こちらのプルダウンボックスで読みやすいスタイルをお選び下さい。






竜の血脈(20)




 そうして、その夏もまたあっという間に過ぎ去る。秋も過ぎ、冬を迎え、新年が過ぎて少し経った厳冬期、シリルは出産の日を迎えた。
 初産の例どおり、予定日より少し日数が過ぎたものの、まずまず危なげない出産で、陣痛が始まってからまる一日と少し過ぎ、シリルは女児を産み落とした。療法師も別室に控えているものの、お産に限っては伝統によって下ノ洞窟ノ長が付き添い、産婆が赤ん坊を取り上げる。通常ならば洞母はそこに同席する資格がある。しかしこの時ばかりはサンジはぴしゃりとその鼻先で扉を閉められてしまっていた。
 そういう訳で、サンジが自分の娘に対面したのは、全てが終わってシリルの脇でくうくうと寝息を立てている状態の時だった。
「お疲れさん。よく頑張ったね」
「産湯をつかっているときは元気よく泣いていたのだけど。疲れたのかしら、眠っちゃったわ」
「君に似ている」
「あら。目の色はあなたよ」
「そうかい? 早く起きないかな」
「これからいくらでも見られるわ…ありがとう、サンジ」
「何言ってるの。ありがとうというのはこっちだよ」
「いいえ。私のほう…ごめんなさい。ちょっと疲れているみたい。少し休むわ」
「もちろん、ゆっくりお眠り。話しは後でいくらでもできるからね」
「そう…そうよね…」
 シリルのやつれた頬にうっすらと涙の跡があるのにサンジは気づき、何も言わずに黙ってそれを指でぬぐった。閉じた目の周囲にははまる一昼夜の奮闘で隈がうっすらと出来ていて、疲労がシリルの全身を漂っている。それを差し置いても、シリルは何かに思い悩んでいるように見えた。それが何かはサンジにはまるで想像できなかった。
 そして翌日、サンジがシリルの元へやってくると、今度は赤ん坊は起きてシリルの腕の中で懸命に乳を吸っていた。
 小さな口。小さな手。まるで壊れそうにふにゃふにゃしていて頼りないが、全身でもって乳を吸うその様子は生きることそれ自体を貪欲に欲しているようだった。サンジはそっと赤ん坊の顔を覗き込む。と、ぱっちりと目を開けて赤ん坊はサンジを見た。
「確かに、この目の色は俺似かな。君ならもっと柔らかい」
「髪は私に似ちゃったわ。ちょっと残念。私、あなたの髪の色とても好きなのに。ラティエスとおそろいで」
「……」
「でも、目の色だけでもあなたに似て嬉しいわ」
「…そうかい。君がそう思うのなら、よかった」
 なんともなし、二人の間に沈黙が流れた。シリルは赤ん坊の向きを逆に抱きかかえ、反対の乳房を含ませると言った。
「本当は、今こんなところで言うつもりはなかったんだけど──私ね、そろそろここを離れようと思うの」
「なんだって?」
 さすがにサンジが驚いた声を上げる。
「ずっと考えていたの。ここハイリーチェスではすでに私の仕事は終わったわ。ちょうど冬に入って産み月を迎えることになったから、ずっとここに居させてもらったけど、あと一月くらいして赤ちゃんを連れ出してもよくなったら、他の城砦かどこか、もしくは工舎に戻ろうと思うの」
「なぜ。ずっとここに居ればいいじゃないか」
「ううん」
 シリルはサンジの顔を見上げ、首をゆるゆると振った。
「私、私はね、この子とだけ生きていきたい」
「──つまり、俺はお払い箱ってことか」
「ずっとあなたと一緒にいたくないのか、と言われたら違うとは言い切れないわ。でもここでの私の仕事は終わったの。私を名指しで絵付けの仕事を打診してくれるところがいくつかあるわ。私はその仕事もやってみたいの」
「そのために俺も赤ん坊も捨てて?」
「捨てるなんて──赤ちゃんは私が手許で育てるわ。大切に大切にする。あなたの子ですもの」
(ずっと、ずっと好きだったんですもの──最初に見かけた日から)
 シリルはその昔初めてサンジを見た日を思い出していた。とある春の日、めいっぱい着飾って、どきどきと鳴る胸を抑えながらティレクの市へ行った日を。

