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竜の血脈(18)




(いち、に、いち、に)
 ゾロは内心で数をカウントしながら、左腕の曲げ伸ばしの訓練をしていた。軽く身体の脇に垂らした腕を、腕の筋肉だけを使って曲げ、軽く曲げた指先で肩へ触れる。麻痺した感覚は大分薄れてはきたものの、何にも考えずにできた腕の曲げ伸ばしすら、意識を持ち、筋肉を動かし、感覚を総動員しなければ思うようには動かない。
 何度も繰り返すと、そのうちじっとりと汗をかいてくる。身体が熱を持ってきた証拠だ。左腕がだんだんだるく、重く感じられてきた。今日はそろそろお終いにしたほうがいいだろう。
 ラティエスの交合飛翔から一週間が過ぎた。サンジはあまり顔を見せようとしない。最近ではゾロもいろいろな器具の助けを借りて、自分の身の回りのことはなんとかできるようになってきたし、何かと顔を見せるフランキーはおいておいても、療法師ノ師補や、ゾロを慕ってやってくるヘルパー志願は絶えないため、サンジが不在でもとりあえず不自由はない。
 ただ、一緒の岩室に暮らしている筈なのに、こうも姿を見せないというのは何かゾロに対して含むものがあるのかとさすがに少々穿(うが)ってみたくなる気分になりかけた頃だった。
「よお」
 サンジが扉を開けた戸口にひょっこり立っていた。
「…どうした。最近姿を見せなかったじゃねえか。具合悪くしてるとは思えないし」
「それだけど」
 サンジは立って壁に寄りかかったまま、ゾロの傍へ寄ろうとはしない。腕組みをし、片方の肩だけ壁に預けて少し遠くからゾロを見ていた。
 何だ? なんかこう…いつものヤツとは雰囲気が違うような…。
 ゾロは微(かす)かな違和感をサンジに感じ、用心深く口を開いた。
「まさか、ラティエスに何か…?」
「ああ、それはない。彼女は全く健康そのものだ。──交合飛翔も満足のいく出来だったし、時期が来たらまたどっさり卵を産むだろう」
「そうか、それはよかった」
 ゾロは、ルイスがまたしてもラティエスと共に飛んだということは聞いていた。その意味するところも当然承知している。そしてサンジが少し前まで自分の去就を巡ってアレックと気まずい状態にあったことも。
 しかしサンジが自分から慰めを求めてくるならまだしも、隠そうとしている傷を探し出して舐めてやろうとするのは全くもって逆効果だということも解っていたので、ゾロはこれ以上言葉を続けることができなかった。
「それでさ…実は少しの間、俺はこの岩室を出ようと思うんだけど、いいかな。お前ももう絶対俺がいなくちゃダメという時期じゃないだろ。今はひたすらリハビリ目的だから」
 サンジの言葉にしては少し歯切れが悪い。どうしたんだろうと更に内心首を捻るが、多分今は本当に離れていたいのだろうと思い直す。サンジがアレックに気を許すとは到底思えないし、逆に希望を余計にかける分、ゾロの顔を見ることが辛いのかもしれない。
「ああ、別にお前がそうしたいのなら、俺は大丈夫だから、いいぜ」
 ゾロはできるだけ軽く聞こえるように答えた。
「悪いな。じゃあ、着るものをまとめるから」
 言って、サンジは壁から身を離して歩き出す。ゾロの傍へ来たとき、ゾロはサンジから変わった匂いがするのに気が付いた。
(膠(にかわ)か…?)
 普段大厳洞ではあまり嗅いだことのない匂い。大厳洞では火焔石の匂いや竜の吐く息にある焦げる匂い、竜に塗る油の匂いは常に漂っていて、幼いころからその中で暮らしていると全くそれらには意識しなくなる。逆に城砦などへ行くとそういった匂いがしないのが落ち着かない。
 サンジから漂っているのは、このハイリーチェスではまずない筈の膠(にかわ)の匂いだった。
 ゾロはサンジに感じていた違和感が更に少し増えたのを感じた。しかしまだ何も言わないでサンジの背を眺めていた。必要ならサンジが自分からきちんと話してくる筈だと信じていたからだ。何も言わないのなら、まだ時期ではないのかそれともゾロには本当に関係ない話なのかもしれない。
 と、そう考えていたところで、サンジがくるりと振り向いて言った。
「黙っていようと思ったけど、やっぱ言っておく。俺はしばらく絵付け師のシリルって娘のところに行ってるから」
「絵付け師…?」
 じゃあ工舎か、しかし工舎に洞母が転がり込むわけには行かないだろう、と口に出そうとした矢先、サンジが更に先に口を開いた。
「言っておくけど。彼女はマキノさんが呼び寄せたんだ。大厳洞の食器やなんかを一新するためだってさ。その仕事を終えるまでの間、しばらくハイリーチェスに滞在することになってる」
「…へえ…」
 間抜けな声が出た。しかし他にどう言いようがあっただろう。するとサンジは女性とつきあうことにしたわけだ。ゾロがようやくその結論に至ったとき、サンジが言った。
「…前に、俺たち話し合ったよな? 血統を残すためにお互い女性と寝るのを邪魔しないって」
 そういえばそんなことを話し合ったことがあった。もう随分遠くの記憶だ。何十巡年も前のようが気がするが、よく考えたらまだたった一巡年前くらいの話だ。ゾロは黙ったまま頷いてサンジの言葉を肯定した。
「そういう訳だ。だからしばらくの間、俺はここを留守にする。けど同じ大厳洞の中にいるから、俺が必要なときはいつでもバシリスを通じて呼びかけてくれればすぐ来るから」
「ばぁか。女性と蜜月を味わっているところを俺の用事で呼び出すこたあしねえよ。そんな理由だったんなら俺のほうからテメエを追い出すぜ」
 にやりと笑って、何も意に介していないことを示す。サンジは肩のあたりが緊張していたのが目に見えて解けて、それが顔にも表れていた。おそらくゾロが気分を害するのを予測していたのだろう。
(ばぁか)
 と内心でもう一度ゾロは繰り返した。
(お前は、「お前が俺を見捨てる」と俺が誤解すると怖れていたんだろう。お前はそんなヤツじゃねえってことを、俺は知ってる。まあ、逆に俺を見捨てることができればお前はもっと楽になれるんだけどなあ)
 サンジが落ち着かなげに視線をさ迷わせるのを見て、おもむろにゾロが口を開いた。
「俺のほうはいいから、その絵付け師サンを大事にしろよ。どんな出会いかは知らねえが、出会ってそうなるからには、何かしらの縁があったんだろ。その「何か」に感謝して今はそれに沿ってみろ」
「…ありがとう、ゾロ」
 サンジはようやく笑顔を見せた。まるで今まで近づいたら心の動揺を見とがめられるから離れていたように、ようやく安心したのかゾロが座っている椅子までやってきて、その前に膝をついて目線を合わせる。
 ゾロはそっとサンジの頭を抱き寄せ、耳に口を寄せて囁いた。
「俺には解ってる。何も気にすることはねえ。今のお前にはそれが必要だ。しばらくの間、俺も含めて何もかもをお前の心の中から追い出してしまえよ」
「──いいのか? お前は、本当に許してくれるのか」
「ああ」
「子供ができたら──そしたら戻ってくる」
「ああ、そうだな」
 できるだけ軽く聞こえるようゾロは言った。



