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竜の血脈(34)




 少し前。アレックとパーヴェルという騎士が通路の隅でこそこそと話しをしていた。
「──そう、ちょっとした薬をね、混ぜてやったのさ」
「どんな効果が?」
 くすり、とアレックが意地の悪い笑い方をした。
「なに、交合飛翔の弾みになるようなモノさ。アレがしたくてたまらなくなるような薬だよ。この間ティレクの裏通りで手に入れたんだがね。ああいうところのモノはどぎついから、サンジには効果がすぐ現れるんじゃないかな」
「でも、それで交合飛翔が引き起こせるんでしょうか?」
「普段ならノーだね。さもないと、人間が欲情を起こすたびに黄金竜が飛び立ってしまう。けれど今の状態なら。もう数日後くらいのところまで来ているものをちょいと早めるだけだからな」
「で、予定どおり、ゾロは遠出をしてもらっている、と」
「そのとおり。後で何を言われようと、自分で納得して行ったのだから、文句は言わせないよ。たまたま不在中に交合飛翔が始まってしまったのは誰にも予測できないことだったんだ。しょうがないじゃないか?」
「しょうがない、まさにそのとおり。意気込みも努力も認めるが、運がなかっただけのこと。ゾロにはどこまでも不運な男でいてもらいましょう」
「当然だな」
 くつくつと笑う二人はすっかり通路の暗がりに融け込み、そこにさらにひっそりと人がいて、二人の会話を全て聞いていたとは気が付いていなかった。
(何てこと…!)
 通路のさらに奥に使われていない小部屋があった。通気も悪く明かりも入ってこない狭い部屋は居心地も使い心地も悪かったため、ホコリまみれでうち捨てられていた。しかし昨晩からひとり、いやひとりと一頭が息を潜めて隠れていたのであった。アレック達が話し込んでいた通路の奥の小部屋で、そこに潜んでいた人間は図らずも一部始終を聞いてしまった。
(なんて卑劣な…! そのような手段で手に入れた統領の地位、率いられる大厳洞の民全てが可哀想…)
(こんな不正、絶対許せない!)
 固い決意が心にみなぎる。そして二人が立ち去ってから、そっと静かに自分の竜に向かって囁いた。
「ゾロを探しに行くよ、デュラメス」
(イイノ? 昨晩ハズイブント迷ッテイタジャナイノ)
「確かにそうなんだけどね。それとこれとは別。いくら何でもこれは許せないから」
 その人物は、服の隠しに手をそっと忍ばせ、その中にしまい込んだ手紙をぎゅっと握りしめた。エースから手渡されてから、何度も何度も読み返したそれ。その中にしたためてあった内容に従って、迷いながらもここまでやってきたが、どうしてもサンジとゾロの岩室の扉を叩くだけの勇気が湧かなかった。
 とりあえず、気持ちを落ち着かせ、同時に長旅の疲れをとるべく昨晩はこの空き部屋に転がり込んで伴侶の竜と共に休んだのだったが、日が変わってもこの大厳洞の住人には姿を晒す気になれず、再び夜を待つことにしたのだった。
 しかし今しがた耳にした陰謀は、その躊躇いを軽く吹き飛ばすだけの内容だった。ふつふつと怒りが胸のうちで滾(たぎ)り、それが沸点に達した時に逆にすっと頭が冷えた。
 自分がやるべきことは──。
「行こう。ゾロの行き先は適当にそこらへんの竜に訊いてみて。誰かひとりくらいは知ってると思うから。それから一応、ラティエスに呼びかけてみて。彼女が呼びかけに応えないようだったら、本当に急がないと──」
 しばらく伴侶の指示にしたがってデュラメスは忙しく竜たちと思考を交わした。
(らてぃえすハ既ニ誰ノ言葉モ受ケ付ケナイ。デモ、ぞろノ行キ先ヲ知ッテル竜ガイタ)
「じゃ、行こう! 大急ぎで飛ぶよ! 飛翔競技会の記録を塗りつぶすつもりで!」
(任セテ!)


(なんだ…?)
 ゾロはこのウォーク窪地にやってきてから、なぜかしら胸がざわざわする感覚に苛(さいな)まれていた。
(糸胞…? の、わけないよなあ)
 糸降りの危険察知は伴侶ノ竜からもっとダイレクトに伝わってくる。これはもっと遠く、集中していなければ気が付かないかもしれないくらい微(かす)かなものだった。しかし一度気が付いてしまったら、無視するわけにはいかないくらいその感覚は嫌な予感を纏(まと)っていた。
 問題とされていた立ち枯れの木々は、これっぽっちで騒ぎ立てるほどのものだろうかというほど小さなもので、一応周囲の地面に十分な警戒をしつつ降りたって、更に観察を続けたが、どこにも糸胞がもぐりこんだと覚しき穴は見つからず、枯れたのも落雷かそういった自然現象ではないだろうかと結論を出しかけた時だった。
「───ッッ!」
 ゾロが胸をぐっと押さえて前屈みになった。
「隊長!?」「ゾロ!」「どうなさったのですか?」
 口々に飛翔隊の騎士達がゾロを案じて顔を覗き込んだ。
「…いや、何でもねえ。何かわからねえが、さっきからざわついてる嫌な感じがぐんと強まった…」
「糸降りですか?」
「いや、そんなんじゃねえ…」
 そして心配そうな面々をぐるりと見渡した。今日ゾロに付き従っているのは、褐ノ騎士ホウテイ、蒼ノ騎士スーワン、緑ノ騎士マンガンの三人で、その三人ともゾロが感じているものについては何も感じていないことが顔つきから見て取れた。
(おかしい。何故俺だけ…?)
 そう思った矢先だった。
 ちかり、と空の彼方が光ったかと思うと、弾丸のように「それ」はやってきて、次の瞬間ゾロの目の前にもうもうと土煙を上げて降り立った。本来なら危険極まりない行為であるが、ゾロはそれを咎めるそぶりはまるでなく、そればかりかこれで先ほどからの焦躁感の理由が判明すると確信した。
 果たして、その人物はゾロに対して挨拶も自己紹介も礼儀も何もかもすっ飛ばして伴侶ノ竜の上から怒鳴ったのである。
「急いで大厳洞へ戻って! 交合飛翔が始まるわ! ラティエスが飛んでしまう! あなたがいないのに!」
 黄金竜にうち跨(またが)った娘は栗色の髪を振り乱し、頬を紅潮させて息を弾ませていた。
 