「シリル、シリルったら、あそこを見て!」
「ちょ、ちょっと待ってよ。私はこういう人混みの中を歩くの下手で…」
 特に今日は新しい、しゃれた革の靴を履いてきたのだ。それは薄い革で、今若い娘達の間で流行っている少し踵の高いタイプの靴だ。足が長く綺麗に見えるというので皆こぞって手に入れたがった。しかし初めて履いたその靴はなかなかバランスがとりづらくて、すばやく歩くとよろけそうになる。
 同じ工舎で暮らすエナは、徒弟であるシリルとは違って工房で技を身に着けているのではなく、女人ノ長の養い児だ。大きな工舎を取り仕切る手伝いをし、いずれはエナ自身が女人ノ長となるだろう。一人で絵を描くのが好きなシリルとは違って、朗らかでひとあたりよく、何でもてきぱきと要領よくこなす。シリルとはいろいろな面で異なっていたが、何故か波長が合って、一緒に出歩いたり、シリルが絵を描いているのを眺めていたりと仲良く過ごしていた。
「シリルったら! ほら、あそこ! 黄金竜が降りてくる! すごい! 黄金竜をこんな間近に見るなんて、やっぱり市に来てよかった!」
「綺麗…」
 ようやく体勢を立て直してエナが指さす方を見ると、大きな翼をたわませて空中を優雅に滑空して黄金竜がふわりと着地した。その背から、黄金竜と同じように陽の光を弾く金髪で、漆黒の服を纏った男性がするりと降り立つ。黄金竜は長い首を曲げ、その騎士の顔を覗き込むように振り返った。騎士はぽんぽんと優しく竜の肩あたりを叩き、何事かを竜に向かって言うと、笑った。
(あ)
 その瞬間、シリルはその顔から目が離せなくなった。
(なんて柔らかに笑う人なんだろう──)
 だが次の瞬間、シリルとその騎士の間に青銅竜が降り立ち、すぐに騎士の姿は見えなくなった。
「今度は青銅竜よ! あれ、きっとハイリーチェス大厳洞のゾロ統領とサンジ洞母だわ。だって黄金ノ騎士で男性なんて、サンジ洞母しかいないもの。噂どおり、本当に金髪だわ。竜とおそろいなのね」
「………」
「シリルったら! うっとり見とれるなら、もっと近くへ行きましょうよ! もしかしたら何か言葉を掛けてもらえるかもしれないわ」
「い、いいわよ、私はここで」
「何言ってるのよ! どっちにしても移動するわよ! ここじゃ店も何もないんだし」
 エナはシリルの手をぐいぐい引いて人混みの中を今到着したばかりの騎士たちの方へと歩く。シリルは引かれるがまま、今見た光景を頭の中に焼き付けていた。
「ほら、いた」
 ぽかりと人の垣根の隙間から、くだんの竜騎士たちが見えた。挨拶に押しかける商人たちに愛想よく受け答えしながら、半歩下がり気味の内心が見えたように感じられる。
 シリルはほんの少しだけ見える横顔に見入った。次の瞬間、二人はシリルの方へ向かって歩いてきた。
(え)
 自分が見つめていたのが勘に障ったのか、と一瞬狼狽えるが、ただ単に二人の歩いてくる線上に自分が居ただけだと知り、慌てて道を空ける。
 すれ違いざま、頬に注がれる視線に気づいたのか、ちらりとサンジがシリルを見た。どきん、と大きく胸が鳴った。
 吸い込まれそう、とその片方だけの瞳に思う。
 視線が合ったせいでサンジはにこりとシリルに笑いかけた。サンジにしてみれば何のことはなくただ市に集まった人々に愛想よく会釈をしただけのことだったが、シリルはその笑顔に一瞬にして恋に落ちた。

(あの時からずっと)
 市の間も理由をつけては視界のどこかにサンジを探していた。工舎に戻ってからはハイリーチェス大厳洞のいろいろな噂話に真剣に聞き耳を立てた。そのうちにテーブルを回って徒弟から師補へと昇格し、少しずつではあるが絵付けの仕事も任されるようになってきた。そんな時、ハイリーチェス大厳洞から大きな仕事の依頼がやってきた。下ノ洞窟ノ女人ノ長であるマキノと出会ったのはシリルにとって人生で最大級の幸運だっただろう。
 引っ込み思案の性格をねじ伏せて、自分を使って欲しいと、その理由もすべて正直に打ち明けてマキノに頼み込んだ。
 シリルの必死な目の色にマキノは最初驚きつつも、彼女の腕前を確かめた後は俄然協力を惜しまないようになった。
 以前からサンジもゾロも周囲がどんなに薦めても女性を必要以上に近づけようとはせず、何かきっかけが欲しいと思案していた。そしてゾロが動けなくなってからは二人の関係が微妙になってきていたので、もしかして今なら間に入り込めるかもしれないという、そのマキノ自身の都合にも合致していたからである。マキノは自分の二人の養い児、どちらにも幸せになって欲しかったが、どちらの血統も存続して欲しかった。

