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竜の血脈(32)




 アレックがそんなことを考えているとはつゆ知らず、サンジはゾロがなんとか思い出した微かな手がかりのことを考えていた。
 あまりにも僅(わず)かすぎる。しかしそれならそれで──。
「ゾロ」
「おう?」
「俺はちっと行って確かめたいことができた。先に夕飯に行っててくれ。俺は待たなくていいから」
「それはいいが、どこへ行くんだ? もう日も暮れてしまったというのに」
「ベンデンさ」
 そんな遠くへ? とゾロが目を剥いたときには、サンジの姿はもうそこにはなかった。

(あの壁画をもう一度見て、そして──)
 サンジは暗い中を飛びながらめまぐるしく思考を巡らせていた。そんなことがあり得るだろうか? しかし可能性としては全くゼロとは言えない。偶然が重なったということは大いにあり得る。
 もしもサンジの推理が当たっていたならば、なんとかして向こうから出向かせることは可能だろうか?
 ベンデン大厳洞に着いたときは、間隙を抜けたとはいってもすでに深夜を回っていた。
(ち。これなら多少無理しても時ノ間隙を抜けてくるんだった)
 サンジはちらりと思ったが、すぐにラティエスの負担を考えて打ち消した。
(アラ、私ナラ大丈夫ヨ。イツダッテ行クベキ「時」ヲ間違エタリシナイシネ。今日ミタイニ暖カイ春ノ夜ハ、ドウイウ風ニ飛ンダッテ気持チイイモノ)
「そうかい、お嬢さん。まあ君がそう言うなら帰りは時ノ間隙を飛んで、少し睡眠時間を確保するとしようか」
(さんじノ好キナヨウニ。マア、タップリ寝タホウガイイワネ。最近アマリヨク寝ラレテナイミタイダシ)
「サンジ! こんな夜中に一体何事だ? ようやくゾロに見切りをつけて俺のところへ逃げ込んできたってわけ?」
 相も変わらずエースが軽口を叩きながら歓迎の意を込めて大きく手を広げる。サンジは笑いながら軽く抱擁を交わした。
「悪いな。起こしてしまったか? こっち側はもう訪問するには全く不適切な時間だってことを失念してたよ。いや、本当に大したことじゃないんだ。ただ、あの壁画をもう一度見せて欲しくって」
 エースは片眉を跳ね上げた。すぐににやりと大きく口の端だけで笑って言う。
「…へーえ…、夜の夜中にすっとんできた用事がソレ? ちょっと意味深だなあ」
「エース、悪いがからかうのは今は勘弁してくれ。お前が考えているような意味じゃないんだ、これは」
「へえ?」
 エースはますます興味が引かれて面白そうな顔つきになる。
「じゃあ、どんな意味よ?」
 サンジはそれには答えず、ずかずかと件(くだん)の壁画のある大広間へと向かった。エースはにやにや笑いながらその後に続く。
「灯りを頼む」
 エースはその依頼には無言ですぐに従った。たちまち広間は煌々(こうこう)とした明るさに包まれる。
 現れた壁一面の竜と竜騎士たちの戦いの場面に、サンジはしばし無言で見入った。
 エースもその様子を傍で見守る。
「やっぱ何度見てもすごいよな。描写力の確かさもそうだけど、彼女の記憶力には脱帽するよ。彼女の下絵帳とかもざっと見せてもらったけど、どれも細部まで正確に描かれていた」
 壁画から視線をはずすことのないまま、そっと呟くように言った。
「…そうか──」
 壁画を食い入るように見つめていたサンジがようやく言葉を発した。
「何が?」
 エースが尋ねたが、相変わらずサンジは己の中に思考を埋没させたままである。エースは肩をひとつすくめてまた壁画を見上げた。稀有の才能だった、と改めてシリルを惜しむ。エースはそれほどシリルと言葉を交わしたわけではなかったが、ちょうど才能が開花してこれからという時に逝ってしまったことはやはり残念に思えてならなかった。
「…なるほど」
 サンジはひとりで何かを納得した後、エースの方を向いて言った。
「ちょっとファイエラの顔だけ見てから帰るよ。ココロさんはまだ起きてるかな?」
「おいおい、こっちはもういいのか? このことに何の意味があるんだか俺には教えてくれないのか?」
「エース。騒がせてしまって理由を言えないのは本当にすまないと思ってる。だけど悪いが、言えないんだ。今度穴埋めはするから、今日のところは見逃してくれないか? それから迷惑ついでにアンタにもう一つお願いがある」
「はいはい。しょうがねえなあ、他ならぬサンジの頼みじゃあ聞かないわけにいかないモンねぇ。この貸しは高くつくぜ?」
「恩に着るよ。どんなに高くても借りておく。それじゃあ──」
 周囲には声が届くところに誰もいないにもかかわらず、サンジはエースの耳にそっと口を寄せると何かを言った。エースは困惑しきった顔つきでサンジの顔を見返す。
「別にそれくらい、構わないが──そんなことお前が自分でやればいいだろう?」
「いや、事情を知らないお前が渡すことに意味があるんだ。今から書くから」
 エースに紙とペンを借りてその場でさらさらとなにやら書き付けると、丁寧に折りたたみ、封をしてエースに渡した。
「じゃあ、くれぐれも、頼む」
 サンジの目は真剣だった。
「アンタがこれをしてくれるかどうかに俺とゾロとそいつの人生がかかってる」
「大げさだな。そんなに重大なことなのか、これが」
「とてつもなく重大だ」
 サンジはきっぱりと言い切ってエースをじっと見つめる。エースはその視線にたじろいだ。
「わかった。だが問題は憶えていられるかどうかだなあ…」
 ここへ来て始めてサンジはくすりと笑った。
「ここまで言われてアンタは忘れるような人じゃないよ。じゃあ俺はこれで失礼する」
「おいおい、ココロさんところは寄らなくていいのか? 久しぶりだろうに」
「夜が遅いからな。やっぱり遠慮しておくよ」
 サンジは言って、来たときと同様ひっそりと帰って行った。ラティエスの大きな翼はその気になればほとんど音をさせずに羽ばたくことが出来る。見張り竜と挨拶を交わし、夜闇に溶けてゆく黄金竜とその伴侶をエースは複雑な面持ちで見つめていた。



