こちらのプルダウンボックスで読みやすいスタイルをお選び下さい。






竜の血脈(27)




 元統領のゾロが竜児ノ騎士ノ長ノ補佐をすることになったと発表があったのは収穫祭が終わってから数日後の宵だった。不安げな声と期待を込めた眼差しの中、ゾロは杖を突きながら姿を現し、「よろしくな」と一言だけ挨拶した。
 翌日から竜児ノ騎士たちの練習風景に、ゾロの姿が加わるようになった。最初、脚が不自由な元統領にどう接してよいかわからず黙りがちだった竜児ノ騎士たちも、ゾロが一発で指摘する欠点やそれを克服する具体的な方法に、目を丸くしつつ頷き、そしてぐんぐん上達する自分と伴侶に顔を輝かせて、結果ゾロに全面的信頼を寄せるようになってきた。
 何しろ、ゾロは怪我をする前、飛ぶことにかけては大厳洞中の誰にもひけを取らないと豪語できるくらいの腕前であったし、今になってもバシリスの背に乗りさえすれば軽く流していても誰も追いつくことができなかった。ただ当面はバシリスに乗るのは皆の練習が終わってあたりが暗くなってからに限っていたので、ほとんどの者はゾロが再びバシリスに乗って飛ぶことができるとは知らないままであった。

「よお、どうよ調子は。鬼教官どの?」
 とっぷりと暮れた宵闇の中、サンジがただのシルエットにしか見えない黒い塊に声をかけた。もう季節は晩秋、日暮れは早く、あっという間に夜闇が忍び寄ってくる。灯りのない戸外では、目の前にかざした手すらうっすらとしか見えない。
 すでにはあと吐く息は白く、ぶ厚い騎乗衣を着てさえ風が身体を突き刺すように寒さを運んでくるようになっている。
「悪くねえ。まあ今年感合したヤツらはまだまだだが、二巡年目、三巡年目の者の中には結構ホネのあるヤツが居る。もう少し腰を据えて鍛えれば、来春には糸降りの戦力に加えられるようになるだろう」
「ああ…それは結構…じゃなくてお前の調子は? そっちの方を聞いたつもりだったんだケド」
 黒い塊がくるりと振り向いてこちらを見た、とサンジは感じた。顔は判別できないがたぶん笑っている。
「心配症なこった。『上々』だぜ俺は。もちろんバシリスもだ」
(バシリス、ゾロの言ってること、本当? 彼、無理してない?)
(さんじッタラ、ぞろノ言ウコトガ信ジラレナイノ? 大丈夫、彼モ僕モトテモ調子ガイイヨ。時ノ間隙ダッテ飛ベルト思ウヨ!)
(調子がいいのはよかった。だけどバシリス、お願いだから時ノ間隙飛翔だけはまだ試さないでくれないか? ゾロが負った怪我は頭だったから、どんな影響があるか…)
「こら、お前ら、俺を差し置いて何を内緒話してやがる──バシリス、お前の伴侶は俺だろう? そしてサンジ、バシリスに何言いやがった」
「何も。大したことは言ってないって。ゾロが無理を言いつけてないかって、それだけ」
 ことさら軽く聞こえるように言うと、サンジはくるりと背を向けて、鉄の扉をギイと開けた。中から光の帯がこぼれ、サンジの全身にくっきりと明暗をつける。
(いいかい。時ノ間隙飛翔だけはまだダメだからね)
 こっそりとサンジは洞母の能力でバシリスにだけ念を押した。
「それで、それだけ調子が良いのなら…思い出したか? その…怪我を負ったときのこと」
 ゾロも大厳洞の中から漏れる光の細い帯の中へ踏み出した。サンジはゾロの表情をつぶさに観察する。ゾロは二、三度目をしばたたかせると面倒くさそうに言った。
「別に。もうそんなことはどうだっていいだろ。よしんば誰かが悪意を持って俺を陥(おとしい)れたにしろ、全くの偶発的な事故にしろ、既に済んじまったことだ。もう二巡年半も経ってる」
「どうでもよくねえだろ…!」
 サンジは声を荒げてゾロに詰め寄った。
「しっ…! 声が高え」
「どうでもよくは、ねえ」声のトーンを落としてサンジが繰り返した。
「もしかして、また同じようなことがあったらどうする? 今度は命がないかもしれないんだぞ? しっかり原因を突き止めておかねえと対策もたてられねえじゃねえか」
「……お前の言うことはよく解る」
「だろ? だからなんとか」
「………」
 ゾロはすぐ目の前にあるサンジの目を見た。必死にゾロに訴えかけている目だ。もう二度と失うまいと決意を込めている目。
 はあ、とゾロは小さくため息をついた。
「思い出そうとしてねえわけじゃねえよ。ただなあ、本当のところ、そんなに切羽詰まったような危険があったようにはどうしても感じられねえんだ。なんつーか、凶器を持って襲いかかられるような? そんな悪意はなかったような気がする」
「だけど、あの場所で誰かに会ったことは確かだろ。お前そう言っていたじゃねえか。他の可能性として何か災害に遭ったというのもない。三日間、しらみつぶしにお前を捜したが、その間は糸降りも地震も嵐も山火事の類も何もなかった。あとはお前がぼうっとしてバシリスから転げ落ちたくらいしか思いつかないんだよ。誰か第三者の介入がない限りは。どっちを選ぶ? 竜児ノ騎士になりたてのヒヨッコでも赤面するようなミスをしたと認めるのか、それとも」
「わかった、わかったよ──!」
 ゾロは両手を挙げてまいったという仕草をした。
「出来る限り努力してみる。それでいいんだろ?」
「…ああ」
 サンジはゾロからすいと離れ、鉄の扉をくぐって灯りの中へと戻った。途端、サンジの姿を認めて、洞母サンジ、と呼び止める声が聞こえてくる。応えるサンジの声は既に洞母のもので、ちょっと前にゾロに見せた縋るような焦りは微塵も感じさせない。
(強くなった。確かに強くなったが、ヤツの強さは脆(もろ)さと表裏一体、紙一重だ)
 そう思うゾロは、それが自分に起因しているとまでは深く考えていなかった。