 サンジが、大厳洞に客分として滞在している絵付け師ノ師補と懇意な関係におちいったとは当然ながらおおっぴらには発表されなかったが、洞内の運営に関わる人々の間にはすぐに浸透した。
 アレックが統領となってからも、頑なにアレックではなくゾロと同じ岩室に住み続け、ゾロの看病と介護を続けていたサンジは、それまでそれを貞節と受け止められていたが、今になって女性と共に暮らすことで、半分以上の人間に「やはり」という目で見られるに至る。
 なんといってもやはりサンジは男だったのだと安堵する気持ちと、統領との絆はどうなるのだと心配する気持ちが錯綜して、なかなかサンジ自身を目の前にして批判をすることはできなかった。
 そしてそのうちに、遠巻きにあたらず騒がずといった風潮がなんともなしに定着した。
(まあいいさ。あの絵付け師だって永久にここに居るわけじゃないし)(ゾロ前統領がああだから、気分転換のためかもしれないしな)(それに、なんといっても、女相手なら子供ができるからな。洞母の血統…というより、才能が受け継がれていくのは喜ばしい)
 ほとんどがこのような受け止め方をしていた。男性側からすればサンジに対し何らかの同情めいたものもあったかもしれない。また、サンジとシリルにしても、夕餉のときや皆が集まる儀式のときなどは、必ず別々に姿を現し、互いに関係ない風を装って別々の卓についた。色好みな城砦の太守などが愛人を堂々と連れ歩くのとは全く逆で、ひっそりと目立つのを避けた関係だったため、なおさら暗黙のうちに受け入れられたのである。

