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竜の血脈(10)




「それで今月の十分の一税のことだが」
「何か問題でも? その書面にあるとおり、モスカ城砦では春期は根菜と蜜、蜜蝋、あと畜獣が少しの予定だ。それが明日到着。明後日はクリー城砦の荷が…」
「そんなことを言ってるんじゃない。予定を十分に把握しているのはそれは結構。だけどもう少し多くてもよいんじゃないか?」
「アレック。ここはイゲンじゃあない。高地が多いハイリーチェスだ。庇護下の城砦も平原はティレク近辺で、近くの小城砦はもともと、春のこの時期はそれほど出せるものじゃあないんだ。その分秋期には塩漬けの樽肉や果実や脱穀済みの穀物をたくさん送ってきて年間の帳尻を合わせている」
「しかしこの量では、大厳洞の全員を賄えるのか?」
「心配ない。毎年、前年の秋からの分を備蓄してあって、そうやってうまく凌いでいる」
「大厳洞には常に収穫の最もよい部分を納めることになっているだろう? ここはそうじゃないのか」
「そうやっている。単に時期の問題だ。温暖で平原の多いイゲン平野とは違って厳しい冬に何ヶ月も閉じこめられる山間部を多く抱えたここでは、こうやって互いにやりくりするのが暗黙の了解なんだ。貧乏臭いと思うかもしれないが」
「サンジ…何でそういった言い方をするんだ。俺は確かにここのやり方には不慣れだ。だからそういったこの地特有のことがらに早く慣れたい。だから疑問に思ったことをいちいち聞いてしまう。しかししょうがないだろう? 知っておかねばならないことは知っている人間に聞くしかないんだから。つまり君の協力が絶対に必要なんだ」
「………」
「サンジ、俺の何が気にいらないんだ?」
「アンタは立派にやっているよ、アレック。ああ悪い、ラティエスが呼んでいるんで行ってくる」
「サンジ…」
 アレック新統領の呼びかけには無言のまま、サンジはすいと席を立って出て行ってしまった。
 あの日、公開飛翔でラティエスと共に飛んだのはイゲン大厳洞のルイスという青銅竜だった。その伴侶ノ騎士はアレックといって、イゲン大厳洞でも一目置かれるほどの実力者として既に名を馳せていた。
(悪い男じゃあないんだけど…)
 サンジはどうにもやり場のない苛立ちに突き動かされるように岩室へと急いだ。そこにはラティエスがくつろいでいて、ゆっくりと渦巻く複眼を向けてサンジを出迎えた。
 途端にサンジは苛立った心が凪いでゆくのを感じて、歩調を落としてゆっくりとラティエスの傍に陣取ると、そっと手を伸ばして目のふちを掻いてやった。
(ナアニ、ソンナニ私ニ会イタカッタ?)
 からかうような声でラティエスが言う。
「君に会うのはいつだって無上の喜びさ」
 すましてサンジが言って続けた。
「…もうそろそろだね。もうお腹が重くて飛ぶのが大変だろう?」
(マダ大丈夫。私モコレガ初メテジャアナインデスカラネ。自分デ自分ノコトハヨクワカッテルワ。ソウネ、今ナラ一ツ山向コウノ小サナ湖ハ、午後ノ太陽デイイ具合ニ暖カインジャアナイカシラ…アソコナラ誰モ邪魔ヲシニコナイシ、静カニ日ナタボッコシタイワ)
 ラティエスの控えめな気遣いにサンジは慰められた。素直に応じる。
「そうだね。少しだけなら、ちょっと行ってみようか。そんなに遠くないし」
 すぐに黄金の一対が上空に舞い、優雅に飛び去った。

