだろうから、文句を言われることはないだろうが。
「いいさ…とりあえず、終わったんだから」
 知らず独り言が漏れた。義務は果たした。新しい大厳洞ノ統領は決定した。これで何の問題もない。ハイリーチェス大厳洞は新しい統領の統制の元、動いてゆくだろう。そのうちにラティエスもまた卵を産み、新しい命と新しい騎士たちが誕生する。

 皮膚がふやけるほどまで湯に浸かり、身体を洗い砂でひりひりするまでこすり立てて、ようやく人心地がついた。
 湯殿から出て新しい衣服を纏(まと)い、そっとラティエスのところへ行く。彼女もまた深い眠りに落ちていることは、サンジは起きたときからとうに知っていたがそれでもラティエスの金色に輝く皮膚にそっと触れているだけで心がすうっと軽くなるように感じられた。
(全てひとつに融け合うことができなかったけれど)
(それでもまあまあ満足のいく飛翔ができた? お嬢さん)
(荒々しかったけれど、でもけして乱暴ではなかったよね。彼は悪くなかった。俺が素直に受け入れられていればもっとすんなりいった筈だし)
(今回だけだから)
 穏やかな寝息に深い満足げな気配を感じとって、サンジは少しだけ安心する。俺には魂の伴侶がここに居る。もし、もしも俺がラティエスと同じ性であったならきっともっといろんな部分を共有することができてよかったのに。そうしたらゾロと子供を作ることだって──
 そこまで考えてはっと現実に立ち返った。そんな非現実的な夢想をしてる場合ではない。
 サンジはのろのろと怠い身体を叱咤して歩き出した。何でもない振りをして歩きたかったが、さすがに身体が辛く、かばうように歩くと普段はほとんど目立たないが僅かに片足を引きずってしまう。ちくしょう、こんなところは誰にも見られたくねえな、と思っていたら通路の向こうから話しながらやってくる声が聞こえた。思わずさっとそこにあった扉を開けて中に入ってやり過ごす。
「…それにしても公開飛翔とは思い切ったことをなさったものだ」
「ふむ、そうだな。しかし無事に新しい統領が決まってよかったではないか」
「イゲン出身かあ。アレック新統領にとってはこの山間部のハイリーチェスは勝手が違うだろう。慣れるまで苦労するのでなければよいが」
「まあ、それでも竜騎士である限り、空が戦場であることは変わりないしな」
「全くだ。とにかく「飛べる」騎士に決まってほっとしたよ。イゲンでは統領に次ぐ実力者なんだって?」
「そうらしいな。糸降りの経験もかなりあるそうだ。これで我が大厳洞も安心、安泰だな。一時はどうなることかと思ったが」
「うむ。俺もゾロ統領は尊敬してるし、心底から無事を祈っているが──やはり統領が飛べないとなると不安だからなあ。前にシャンクス統領が大怪我した時も、あのときも大厳洞中の士気が低下したものだが、フルールスの交合飛翔まで半年以上もあったし。それに比べると、今回はたった数日でラティエスが交合飛翔に飛んだから、いや本当によかった」
「本当にそのとおり。噂ではゾロ統領はもう飛べそうもないくらい酷い状態だそうじゃないか。それならさっさと新しい統領を決めてくれて助かったよ」
「ふん、まあサンジ洞母は男だからな。普通の女性の洞母のようにアッチの方でも伴侶という訳ではないのだよ。だから情ではなく理で決定することができたという訳だ」
「そうなのか? 結構仲は良いように聞いていたが…まあこの時ばかりはサンジ洞母が男性でよかったということか」
「そうさ。何が幸いするかはわからないものだ」
 会話する二人の足音が聞こえなくなるまで、サンジはその場を動けなかった。彼らが誰だったのか調べるつもりはなかった。名前など知っても意味がない。彼らはただこの大厳洞の多くの意見を代表しているだけだ。
 気を取り直してようやくその場から身体を引きはがし、サンジはゆっくりと通路を進んでいった。今度は誰にも遭遇せず、目的の療養室へ辿り着く。重い身体、重い心を引きずってサンジは扉を開けた。
 すると真っ直ぐに寝台の上からこちらを見ているゾロの視線とぶつかった。
「…ゾロッッ!? お前、意識が戻ったのか…!」
 サンジは寝台に駆け寄り、かがみ込んでゾロの手を取った。よかった…! 意識さえ戻れば何が起こったのか原因がわかるし、そうすれば具体的な回復までの目途が立つ。しかし何より、ゾロの目がまた開いたことが純粋に嬉しかった。
