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竜の血脈(14)




 四季は巡り、一巡年が経った。しかし、ゾロの身体はまだ立ち上がることが出来なかった。

「洞母サンジ。そろそろ本格的に雪が融けてまいります。大厳洞のメインの取水源であるラテント支流ですが、今年も土嚢の準備をしたほうがよいでしょうか」
「そうだな。今年も早めに見回っておいたほうがいいだろう。チームを組んであたって欲しい。ベイリ、君が中心だ。あと君の下の竜児ノ騎士から一名か二名選んで、あと鍛冶師が要るだろう。俺からフランク師に言って、誰か一人出してもらうよう依頼しておこう。いいね?」
「はいっ!」
 洞母から直接特別の仕事をもらった若い褐ノ騎士は瞬間ピンと背を伸ばして直立不動の姿勢をとると、くるりと背を向けて早足にその場を去った。おそらく既に彼の頭の中には指名する竜児ノ騎士の候補リストが出来あがっているに違いない。
 ふう、とサンジは息をついた。そろそろまた春が来る。雪に閉ざされた山間部のハイリーチェスにとっては、長く待ち望んだ春が。
 生き物は暖かい空気に喜んで外へ出て駆け回り、虫も花も畜獣も何もかも子孫を残すという本能が首をもたげてくる。そう、それは竜でさえも例外ではない。
 おそらくあとひと月かそこらで、ラティエスがまた交合飛翔に飛び立つだろう。サンジはそれを考えたときちくりと胸が痛むのを無視できずに、手で胸を服の上から押さえつけた。
「サンジ? こんなところで何やってる? そろそろ定例の会議の時間…」
 アレックが通路の向こうからやってきた。彼とは相変わらず慇懃ではあるがうち解けていないという関係だった。サンジのそんな気分を察し、アレックも早々に必要以上に仲良くなろうという努力を放棄したので、一巡年が経った今でも二人は統領と洞母というにはよそよそしい雰囲気のままだった。
「何でもない。今、行くところだ」
 サンジは硬い声で答える。
「何でもないって顔じゃないぜ。胸が痛むのか? ターリー師に診てもらったほうがいいんじゃないのか?」
 サンジは慌てて胸を押さえていた手を外した。考えていたことがコトだけに、顔を見られたくなくてふいと顔を逸らす。それはアレックの目には拒否の行為に映った。
「…そうかい、俺なんかには心配されたくないってのか。余計なことを言ったな。じゃ、先に行ってる」
「待っ!」
 あわてて振り返ってみても、すでにアレックは背を向けてすたすたと大股で歩き去っていった後で、騎士らしく広い背中は固くサンジの言葉を拒んでいた。
 何故こうなってしまうのだろう。サンジとてけしてアレック自身を嫌っているわけではない。ただ、どうしても馴染めない。アレックと慣れ親しんでしまってはゾロへの裏切りのように思えてしまうのだ。