「そういえば、ここでよくゾロとこっそり待ち合わせしたなあ」
 着いてすぐ、山間の小さな湖のほとりにたたずんでサンジがひとりごちる。
(コノ岩ガヨク暖マッテイルワ。アナタモ一緒ニ昼寝スル? ナンダカ最近ピリピリシテルワヨ)
「ありがとう。うん…解ってるんだ。彼のせいじゃない、俺のせいだってことは。アレックは全然悪いやつじゃない。ただ、あまり積極的にハイリーチェスに手を出して欲しくない、っていうか…。ゾロのいない間にゾロの場所を奪われる気がするんだな、俺にとって」
(ぞろハ相変ワラズナノ? ばしりすモズット塞ギコンデイテアマリ楽シイ話相手ジャアナイシ)
 その問いには答えず、サンジはラティエスに寄りかかるようにして座ると膝を抱えた。
「何の保証もねえ…結局アレックがまた怪我や何かして飛べなくなっちまったら、また新しい統領を選ぶしかねえし…」
 アレックはイゲン大厳洞で長年飛翔隊長をやっていただけあって、飛ぶ技量は確かで糸降りの経験も豊かだ。安定感もある。もしゾロがこのままの容態ならば、ハイリーチェス大厳洞はこの新統領でずっと運営されるのだ。この間立ち聞きしたように、早くもその体勢は歓迎されつつある。しかし不慮の事故というものは常にある。絶対はない。
 サンジは抱えた膝の間に顔を埋めて丸くなった。
 どんなに尊敬を得ても、所詮洞母は交合飛翔で統領となる男と身体を重ねることになる。この統領が怪我をしたり死んだりしたら、さらに別の男と──。
 ゾロが順調に回復していたら、サンジはこれほどまでに後ろ向きで不安な気持ちにはならなかっただろう。しかし実際のところ、ラティエスの問いに答えられないほど、ゾロの容態はあまりよくなかった。
 殆どの時間をただこんこんと眠って過ごし、たまに目を醒ましても、必要最小限の要求しか伝えてこない。
 サンジはアレックが新統領と決まってからも、ゾロと岩室を共有していた。これは伝統(しきたり)に反していたが、サンジのみがバシリスと通じてゾロと意志を交わすことが出来たのと、頑としてサンジ自身がゾロの看病を他の人間に譲ろうとしなかったからである。アレックは気にしない風で、別の広い岩室を一人で使用していた。

(他ノ洞母ハドウナノカシラ? 別ニさんじダケガ洞母ナワケジャナイデショ。私ダッテ私ダケガ女王竜ジャナイノト一緒デ)
「──うん、そうだね。そういえば前にロビンにも言われたっけ。彼女は結果的には統領はシャンクス一人だけだったけど」
 他の洞母たち、過去の洞母たちは皆どうだったのだろう? 女性だからといって、慣れない騎士に肌を許すのはやはり楽な心持ちではないはずだ。機会があったら、今度聞いてみよう…俺なんかに話してくれるかなあ…と考えていると、
(ダメジャナイ、マタ「ナンカ」ッテ考エテイル。ぞろニ怒ラレルワヨ)とラティエスに指摘された。
 サンジは苦笑した。
「ほんと君にはお手上げだよ。君が俺の伴侶で本当によかった。自分の価値を安く見るなってことだよね。もう洞母としてもいい加減自信を持っていていいはずだって言われちゃうな」
(ぞろノオ母サント話ヲシテミタラ?)
「テルガーの洞母、リリア様か。あそこもそろそろ首位洞母と統領の引退のころだなあ。でもちょっと言い難いよ…実の息子が閨(ねや)をともにしてる相手からそんな話を振るなんてさ、って君にはわからないだろうけど」
(フウン? 知リタイコトヲ聞クダケナノニ何デソンナコトガ問題ニナルノカワカラナイワ。さんじハ洞母トシテ他ノ洞母ノ実例ヲ知リタイノニ、ソコニぞろハ関係ナイデショウ?)
 サンジは微苦笑した。竜はこういった微妙な感情の機微は疎い。そこに救われていることも多々あるのだが、今は説明しても理解されないだろう。
(いや――)
 逆に今はラティエスの言うとおり、きっぱり割り切るときかもしれない。ゾロの実母だからと言って遠慮するよりは、素直に話をしてみるのも一つの手かもしれない。なにより、彼女はサンジのどの竜とも話ができるという能力を最初に支持した人間だ。普通の人間と違うことを引け目に感じていたサンジに、「それのどこが悪いの?」と言い切って、洞母としてはとても価値がある能力だと、竜はそして竜騎士はそんなに狭量ではないと言い切った。
 そのとき、サンジは一つの重い殻を破ることができたのだ。
 少しの沈黙を破ってサンジは顔を上げた。
「うん、そうだね。君の言うとおりだ。リリア様と話してみることにしよう」