「帰ったか」
「ゾロ…起きてたのか」
「まあな。なんとなく飲んでた。お前も少しつきあえ」
 ゾロは手にした瓶の中身を新しい硝子杯に注ぐとサンジに手渡した。一口飲んでサンジは目を丸くする。
「驚いたな。ベンデンの白じゃないか。どうした?」
「この間、カードで勝ってシャンクスから巻き上げたのさ。勝ったら互いになんでも欲しいモンやるって言って。まあ、俺が勝った。んで棚の奥に隠してるこいつをいただいたのさ。シャンクスのヤロウ、俺が気づいてないと思ってたから、俺が引っ張り出したとき真っ青になってたぜ」
 その時のことを思い出してさも愉快そうにゾロが笑う。サンジもつられて微(かす)かに笑った。
「ようやく笑ったな。お前、入ってきたときかなり怖い顔してたぞ。自覚はねえだろうが」
「そうか?」
「おう。あまり思い詰めんな。なるようにしかならねえよ」
 しばらく二人は黙って飲み進めた。ぽつりとサンジが言う。
「…やっぱり、運命は変えられないってことなのかな」
「ああ? お前がそんなこと言うのか? 運命なんてモン信じねえぞ、俺は」
「なら、アレはどう思うんだ? お前は…十巡年の過去に飛んで俺を救ってくれたことは、アレは俺にとって天から降って湧いたような幸運だったと思えるんだけど」
「なに言ってるんだ。あれが幸運なもんか。あれは俺のわがままみてえなモンだ。言ったろ? あのとき、俺には選択肢があった。ハイリーチェス大厳洞でなく、他の城砦や工舎にお前を連れて行ってもよかったんだ。でも俺が、俺の意志で、お前をハイリーチェスの扉の前に連れて行ったんだ。お前の為を思ったんじゃなくて俺がお前と共に在ることを願った…。それだけのことだ。けして運命なんてわけのわからんモンのせいじゃねえよ」
 ゾロにしては珍しく一気にそれだけ言うと、しゃべった内容に気恥ずかしさを感じたらしく、瓶から大量に葡萄酒を注ぎ、ごくごくと飲み干した。あんな飲み方をしたら勿体ない、と頭の片隅で思いつつ、サンジはゾロの言葉に考え込んだ。
「お前は、アレを幸運と思ってるが、本当に幸運かどうかってのは、他の生き方を体験して比べてみねえことには何とも言えないんじゃねえか。もしかしたら城砦で人生を送ったらもっと贅沢でおもしろおかしくすごせていたかもしれねえ。たまたまお前はハイリーチェスでラティエスを感合できたが、それはお前のもともと持っていた資質によるところが大きいし、それまでの暮らしは特別に幸運てもんでもねえだろう」
「…なら、幸せな運命や不幸せな運命というものはないと?」
「ま、あの出来事は、お前にとっては天から降って湧いた抗えないものという意味では運命と言えなくもねえだろうが…でも本当のところは俺の意志があったんだ。そして俺がどうしてもそうしたい、と思ったのはお前との年月があったからで…俺はどうしても…」
 最後はごにょごにょとよくわからない言葉で聞き取れなくなる。
「とにかく! 幸せかそうでないかはその人間の決めるこった。んで、運命なんてものはなくて、あるのは人の意志だけだ」
「…人の、意志…」
「そうだ。天の意志じゃねえ。この大地に生きて暮らしている人間の意志だ」
「そうだな」
 しばらくまた黙って杯を傾ける。忘れたころにぽつりとサンジが言った。
「…ありがとう…ゾロ」
「なんの。いくらでも感謝してくれていいぜ? そしてそういう時は続けて『愛してる』とか言ってみるのもアリだ」
 笑って言う。サンジは一気に張りつめた心が軽くなるのを感じた。
「誰が言うか。お前の方こそ、『お前と離れて生きていけねえ』ってさっき誤魔化したのをきちんと言ってみろよ」
「いやいや、謹んで遠慮するね。──とりあえず、俺は自分で自分の人生は選び取っていると思ってる」
「…あんな怪我をしたのも?」
「さ、それは誰かの意志があったんじゃねえか。その誰かさんに俺は恨みをかったのかもしれねえが…」
「その誰かのあてがようやくついた、と言ったら?」
 ゾロは驚いた目をしてサンジを見つめた。
「え? 本当か? 俺、全然思い出せていねえのに?」
「まあ…な。上手くすれば、明日か明後日か、まああと一週間以内にはお目にかかれると思う」
「あやふやなんだな。こっちから会いに行くことはできねえのか?」
「残念ながら、それは出来ねえ。ま、会えるか会えないか気を楽にして待っていようぜ」
「誰なんだ、一体」
 そのゾロの率直な疑問には、半ば目を伏せ表情を隠してサンジは何も答えなかった。


 

  

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