 その冬は例年になく厳しかった。雪は何度も降り、それは強い風を伴って必ず吹雪へと変化した。
 吹雪の間は大厳洞全体が糸降りと同様に堅く扉を閉ざし、少しでも暖かさが外へ漏れるのを防ぐ。この大地に生きる人々は皆、自然を受け入れ、厳しい気候はじっと首をすくめてそれが過ぎ去るのを待つことに慣れていたが、さすがに吹雪が何日も続き、一歩も外へ出ることができなくなると、春の訪れはいつになるだろうかと暗い目をして言い合うのが挨拶代わりとなっていた。
 そんな暗い冬の日でも、ゾロは竜児ノ騎士たちの訓練の手を緩めることはなかった。外へ飛び立てないのならば、会議室に集めて竜の手入れの方法や仕草から読み取る気分の機微を教え、かと思うと糸胞の降り方を石版に図解してみせ、過去実際に起こった戦いを板上に展開させて語った。まだ実戦に赴いたことのない竜児ノ騎士たちは、晩によく竜騎士たちが手柄話を吹聴したり、それに別の騎士が突っ込みを入れたりというのは耳にすることがあったが、こうやって第三者的視点から冷静に戦いを解説されるのは初めてだったので、文字通り身を乗り出して聞き入った。
 竜児ノ騎士ノ長、ヤソップは、かつての教え子であるゾロがこうも見事に成長したことを喜ぶと同時に、現在のゾロの不遇を思って心中複雑な感慨を抱いていた。
(もったいねえ。実にもったいねえな…)
 しかし杖を突きながらでもゾロは機敏に動き回れるようになったし、もしかするとひょっとしたらもう一度バシリスに乗って飛ぶこともできるのではないだろうか? と最近冷えると痛み出す膝をさすりつつヤソップは自問する。俺みたいな老体はあと何年飛べるのか、ただそれが心配の種だが、ヤツにはまだその心配は早過ぎる。できればまたヤツの至妙かつ大胆な飛翔をこいつらに見せてやりたい、いや俺が見てみたいんだ、あのカミソリのような神業を…。
 こくりこくりとヤソップの首が動き、最後耐えきれずかくんと腕の中に落ちた。ゾロは視界の隅でそれを捉え、唇の端だけで小さく笑うと、なお一層注意を自分に向けるため、声を張り上げた。

 ヤソップが心の中で呟いたことは、過去のゾロを知る者ならば皆似たり寄ったりなことを思っていたのだった。
(惜しい)(もったいない)(可能ならばもう一度)
 ただ思うだけで口にはしない。既にアレック統領も三巡年目、大厳洞は彼の采配に徐々に慣れつつあった。今更思うだけで何が変わるだろう、と誰しもが思っていた。ごくごく一部を除いては。
 誰も気づきはしなかった。ゾロが時折、杖を浮かせたまま歩いていたり、堅い岩の通路に杖の音が響いていないことなどに。暗く長い冬に思考も閉ざされていたというのは幸運だったのか不幸だったのか──。


 

  

(26)<< >>(28)