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竜の血脈(23)




 三週間後、ラティエスが交合飛翔に飛び立った。サンジは淡々とその日を迎え、ゾロはまたしてもルイスがラティエスを掴まえたという結果をリハビリしながら部屋で聞いた。
(三回目──三巡年目か)
 ゾロは歯を食いしばりながらひたすら平行棒の間を歩く。この脚さえなんとかなったなら。
「四巡年目はねえ。見てろよ」
 唸るように言葉が出た。ゾロはようやく微(かす)かな手応えを感じ始めていたのだ。まだまだ遙か遠いゴールだったが、それでもその輪郭を捉えられる程度にまで近づいてきた。
 両の脚はまだ頼りない。しかしそれでもかなり自分の力だけで歩けるようになってきた。
「そろそろ次のステップに進んでいい頃合いじゃねえ?」
 今朝もそう言ってサンジは部屋を後にしていった。笑顔すら浮かべながら。
(負けられねえ)
 俺たちは戦っている。それぞれ違う種類の戦いだが、それでも戦いには違いない。目に見えるものではないし、勝利もまた目に見えなくて厳しく辛い戦いだ。
(だけど根を上げるなんてとんでもねえ。俺は、俺たちは、絶対勝ってみせる)
 一歩足を踏み出す。腿の筋肉を意識し、持ち上げ、膝を意識し、臑(すね)と踵(かかと)に力を込め、足裏全体で床を踏みしめ体重を乗せてゆく。乗せながら逆の足でつま先で床を蹴る。
 たったこれだけのことに全神経を集中させて臨(のぞ)む。今度は逆だ。そしてまた逆。ゆっくりゆっくり。いち、に、いち、に。
 集中している余り、フランキーが扉から覗き込んでいるのに気が付かなかった。
「邪魔していいか?」
「おう。久しぶりだな」
 ゾロは振り返りもせず言葉を返した。
「ふうん、サンジの言ったとおりだなあ。そろそろ杖が要るんじゃねえか、って今朝アイツが言いに来たから見に来たんだけど」
「なんだって?」
 ゾロはようやく振り向いてフランキーを見た。彼は相変わらず工師にしてはラフな服装で、この大厳洞に来て三巡年、完全に慣れ親しんで口調もかなり砕けている。工師のくせにほとんど裸に近い薄着でそこらじゅうを歩き回るものだから、師補は常に気を揉んでいるという噂だ。だが乱暴な口調とは裏腹に面倒見がよく、人が困っているのを見るとつい肩入れして無償で何か作ってはぽんとあげてしまったりするのを繰り返すので、彼を慕う人間は多いらしい。
 ゾロにしても、彼の作り出すいろいろなリハビリ器具や介助用具には大変助かっていた。
「サンジが、アイツがわざわざ?」
「ああ。ラティエスがすぐにも飛ぶって時にさ。落ち着いていたな。大したモンだ」
「………」
「まあ、考え込むのは後にして、とにかくサイズを測らせてくれ」
「あ、ああ」
 ゾロは軽く汗を拭いてフランキーに正面を向けて立った。
「うん、立つだけならもう大丈夫だな」
「立つだけならな。でも立って一日過ごしていられるわけもないしな」
「まあ、投げなさんな。ここまで来たんだ。もう少し踏ん張れよ」
「踏ん張ってる。今まさに」
「しゃれか? つまんねえぞ…っと終わり。もう楽にしていいぞ」
 フランキーはしゃべりながらゾロの腕の長さや立ったときの脇から下の距離などを計測していた。ごつい手がとても器用に動き回るのは意外に見えながらも、存外納得できるものだった。
「すぐ杖を作ってやっからよ。そしたら、結構自由に動き回れるぜ? 移動椅子だと難しいところも杖なら割と簡単に乗り越えられるし」
「…そうだな」
 フランキーのうきうきした調子とは裏腹に、ゾロは落ち着いた声を返す。どちらかというと深く沈んでいるような表情に、フランキーはぱんっと手を打った。
「おい、しっかりしろよ! お前がそんなんじゃ、サンジが笑っている意味がねえだろ。考え込むな。お前も何でもねえ、ってツラして過ごしていろ」
 ゾロはまさかフランキーからそんなことを言われるとは思ってもみなかった様子で、目をぱちくりとさせた。そして次の瞬間、ぷぷっと堪(たま)らないというように笑い出した。
「何がおかしい」
 フランキーは腹を抱えるゾロを訝(いぶか)しみながら見る。
「いや…何でもねえ。確かにお前の言うとおりだ。もうアイツにとっちゃこんなん何でもねえんだよな。これじゃ本当に俺もうかうかしてられねえぜ!」
 ぐい、と強い光をたたえた目でフランキーを見る。
「で、いつできるんだ、その杖」
「あ、ああ、急げば三日てとこか」
「じゃあ急いでくれ。待ってるから」
「わかった」
 フランキーが出て行くとき、扉の外から交合飛翔の宴のざわめきが漏れ聞こえてきた。
 サンジとアレックがどこにいるのかはわからない。が、ゾロはその考えを頭から完全に振り捨てた。
 もうすぐだ。もうすぐお前に追いつくぞ。
 ぐいと拳を握りしめる腕は、以前と変わらぬ筋肉の束が浮き上がっていた。