「まあ珍しい。ハイリーチェス大厳洞のサンジ洞母が訪ねておいでですって?」
 テルガーのリリア洞母はばら色の頬をして、体つきも全体的に小柄でやわらかい印象を持った女性だった。年の頃は四十半ば、若いうちにゾロを産み、さらに数人の子供を統領ミホークとの間にもうけている。そのゾロの弟妹にあたる子供もあちこちに養い児に出しているからか、今もって数人の子供の母親といった印象からは遠かった。
 サンジは糸降りのときに女王竜の編隊で一緒に飛ぶため、他の大厳洞の騎士たちよりは面識があったものの、それほど必要以上に親しいというわけではないので、今回のこの突然の訪問をどう説明するかいきなり戸惑ってしまった。
 しかしその戸惑いをなんなく見抜いたリリアは、流れるような身ごなしでサンジを迎え入れるとほんの少し首を傾げて自分から口を開いた。
「そんなに堅くなることはないわ。ゾロのこと? ゾロの容態が悪くなったわけじゃないでしょう? それなら貴方がわざわざくるはずがないもの。伝令がさっさとミホークのところに来るはずだわ。そうじゃなくて貴方がひとりで来たということは…」
 サンジはもうすでに何回になるかわからないほど、どうしてこのような柔和な物腰の女性(ひと)からゾロのような無骨な男が生まれたのだろうと考えた。
「…わからないわ。黙っていないでお話してちょうだいな。テルガーとハイリーチェスという違いはあっても、同じ洞母という立場じゃないの」
 励ますようにサンジの目を覗き込む。
「ええと、あの、そのう…こんなことをお話するのはすごく失礼かと思うのですが…」
 サンジはそこでごくりと唾を飲み込んだ。本当にどうやって話し始めたらよいのかわからない。しかしリリアは辛抱強く黙ってサンジの次の言葉を待った。サンジはじっと見つめるリリアの目に気圧されて視線を膝の間に落とし、ぽつりぽつりと言葉を押し出し始めた。
「つまり…大厳洞ノ伴侶が…交代する時…って…洞母の意志っつーか…どうしようもないわけでしょう? でも大厳洞には統領が必要だし…洞母は受け入れなきゃなんないです、よ、ね? それを…どう…折り合いをつけていったらいいか…その辺のトコロの覚悟、つーか、心持ちとか、もし参考になれば…でも、そんなことやっぱ言いたくないでしょうし…」
 最後の辺りは自分でも何を言っているのかわからなくなってしどろもどろになってしまっていた。しかしサンジが懸命に繋いだ言葉をリリアは嫌な顔ひとつせず真剣に聞いた後、つと立ち上がって傍らの棚から瓶と硝子杯を手に取った。とくとくと瓶の中身を杯に注ぐとひとつをサンジに差し出して自分も同じように手にする。
「どうぞ。ベンデンの白よ。ミホークがもらったものだけど彼は気にしないわ」
 くいと自分も杯を傾けてサンジも同様にするのを見た後、リリアはゆっくりと口を開く。
「なるほどね、貴方もそういう類の苦しい思いをしているのね…公開飛翔の報せを聞いて、割り切れているものなのかと思っていたけど、いいえ、逆に男性であるから余計に辛いのね…」
 サンジは手の中の杯をひねくり回して返事を躊躇った。
「貴方はゾロととても良い関係にあると思っていたわ。今でも気持ちの上ではそうなのでしょう? だから新しい統領を受け入れることが理性の上では納得できても感情が拒否しているのね」
「でも、既に統領は決定してしまいました! 俺はアレックとハイリーチェスを動かしていかねばならないんですが、どうしても彼の上にゾロを重ねてしまう。そして早くゾロが元気になって彼と入れ替わって欲しいと願ってしまう…そう思う俺の感情が彼にも伝わって、ぎくしゃくしてしまうんです。彼は悪くない。俺がもっと譲歩しさえすればいい、そう頭ではわかっているのに、それができない…!」
 リリアがそっと手を伸ばしてサンジの肩に触れた。
「可哀想に。洞母は少なからず似たような苦しみを抱えているわ。自分の想う相手と結ばれるかどうかがまず一番の障害。もしもそれが適わなくても、一緒に暮らしていくうちに、だんだんと馴染んでいくものなの。そして今回のように事故か何かがあって、新たな統領を選ばなくてはならないとき、さらに辛い立場に立たされるわ」
「………」
「私もね、サンジ。ミホーク以外の騎士を伴侶に迎えたことがあるのよ」
「──え?」
 サンジが意外だという顔をしてリリアを見上げた。ミホークは由緒あるテルガー大厳洞で不動の地位を保っているのだと思っていた。
「一回だけね。ミホークも私もまだ若かったころ。その頃はまだ私は首位洞母ではなかったし、ミホークも統領ではなかったわ。酷い風邪を引いていたのだ、ということは後でわかったのだけど、とにかくあとちょっとのところで彼は他の青銅竜に競り負けたの。そのとき、私はその騎士に抱かれながら涙を流したわ…理性と感性が乖離(かいり)したあの時の感覚は忘れない…その後、私は頑としてその騎士とは交合飛翔の時だけだと突き放した。もちろん洞母としての仕事はちゃんとやったけれど。だって既にその時には私の心はミホークを生涯の大厳洞ノ伴侶と決めていたのですもの」
「ど…うやって普段の生活で気持ちの折り合いをつけていたのですか?」
 サンジが思わず乗りだして尋ねる。リリアはちょっとだけ困ったような顔をして答えた。
「折り合いは結局つけられなかったわ。ただミホークがいたから。あと私の黄金竜ソニスが支えてくれたわ。ミホークったら、あのもの凄く怖い地顔を歪ませて「すまない」って何度も謝るの。まあ、彼も万能ではないってわかったし、それからは風邪ひとつ引かないよう一層体調管理から全てに気を配るようになったし、許してあげたわ。そうして頑張ってとにかく次の交合飛翔までと言い聞かせて毎日がむしゃらに過ごしていた、それだけ。それと私自身子供を授かったということもプラスに作用したわね」
「それって…」
「そう、最初の子供だから、ゾロのことよ。下ノ洞窟から常時誰かしら手伝いが来てくれたけど、とにかく忙しくて、ゾロが生まれてからは毎日がいっぱいいっぱいだったわ。おかげで結局その時の大厳洞ノ伴侶の顔はほとんど覚えていないくらいよ」
「そしてミホーク統領はちゃんと次の交合飛翔で?」
「当然よ。それでなかったらゾロをソニスの背に乗せて一緒に間隙に飛び込んでしまっていたわ──冗談だけど」
 あはは…とサンジは乾いた笑いを浮かべた。
「サンジ、皆苦しい思いをするのは一緒なの。誰も特別なことはないわ。でも、忘れないで。貴方はもっと自分のしたいようにやっていい。洞母は負っている責任が重い分、それくらいのわがままは許されているのよ。貴方が新しい統領と上手くやっていこうと努力するのはいいわ。だけど貴方自身を殺してまでそうする必要はない。仕事上の大切なパートナー、それくらいに受け止めて。でないと貴方がつぶれてしまうわ。もっと軽く、飛翔隊長に羽が生えたくらいと思ってはどうかしら。そしてもし、もし貴方がゾロを──これは先輩洞母ではなく、母親としてのお願いなのだけれど──まだ想っていてくれるのなら、待っていてやって欲しい…あの子は飛ぶために生まれてきたような子だから、きっとまた飛べるようになるわ。誰が信じなくても私と貴方くらいは信じてあげて欲しいの」
「──はい」
 真摯な顔をしてサンジは言葉少なに頷いた。
 