 ゾロはこの一巡年、とにかくリハビリに必死だった。体力回復にいいと聞けば胡散臭い薬草や煎じ薬も口にしたし、毎日とにかく動かない身体を少しでも動くようにするべく、自分で撫でたりさすったり、熱い風呂に何時間も浸かってみたり、およそ考えつくものは何でも試してみた。
 その甲斐あって、サンジに復活を誓ったあの日からすぐ、左手の先がぴくりと動いた。やった! と手を取り合って喜んだのも束の間、それ以上は遅々として変化がない。
 焦って口数が少なくなるゾロだったが、次に変化があったのは数ヶ月後、足先がほんの少しだけ動いた。今度も介助にあたっている人々と共に喜んだが、またしてもとんとん拍子に動くようにはならなかった。
「一体、どうなってンだ。なんとかとっとと動くようにはならねえのか」
 療法師ノ長にも相談してみたが、
「こればかりはねえ…。悪いけど、はっきりとしたことは言えないな。ただ、希望は持っていいと思うよ。完全麻痺のままで一生終わってもおかしくはないんだからね」
 なんとかなだめられながらも、どうすればこの不自由きわまりない状態から抜け出せるのか、方法どころか指標もわからないというのはゾロを大層苛立たせた。
 ──早く、早くしねえと──
 夏が過ぎ、秋が訪れるとすぐに木枯らしが吹き始める。ハイリーチェスは高地だから冬の訪れは早い。そしてその厳しい冬が終わればまた春が巡ってくる。
 暗く寒い冬の間、ゾロもサンジも多くを語らなかった。ひっそり寄り添うように過ごし、たまさか体熱を分かち合った。
 雪解けの第一報を聞いたときに、ちょうどゾロの左手がなんとか意志どおりに持ち上がるようになった。しかし物を握って掴むまでには至らない。
 それでも、ゾロがその左手をゆっくりと持ち上げてサンジの頬に触れたとき、サンジはそっとその手をとって手のひらに口づけを落とした。そのままそこに顔を伏せる。ゾロはじんわりと手のひらが濡れるのを感じた。しばらくしてサンジは顔を上げると、
「春が、来た」
 とただそれだけを言った。ゾロはひとこと、
「すまねえ」
 と返す。サンジはふるふると首を振ってゾロの謝罪を否定した。
「大丈夫だ。俺は大丈夫。いつまでだって待てる。大したことじゃない、ほんのちょっと余計にかかるだけだ」
「す…」
 もう一度口に出かかった言葉をゾロは飲み込んだ。今のサンジに向けて言っていい言葉ではない。
「じゃあ、今日は定例会議があるから」
 ぐいと手の甲で顔をぬぐって、無理矢理笑んでみせるとぽふ、とゾロの頭に手を置いてから岩室を出て行った。

 アレックの背を見送ってから、サンジはそっとため息をついた。
(いけない。俺が弱音を吐きそうになってどうする)
 とりあえずこれ以上関係を悪くしないように気をつけて振る舞わないと。
 背を伸ばし、足早に会議室へと歩き出した。良くも悪くも現在のところ、サンジにとってアレックは大厳洞ノ伴侶なのだ。たとえかりそめの関係であろうと、周囲の目があるところではあまり奇異に見えない程度には態度を改めなくては。
 そう考えているところで既に普通ではないことにサンジは思い及んでいなかった。打ち解けられないのは仕方がないとしても、「仲が悪くない程度の普通の態度」を「わざわざ形作ろう」としている時点で態度がいびつなものになる。
 しかしサンジはゾロの回復を待つことでいっぱいいっぱいだったのだ。