 交合飛翔も無事終わり、大厳洞中が浮かれた騒ぎもすっかり落ち着き、日々はまた日常に戻った。糸胞との戦いを繰り返しつつ、春はゆっくりと過ぎ、夏を迎える頃ラティエスは四十一個の卵を産み落とした。孵化場の砂に産み落とされた卵は地熱でゆっくりと暖められ、徐々に堅さを増して竜の雛が殻を破って出てくる日を待つ。
 その間に竜児ノ騎士の候補生は白い衣を用意し、その日に自分が選ばれることを祈りながら期待と不安が入り乱れる毎日を過ごしているのだった。
 その、もうすぐその孵化ノ儀の日がやってくるというときに、そっとサンジを呼び止めて脇に引っ張って行く者があった。
「なんだって…?」
「さっき私宛に届いた報せよ。きっと彼女が貴方に告げないようにと強く言ったのでしょうね。だから婉曲に私にあてて知らせてくれたんだわ」
「エースから…?」
「そう、読んでみなさい」
 マキノは一枚の紙葉をサンジにそっと差し出した。サンジは丸まってしまいがちなそれを両手で拡げると数行の内容を一気に読み下した。
「シリルが…流行り病で、危ない容態だって…?」
 サンジは信じられないという風に呟く。
「別れた時は、まるでそんなこと感じさせなかったのに」
「あれはもう半年くらい昔じゃないの。病気なんて罹(かか)るときはあっという間よ。それに流行り病って書いてあるでしょう。きっと人からうつされたんじゃないかしら。とにかくサンジ、いいからすぐに行ってあげなさい」
「いや…ダメだ…今は行けねえ」
「なぜ?」
 マキノは苛々した口調でキッとサンジを見上げた。
「ラティエスの卵が孵る。もうここ一両日うちだ」
「そ、そりゃ…そうかもしれないけど」
 マキノはサンジの腕をぐいと掴むと引き寄せて囁いた。
「でも、あなたの…子供の母親でしょう」
 サンジは口をきゅっと引き結んだ。
「これでもしこのまま…会えなくなってもいいの?」
「…だけど、俺は洞母だ。ラティエスの孵化ノ儀をすっぽかすわけにいかねえ」
「孵化ノ儀は毎年あるじゃない! でもシリルは…!」
「ダメだ。毎年違う、新しい命が生まれてくるんだ。竜も騎士も。ちゃんと見届けてやらねえと」
「…でも…!」
「シリルには悪いけど、孵化ノ儀が終わるまでは動けねえ」
 それだけ言うとサンジはくるりと背を向け、その場を去った。
(サンジ、でも、その孵化ノ儀はアレックとの…でしょう…本当は見たくない筈じゃあないの?)
 胸の中で呟いた声は当然サンジには届かない。しかしもしサンジがマキノの声を聞いたならば、こう言ったことだろう。
 俺は、もう何からも逃げねえ、と。



 そして孵化ノ儀がその翌朝始まった。ブーンと言う竜たちのうなり声がすり鉢状になった孵化場を満たし、興奮に満ちた空気の基調となる。孵化場の壁にしつらえられたひな壇は、城砦や工舎からのお歴々で埋まり、皆一様にどの候補生が竜を感合するかで沸き立っていた。
 竜たちの声が次第に高くなり、孵化場の砂の上に散らばって並んでいる卵のひとつがごとごとと揺れると、ぴし、とヒビが入って次の瞬間中から褐色の塊が飛び出してきた。
 おおお、というどよめきが会場中を走る。生まれたての褐竜はよろよろと歩き出し、ふいに遠巻きに眺めていた候補生の中へと突っ込んで言った。
 誰かが「危ない!」という叫び声をあげたが、通り道に居た候補生は間一髪で竜の鋭い爪を避けることが出来た。そうしてのち、逃げなかったひとりの男児が雛の前に跪き、おずおずと手を差し伸べる。雛は首を傾げ、男児の目を覗き込んだ。
「名前はキュリアスですって!」
 新しい竜児ノ騎士は叫んだ。それを皮切りに、次々と卵が孵化を初め、孵化場は一気に雛の鳴き声と興奮した竜児ノ騎士たちの声でいっぱいになる。見学の賓客たちも興奮のあまり立ち上がる者も出てきて、大厳洞中の空気が沸き立った。
 その興奮しきった空気の中、サンジは微動だにせず眼下の孵化ノ儀をじっと眺めていた。生まれてくる命は素晴らしい。竜と騎士、ふたつの新しい生が手を携えて誕生してくる。サンジには、当然のことながら新しい竜ノ雛の声が届いている。生を受けて、そして伴侶を得た喜びに充ち満ちた、愛情いっぱいの声が。
 静かに見守りながら、歓喜の声が鳴り響く頭の隅でひとりの女性を思った。
(ごめんよ、シリル──そして今更だけど俺の子を産んでくれてありがとう)
 改めて心の中で感謝しながら、二度と会えないであろう彼女の面影を思い浮かべた。
(君が逝ってしまうのと引き替えに、たくさんの新しい命がこの世に生まれてきたよ。俺は何もしてやれないけど、この歓喜の声を君に捧げたい)
 ──いいのよ、あなた──
 喧噪のさなか、聞こえる筈のない声が聞こえた気がした。


 

  

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