 マキノの推薦で無事ハイリーチェス大厳洞での仕事を始めることになってすぐ、思いもかけない時と場所でサンジに出会った。あの春の市で柔らかに微笑んだ笑顔はどこにもなく、辛そうに歪んだ笑みをそれでもシリルに向けるサンジに、なおさら一層想いは深くなり、心から彼を包み癒してあげたいとそれだけを想った。
 無償の愛。シリルはサンジに文字通り身も心も投げ出してサンジを支えた。その結果としてシリルは自分がサンジの子を身ごもったことに、半分は胸が震えるほどの喜びを、半分は深い後悔を覚えたのである。
 その頃にはサンジの目も手もそして心も、真から自分を欲しているわけではないとシリルは感じていて、それでもこの子供によってサンジを繋ぎとめてしまうという矛盾に、どうしたらいいのかと悩みに悩んだ。

「あなたの子を産むことができて、本当によかった」
 シリルはサンジにため息のようにそっと告げた。この先、サンジの子供はまだまだ産まれてくるかもしれない。それでも、この最初のひとりを抱くことができる幸運に、シリルは満足以上のものを感じていた。
「俺では頼りにならないのか? 何故そう離れたがるの──」
 シリルはふるふると首を振った。いずれサンジは自分から離れたがる、それが解っているから先に離れるのだ、とは言えなかった。
「ここへ来てたくさん竜を見て、私の中に絵が──デザインが溜まったわ。今度はそれを発散したいの。幸いいくつか打診があるし、細々とでいいから続けていきたい。判って。けしてあなたを疎んじているわけではないのよ」
 あなたが私を疎んじる前に。
「…君の決意がそんなに堅いのなら」
 渋々サンジは同意した。
「ただ、次の行き先は相談して欲しい。そして当然もっと君が回復してからにして」
「わかったわ。あのね、私あなたにひとつだけお願いがあるの」
「なんだい? できることなら、いや多少無理なことだって叶えてあげるよ」
 シリルは微笑んで言った。
「そんな難しいことじゃないわ。この子に名前をつけて欲しいの。すぐ父親と離れて育つことになるけれど、きっとこの子はその名前を大事にするわ。そしてその名で呼ばれるたびにあなたを思い浮かべるわ」
「そんな──でも喜んで」
 サンジはシリルから赤ん坊を受け取り、腕の中であやしながらそうっと顔を寄せる。赤ん坊はむずかりもせず、不思議そうにサンジを見やった。
「うん、決めた」
 視線を赤ん坊から離さずに、きっぱりと言う。
「ファイエラ。どうだい? ファイエラっていうのは」
「綺麗な響きね。素敵だわ。どんな意味?」
「俺が昔居た旅芸人の古い言葉でね、『ファイイー』っていうのがあるんだ。意味は『夜明け』。俺がこの子にしてあげられるのはこれだけだけど」
「ありがとう、サンジ」
「俺のほうこそありがとう…そしてごめん」
「いいのよ、私はあなたの血筋が欲しかったの。あなた自身はけして手に入らないわ。大厳洞の首位洞母さまなんですもの。けれどあなたの血を引くこの子がいる。大事に育ててみせるわ」
 サンジは泣き笑いのような複雑な表情でシリルに手を伸ばした。そっとかがんで赤ん坊ごとシリルを抱きしめる。そのまま、赤ん坊──ファイエラをシリルの腕の中に返すと、そっと触れるだけのキスをシリルの額に落とし、立ち上がった。
「そうだったの?」
「そうよ」
 サンジは微(かす)かに眉をひそめて哀しそうな目でシリルを見つめると、黙って背を向け出て行った。
 残されたシリルは閉じられた扉をずっと見つめ、それがだんだんとぼやけてきても、ひたすら見つめ続けていた。
 ──さようなら、あなた。