「それでは、次回の糸降りに関して統領から」
「次回は来週初日に予定されている。周期表によれば明け方から昼過ぎまでの時間、ティレク平原の西の端から南東のチサン海岸のはずれまで」
 アレックは壁にかかっているこの地域の大きな地図を長い棒で指しながら説明している。
 その場に集合している飛翔隊長たちは真剣に説明を聞いていた。糸降りに関しては誰もが真剣にならざるを得ない。サンジはテーブルに肘をついて、ついた肘の上で手の甲に顎を乗せて聞いていた。すでに自分の分の報告は終了していたのでその分気楽に聞いていられる。サンジは主に内政部分だ。この春に産まれる子供の予定数、大厳洞に暮らしている総人数から必要となる食料と各城砦から送られてくる十分の一税との兼ね合い。それをどのような按配で納めてもらうかを要請するのはサンジの手腕だ。そのほか、竜児ノ騎士ノ長からの見習い騎士たちの仕上がり具合の報告があり、鍛冶師から冬の間で傷んだ箇所の修繕を暖かくなったらまとめてするので、あらかじめ点検して修繕の必要箇所を申請して欲しいという要請があった。
 それらは出席者全員が留意しておくべきことであったが、その全ての運営についての実際の責任者はサンジであった。
そして大厳洞の存在意義である糸胞撃退に関しての最高執行責任者は統領にあり、つまり今はアレックだった。この場の多数を占める飛翔隊長達は退屈な運営に関する議題の時より、最後のこの糸降りに関する議題になると目の真剣さが異なっていた。
(まあ無理もねえけどな)
 サンジは半分上の空でアレックが持っている棒が揺れているのを見ていた。この春最初の糸降りがもうすぐそこだ。そういえばちょうど一巡年前の糸降りでゾロが行方不明となったんだった。まだあのときはこんなことになるとは思わずに、アレックの位置にゾロが居て、糸降りの日にはゾロが皆の中心に立って鼓舞の声を上げていたのに…。
 サンジの心はほんの少しの間過去をさ迷っていた。ふと、周囲が自分を見ていることに気づく。
「…ということでいいだろうか、洞母?」
 アレックが何かをサンジに確認していた。しまった。よりにもよって。
「すまん。ちょっと考え事をしていた。もう一度言ってくれるかな」
 大事な会議で説明を聞いていなかったと告白するのは非常にばつの悪い思いだが、正直に自分の非を認めるしかない。サンジは口をきゅっと結んだ。
 はあ、とアレックは大げさに肩をすくめてみせた。サンジはますます身の置き所がなくなる心地だった。
「洞母ともあろう方が、糸降りという最重要議題で上の空とは、ちょっと情けなくはないか? まあ前統領といまだに同じ岩室で起居している位だから、さしずめ愛しいその方のことでも考えていたんだろうが。いくら春が近いからと言ってもほどほどにして欲しいものだ」
 二人の関係を揶揄(やゆ)する侮蔑の言葉にサンジはかあっと顔が熱くなるのを感じた。しかしアレックの言葉は言い方はどうあれ、実際に真実を突いていたのでサンジは何も言い返せなかった。
「まあいいだろう。どんな形でも洞母は洞母。ただ、職責も果たせないようでは困る。特に糸降りでは気を入れてもらわないと。今度は洞母が行方不明になりました、というのでは洒落にならないからな」
 さすがに今度はアレックの皮肉に眉をしかめる者とくすっと失笑する者とで別れた。ゾロの事故は(あれが事故としてだが)、あまりに酷い結末であったので、未だに多くの騎士たちにとって痛ましい出来事として胸に刻まれていた。ここハイリーチェスで感合を果たし、その後順当に頭角を現して統領まで上り詰めたゾロを慕う騎士は多く、そのゾロを遠回しにしろ軽く扱うような言動は、夕餉の席などならば正面切ってたしなめられていた。
 そのゾロを献身的に介護し面倒を見ているサンジへも、同情的な見方をする者は多かった。ただ洞母である立場上、伝統(しきたり)どおりアレックと岩室を共にすべきだという意見もあり、サンジに対しては単純に同情を向けているわけではなく、未だ殆どがつかず離れずで、つまりは第三者を決め込んでいた。

 アレックの皮肉な物言いにサンジは今度は胸の奥からぐうっとこみ上げるものがあったが、意志の力を総動員して押さえ込む。
「…悪かった、気をつけよう」
 かろうじてその言葉だけを押し出すように言った。それからはまた粛々と議事は進み、あとは何事もなく会議は終了した。