「ゾロ? お前大丈夫なのか? どこか痛いところはないか? 何か欲しいものは? このバカ野郎、本当に心配したんだぞ…でもよかった…本当に…俺は二度と目を醒まさないんじゃないかとちょびっと不安になったぞ…いや、本当に一瞬だけどな? 俺は信じてたけどさ、でもさすがにあれだけ呼んでも返事がねえとな…ゾロ? ゾロ、何か言えよ? なあ、どうしたんだよ、何か言えって」
 サンジはゾロの目を覗き込んだまま、立て続けに言葉を浴びせた。ゾロはサンジの言葉を理解している印に微妙に目を細め眉を寄せ、のろのろと口を開けたが、そこからは意味を成す言葉が出てこなかった。
「う、あ」
 ようやく出た声は掠れていて、それも努力してようやく絞り出したという感じの音でしかなかった。
 サンジは驚愕のあまり蒼白になった。
「ゾロッッ! お前、声が…?」
 そのとき、疲れて沈んだ声がサンジの脳裏に響いた。
(ぞろハ、何ガ起コッタノカ、何故身体ガ動カナイノカワカラナクテ混乱シテイル)
「バシリス、お前なのか…?」
 今まで心を閉ざしていたバシリスが事件以来初めて声を発したのだった。
(ぞろハ…トテモ弱ッテル。心ノ声モトテモ弱イ。さんじ、聞キタイコトハタクサンアルデショウケレド、オ願イダカラ今ハ静カニソットシテオイテアゲテ)
(ああ、わかった。バシリス、だから君も今までずっと黙っていたんだね。ゾロの声が聞こえなくて不安に押しつぶされそうになっていたのは君も同じだったんだ)
(ソウ、僕モ何ヲ聞カレテモ何モ答エラレナイ…今ハ。オ願イダ、ぞろヲ安心サセテアゲテ。安静ガ一番ナンダヨ)
(お前の言うとおりだ。思わず取り乱してしまってすまない。すぐに療法師を呼ぶよ)
 サンジは今までバシリスと会話していたとはおくびにも表情に出さず、ゾロを見つめた視線をすっと和らげてにっこり微笑んだ。
「大丈夫だ、ゾロ。お前少しばかり怪我をしたんだけど、すぐ良くなるから。声が出ないのは怪我のせい。俺とバシリスがついてるから、焦らなくていい。すぐターリー師を呼んでくるから、安心して寝ていろ」
 物言いたげなゾロの視線に、ゆっくり頷いた。
「大厳洞は問題ねえ。信じろよ。なんつっても俺が洞母なんだぜ? うちの竜騎士達だって、お前が少しばかり寝込んでいたってそれで立ち居かなくなるようなヤワな奴らじゃねえだろ?」
 ゾロの目の色が少し和らいだ。
「お前には、俺がついてる。何があっても、俺が守るから」
(オ前ニ守ルナンテ言ワレル日ガ来ルナンテ信ジラレネエ、クスグッテエ、ダッテサ)
 バシリスの通訳がサンジに届いた。サンジは苦笑してゾロの頬にそっと手を触れた。暖かい。最後に触れたときはひんやりしていて泣きたくなったが、今は生の確かさに嬉しくてじわりとこみあげるものがあった。
「酷え。けど、その言い様こそお前だ」
 サンジは心の中にずっと抱えていた重いしこりがすこしづつ融けていくのを感じた。もう大丈夫。ゾロが目を覚ました。バシリスを通じてだがちゃんと会話もできる。
「師を呼んでくる」
 言い置いて、その場を後にした。師補たちが隣の部屋に詰めている筈だったが、飛翔ノ儀の宴席に交代で出ているらしく、貧乏くじを引いた留守番のひとりは、夜番明けの疲れで机に突っ伏して眠っていた。
 サンジはそれを幸いに棚から自分用に痛み止めをくすね、その場で服用した。ちょっと強いモノで普段なら簡単に処方されないのを知っていたが、いまいましく軋むこの身体が自由に動けるようになるために必要だった。それから眠っていた師補を起こし、ターリー師の居場所を尋ねた。師補はゾロが意識を取り戻したことに驚き、すぐ師を探して呼んできますとサンジの替わりに飛び出していった。
 ほう、とサンジが安堵のため息をつく。すぐゾロの元に戻らなくてはと思いつつ、ほんの一時だけ、とそばにあった椅子によろよろと腰掛けた。
(今だけ、今だけだ)
 両手で顔を覆う。洞母は強い心で在ることを要求され、常に冷静で気丈に振る舞うことを期待されているが、今ここには咎める者は誰もいない。
 静かな部屋にサンジの啜り泣く声が流れた。ゾロが行方不明になったと聞かされてからサンジは一滴も涙を見せていなかったのが、今ようやく溢れ流れたのだった。


 

  

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