 サンジはシリルの落ち着き先を、仲のよいベンデン大厳洞のエース統領へと託した。白ひげ、エドワード・ニューゲート統領より代替わりしてからすでに六巡年、若いといえど、エースは白ひげが病につく以前より飛翔隊長としてベンデン大厳洞の要であったし、白ひげが病に倒れてからは、ほとんど統領代理として動いていた。だから白ひげ亡き後、首位洞母のアルビダの黄金竜、ナボースを交合飛翔で飛ばせたのもほとんど当然のように、すんなりと統領の地位を受け継いだのである。
「ベンデンは遠いけど、エースは信頼のおける、いい統領だし…まあ、少し言動が突拍子もないときがあるけど」
 くすり、とシリルが笑う。腕の中には毛皮にくるまれたファイエラがすやすやと眠っていた。
「知ってるわ。工舎でも時々話題になっていたもの。私たちって、ひたすら手を動かしているだけに思われがちだけど、ちゃんと耳もついているのよ。仕事中にいろんなうわさ話を耳にすることは多いの。でもなぜか私たち工師も絵の一部と思われるのかしら、それとも絵を描いている間は耳が聞こえなくなると思われているのか、周りの人は平気でぺらぺらとおしゃべりするのよね。
 私たちって、まあ、そこで聞いていないフリをするから、さらに油断されるんだけど、工舎に戻ってから、聞いた話をネタにいろいろ楽しむのよ」
「えええっ? それは初耳だなあ。うわ、俺、今までどんな恥をさらしていたのかな」
「サンジは大丈夫よ。少なくとも仕事中の私の傍でそんなに話をしていなかったじゃない」
 言ってしまって、シリルは後悔した。
「やだ、私そんなつもりじゃ…」
「…そうだったね。あまりかまってあげなくてごめん。でも、仕事の邪魔はしちゃいけないと…」
「わかってる。さ、もう行かないと」
「うん。さ、乗って。乗ったら俺の背中にしっかり掴まって。ファイエラは大丈夫?」
「ええ、しっかり結わえ付けてあるし。ほとんど私の服の中だから寒くはないわね」
「まだこんな小さいうちに間隙飛翔をするのは心配なんだけどね」
「大丈夫よ。あなたの血を引いているんですもの」
「…まあ、そういうことにしておこう」
 ファイエラを抱きかかえた(というより自分の胸に帯でしっかりと結びつけた)シリルは、ラティエスの肩に足をかけ、サンジが差し伸べてくれた手を握ってよいしょ、と黄金竜に跨(またが)った。とたん視界がぐんと開けて、驚いて黙り込む。
「怖かったら、目を瞑っていればいいよ」
 サンジが肩越しにそっと声を掛けた。 
「大丈夫」
 今日は何回大丈夫と言ったことだろう。それにしても、ハイリーチェスを離れるそのときになって初めてラティエスに乗ることになろうとは。でもまさか自分が黄金竜に乗る栄誉を得ようとは、ここへ来た当初は思ってもみなかったのだ。
 憶えておこう。光り輝く竜に跨(またが)って、同じ色の髪をしたこの男(ひと)の背中にしがみついたことを。そのぬくもりや、微(かす)かに感じる鼓動のひとつひとつを私は忘れずにいよう──。
 黙り込んだシリルを、サンジはきっと怖いのだろうと考え、できるだけ静かに飛び立つようラティエスに伝えた。
 ふわり、とラティエスが舞い上がる。シリルがこの期に及んでも目立つことを嫌ったので、見送る人々は少なく、仲の良かった数名と、あとマキノや療法師や仕事上で関わった人たちのみの見送りだった。シリルは騎乗帯の上から手を振りたかったが、万が一振り落とされてしまったらと考え(ソンナコトハシヤシナイ、とラティエスが知ったなら憤慨して言っただろうが)、ただじっと手を振る人々を見下ろしていた。
 サンジはぐるりと見送りの人々の頭上を旋回し、充分別れの時間を取った後、ゆったりとした速度で大厳洞を後にした。シリルは最後に後ろを振り返り、ごつごつとしたハイリーチェスの稜線、それが形作る巨大な岩山の全容を見た。
 そしてそれが彼女がハイリーチェス大厳洞を見た最後だった。

 

  

(19)<< >>(21)