 誰もサンジに面と向かって反対も賛成も、文句も励ましも言わなかった。しかしサンジは自分自身と常にせめぎ合っていた。
 サンジが一番辛かったとき、無条件で手を差し伸べてくれた相手。確かにサンジにとってその時はその手が必要だった。「いいのよ、サンジ」と全てを許し、受け入れてくれる存在が。
 これが、女性の持つ母性か。
 自分は洞母と呼ばれ、大厳洞をまとめ率いてきたけれど、ひとりの女性が包み込む暖かさは男にはない。
 シリルの肌は滑らかで、手も唇も何もかも、全てが優しかった。サンジは初めて、包み込まれたゆたって、癒されるという感覚を得た。
 それは翻弄されるだけのアレックとの交合飛翔の交わりとも、互いに挑みつつ昂ぶり駆け上がるようなゾロとの快楽とも違っていた。快感、というよりは療治に近いものだったかもしれない。
 サンジはゾロへの罪悪感をひきずりつつ、どうしても自身をその感覚に委ねてしまうことに抗えなかった。
 そしてゾロは、サンジのその追い詰められた状態を一目で見抜いて、自分から離れることを快く了承したのである。却って自分の傍から離れるほうがサンジにとって良いだろうという判断だった。
 それでもサンジはゾロに対して罪悪感を持たずにはいられない。確かに子孫を残すために女性と寝ることを互いに一応了承した筈だった。しかしその時意味していたものと現在のこれとは異なるし、サンジ自身、自分が逃げていると感じていた。
 交合飛翔でゾロ以外の男に抱かれるのは、それは竜の生態のためであるからその事象自体はさておいてゾロに対し何かを思うことはない。しかし、シリルに癒しを求めてしまうのはどうしてもゾロへの裏切りのように感じられてしまうのだ。

 それと、マキノに真剣に請われ、ゾロにまで言われた自分の「血統」。自分の能力がそれほどまでに貴重とは生い立ちのせいでどうしても思えないが、テルガーの洞母リリアが語ったように、子供という血の繋がりは何か特別なものに思えたのだった。自分がそれを知らない分、余計に憧れたということもあるかもしれない。
 自分が子を成すということはそれまでサンジの頭の中には全くなかった。しかし、リリアの言葉をきっかけとして漠然と血の繋がりというものを考えるようになったことも事実だった。そして今、それが具体的になろうとしていた。
 俺の子供。このままシリルと一緒に居れば、当然いつかはそれが現実のものとなるだろう。そのとき俺は何を考え、どう行動するんだろう…。

 サンジはよくシリルが仕事をしている時に、ふらりと立ち寄ってはしばらく黙ってその仕事ぶりを眺めた。今日もシリルは一心不乱に大皿に絵柄を描いていた。繊細な模様の部分は一番細い筆を使って丹念に線を描く。時間をかけ、一枚一枚手作業で進めていくのは根気と集中力が必要だった。今も彼女は細かい部分を丁寧に描いたあと、ふっと息をついて筆をおき、身体を起こしたときにサンジの姿に気が付いた。
「あら、サンジ。来ていたのなら、声を掛けてくれればいいのに」
「君の邪魔をしては悪いと思ってね。これは何?」
 近寄ってシリルの手の中を覗き込む。
「ティレクの平原の、秋の収穫の様子。こっちの対となるほうにはね、その後の収穫祭を描こうと思っているの」
「凄い。まるで見てきたようだ」
「あら、実際見たことのある景色よ。印象深い景色は、できるだけ早いうちに何枚も下絵を描くの。そして記憶を紙の上に定着させておく。やっぱり美しいと感じるものって、本物には適わないから、できるだけ正確に写し取っておくのよ」
「へえ…、この絵皿一つの裏に、それだけの努力があるんだ。偉いね」
 褒められてシリルは顔を染め、俯いた。
「そんなこと、ないわ。私は自分がそんなに上手いとは思わないから、私なりにできることをしているだけ。それに、もともと絵を描くことは好きだったし」
「でも偉いよ。これがその下絵帳?」
 脇に置いてある、表紙がぼろぼろに使い込まれた大きめの紙綴(かみつづ)りに手を伸ばした。
「あ! いや、見ないで! 恥ずかしいから!」
「なんで? まあ君がイヤっていうなら見ないけど…」
 シリルはその綴った紙の束を自分の胸に抱え込んでサンジの目から隠した。
「だって、本当に下絵ばかりなんですもの…」
 頬を染め俯くシリルの肩は細く、サンジに自然に守ってあげたいと思わせる。それでもサンジは衝動のままにその肩を抱きしめるようなことはせず、そっと手を置いただけに留めた。
「わかったよ。決してその中は見ないことを誓うよ。だから安心してこちらを向いて?」
 シリルはまだ俯いたまま、下絵帳を傍の卓に置き、ようやくサンジの顔を振り向いた。視線が絡んで、シリルは胸が大きく鼓動が打つのを感じた。
 サンジは安心させるようににっこりと笑んで、シリルの手をとるとその指先に唇を落とした。
「あ、私の手、染料で汚いのに」
「そんなこと気にならないよ。仕事の邪魔をして悪かったね。じゃあ、また」
 サンジは来たときと同じように足音を立てずにそっと出て行った。
(手、じゃあなくて…)
 残されたシリルは胸の奥に物足りなさを憶えつつ、サンジが出て行った扉をじっと眺めていた。
(貴方はいつも優しい…けれど…)

 

  

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