 会議が終わると、アレックは出て行こうとしたサンジを呼び止めた。
「何か?」
 サンジは神妙に尋ねる。先ほどの件をまた蒸し返そうというのだろうか。サンジは出来るだけアレックとは軋轢(あつれき)を作りたくなかったので、先ほどの皮肉に対してまだ心穏やかではなかったが、表情には出さずにアレックの次の言葉を待つ。
「いや、悪い。さっきは言い過ぎたと思ってね」
 サンジは一瞬不意を突かれてきょとんとし、すぐさま笑みを浮かべた。
「なんだ、そんなことか。アレは俺がもともと悪かったんだし」
「そう言ってくれると嬉しいよ。こっちとしても大厳洞ノ伴侶と上手くいってないなんて噂を立てられるのはごめんだし」
「………」
 アレックの言い方に何か引っかかるものを感じつつ、サンジは黙っていた。
「ところで、ゾロの体調はどう? 順当に回復してる?」
 途端にサンジの顔が曇る。回復も何も、ようやく左手が動くようになったところだ。動くだけで掴むことはできない。まだまだ自力歩行すらままならない状態だ。
「体調は…悪くないよ。ただ機能の回復は…それほど思わしくない」
「でも人づてに聞いたところによると、声は出るようになったんだろう?」
「まあ、それは…」
「なら、そろそろ介護を他の者にまかせてしまったらどうだ。君は洞母なんだぞ? ゾロの介護をするのは献身的で尊敬すべきものだけど、洞母の仕事をおろそかにしてはならないだろう」
 サンジはきっとアレックを見返して言った。
「さっきの件は悪かった。俺のミスだ。だけど俺は今のとおりゾロの面倒を見ることをやめないぞ」
「何故だ? 君らは大厳洞ノ伴侶だったけど、それ以前には乳兄弟だったと聞く。だから放っておけないっていうのか?」
「それもある…だけど、俺はヤツを見捨てられねえ」
「見捨てるわけじゃないだろう。介護からはずれるべきだ、と言ってるんだ。それに、」
 なおもアレックは言いつのる。
「前々から思っていたんだが、確かに不幸な事故だった。統領ともあろう人間が、いきなり言葉も足も片腕も取り上げられてしまったというのは痛ましくてならない。しかし、もう一巡年も経つんだぞ? そろそろ回復の目途が着いてもいい頃合いだろう? そして身体の機能回復がそれほど思わしくないならば、いっそ今の状態で何が出来るかを考えたらどうなんだ? 彼は一生、介護されて終わるのか? もう余命幾ばくもない年寄りでもあるまいに、今後何年、何十年もこの状態で誰かに世話してもらうだけの毎日を送らせるのか? それよりは寝たまま、座ったままの状態でできる仕事を与え、新しい役割での人生を考えてやってはどうなんだ」
「───ッ!」
 サンジは息を呑み、まじまじとアレックの顔を見た。まさかアレックの口からそういった言葉を聞かされるとは考えても見なかったことで、完全に不意を突かれた。
「サンジがゾロと一番近しい立場だろう。俺にしては婚礼を挙げたはいいものの、女房に未だに前の亭主に操を立てられているという感じがして複雑なんだけどね。けど、人の感情は強要できないし、その点については譲っているつもりだ。とにかく、ゾロのことを思うのならば、そういった今後も考えるべきだと俺は思う」
「…だってゾロは竜騎士なんだぞ? バシリスはどうするんだ? 騎士以外にどう生きていけばいいっていうんだ?」
「そうだな、確かに問題は彼が竜騎士だということだ。しかし、竜騎士だって、糸胞と戦う以外の仕事はあるだろう? 君だってよく知っていることだ。竜児ノ騎士や一戦を引退した老騎士の仕事を知らないわけでもあるまい?」
「つまり、ゾロに騎士見習いや、連絡係などの雑用をやれ、と?」
「致し方ないだろう? もしくは竜児ノ騎士ノ長の補佐役とかもいいかもしれない」
「ごめんだ。まだ完全に回復を諦めているわけじゃない」
「しかし大厳洞は働かない者を養うには厳しい場所だ。この岩だらけの地では自給自足はもともと無理。なんと言っても竜と竜騎士のための場所なのだから」
「解ってるさ。だから時間さえかければ必ず…」
「その時間が問題だと言っているんだ。自分で動けないにしろ、あの鍛冶師の車輪付き移動椅子で結構遠くまで行けるそうじゃないか。今の彼は洞母の貴重な時間を無駄に食っているだけだ。せめて何かの役に立って──」
「無駄じゃねえ!」
 サンジはアレックを途中で遮って大声を出した。畜生、いくら正当に聞こえようと、ゾロと俺を引き離して、ゾロをてめえの手駒にしようという腹だろう。元統領をお情けで使ってやろうってのか。
 シャンクスが統領を引退した後、飛翔隊長としてまだ飛んでいるのとは違う。彼は自分の立場をわきまえて、率先しては動かないが、どちらかというとお目付役のように控えていて、ゾロの方針に従いつつも自分の飛行小隊は自由な裁量で動かしていた。責任が減った分、逆に真から飛ぶことを楽しんでいるようでもある。
「だけど…」
 なおもアレックは説得しようと試みる。しかしサンジは頑として聞き入れようとしなかった。アレックは肩を落とした。
「わかったよ。いきなりこんな話を持ち出した俺も悪かった。とりあえず、今日のところはこれで止めておくよ。けど、できれば考えてみてほしい。彼だって無為徒食に日々過ごしているのは耐えられないと思うよ」
 サンジを置いてアレックが会議室を出て行ってからも、サンジはひとり残ってアレックの言葉を反芻していた。

 

  

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