丁寧に礼を述べて、サンジはリリアの元を辞去した。具体的な解決策は得られなかったけれど、随分と心は軽くなった気がする。もっと自由に、というリリアの言葉が何度もサンジの脳裏に浮かんでは消えた。まず洞母ありき、なんですからね、とリリアは言ったのだ。
「洞母が居て、それから統領が選出されるのよ。だからもっとふんぞり返ってもいいの。俺のおかげでお前は統領で居られるんだ、って。まあ実際私もそんなことを面と向かって言ったことはないんだけれど、たまにね、そう考えでもしないと気持ちが滅入っちゃう事があったりするものなのよ。誰が悪いわけでもないけど」
 言ってリリアはぺろっと唇を出して肩をすくめた。そんな仕草をリリアほどの身分の高い女性がするなどサンジにしてみれば初めてだったので、驚きのあまり言葉を失った。
(素敵ナ女性(ひと)ダッタワネ)
 帰路、ふたりだけになってからラティエスがそっと漏らした。サンジは深く頷いて、それから慌てて付け足す。
(そうだね、君の薦めに従ってよかったよ。たおやかに見えて、芯のしっかりした人だ。ああいう人を母親に持っているなんて、ゾロが羨ましいよ)
 母親かあ。俺は自分を生んでくれた人の顔は知らない。母親と呼べるのは大厳洞に来てから育ててくれたマキノだけだ。もちろんマキノには充分すぎるほどの愛情を注いでもらったし、俺も愛情と感謝と尊敬を持っているが──。
 サンジは見たこともない母親という存在をなんとなく思い浮かべようとした。しかし当然顔はもやもやとして何もわからない。
 血の繋がり。リリアがゾロの誕生に言及したときに浮かべた、誇らしげな輝くような顔が忘れられない。遠く離れて別々に暮らしている今でも、サンジにゾロを頼みますと頭を下げた。とうに成人して手は離れてしまっていて、互いに自分の大厳洞に責任を持つ立場になってからそうそう簡単に行き来しなくなっていても、根底に流れる愛情が枯渇したわけではないということだ。
 もちろん自分の魂の半身である竜が居て、それは言葉に尽くせぬくらい素晴らしいものではあるけれど、それとは別に自分と伴侶との血を分けた分身がいるというのは素敵なことではないだろうか。サンジの思考は静かに流れていった。


 

  

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