 「なんと!」「今日だったのか?」「しかしそのような徴候はなかったはず…!」
 部下の騎士たちの声はゾロの耳に届いていなかった。まっすぐにその女王竜ノ騎士を見て言う。
「今は大厳洞に居るのか? それとももう飛んでしまったのか?」
 ゾロとて、その娘に問いたいことは何百もあった。その娘の姿を見た瞬間、なくしていた記憶が蘇ってきたからだ。しかし今聞いたことは全てを後回しにすべき最優先事項だった。ぐっと自分を抑え、最も重要な質問だけを口にした。その胆力と意志の強さに娘──黄金竜ノ騎士──もさすがに驚きを禁じ得なかった。
 目の前に飛び込んで事実を叫んでも、まず信じてくれるかどうか、少なくとも自分の素性や過去にゾロに対して行った件について質問責めにされるだろうと思いながら来た。とにかくゾロを何としてでも納得させなければならないと覚悟を決めていたのに、ゾロは一言も疑うことをせず、必要なことだけを尋ねている。
「わ、私が大厳洞を後にしたときはまだだった。だけど飛んでいるうちにどうなったのかわからないわ。デュラメスが言うには、すでに相当興奮していて、誰の言葉も受け付けなかったそうよ」
 すでにその言葉が言われたときには、ゾロはバシリスに騎乗していた。振り返って叫ぶ。
「俺は先にこの黄金ノ騎士と共に戻る! お前達は後からゆっくり戻ってこい!」
「ま、待ってくださいよ…」「俺たちだって…」
 縋るような声は既にゾロの耳には入っていない。一挙動でバシリスをその場から飛び上がらせ、そこで一回旋回すると娘がやってきた方向へ頭を向け、すぐさま最大加速をバシリスに命じた。
「さすがだな、黄金ノ騎士」
 ゾロはバシリスを通じて娘に語りかける。風はびゅうびゅうと唸り声をたてて二人の間を吹きすぎてゆくが、思念を通じるため問題とはならない。黄金竜は楽々とバシリスと並んで飛んでいた。
「私が誰か、あなたは気にならないの? あのとき、あなたを傷つけたのは私なのに」
「アンタはあの時俺をなじったが、本気で俺を傷つけようとは思っていなかっただろう? 俺にはそれがわかっていたし、ただ興奮状態にあったアンタをもっとうまくなだめられていたら、ああいう事態にはならなかった筈だ」
「でも、私が突き飛ばしたせいで…。ごめんなさい。あなたにはちゃんと謝っておかなくてはならないと思っていたけど、勇気が出なくて」
「まあ、過ぎてしまった話だ。それに意識のない俺をバシリスに乗せてくれたのはアンタだろう? 俺は知らないが、ちゃんとバシリスに乗って戻ったそうだから、それをするのはアンタしかいない」
「だって…それくらいしか出来ることなかったし、それに、大厳洞に行くのも怖かったし…」
 先細りになる言葉にゾロははっきりとあの日のことを思い出していた。

『どうした? アンタ、一体どこからやってきたんだ? あまり見かけた覚えがねえが』
『私のことはどうでもいいわ。あなたゾロでしょう? ハイリーチェスの統領の。あなたに聞きたいことがあるの…あなたの洞母のことで』
『──?』
『誰にも聞かれたくないの。三日後へ飛びましょう。それなら地上部隊の掃討も終わってるし、誰もこんな何もない平原へはやってこないでしょう』
『照合座標は?』
『あの太陽を小指の幅くらい高くした位置を想像するの。私が座標を出すから、私の竜を通じてあなたの竜へ送るわ』
『頭がいいんだな』
『これくらい何でもないわよ』

『…さて、お望みどおりついてきてやったが、アンタは何を知りたいって?』
『あなたとサンジの関係よ。大厳洞ノ伴侶って言っても、本当のところはただの方便なんでしょう? 愛し合ってるなんて言わないわよね。男同士なのに』
『そいつは困ったなあ…何て言ったらいいか…』
『頭なんて掻いて困ったフリしても無駄よ。そもそもあなた達は乳兄弟だったんでしょう? なのに何故──』
『何故なんだろうな? 俺たちにもわからねえよ』
『わからないってことはないでしょう!』
『…アンタは俺にどう言って欲しいんだ? どう言えばアンタは満足する?』
『どうって──。わ、私が知りたいのは真実よ! あなたが統領で在りたいがためにサンジを束縛し続けているっていう──』
『残念ながらそれは真実じゃねえ』
『なら、他に何があるっていうの? そうよ、何か弱みを握っているとか? あなたもサンジも他に好きな女性はいないの? 居るはずだわ』
『アンタも俺たちに血筋を受け継ぐ子孫を残せって言いに来たのか。それとも、アイツに惚れているのか』
『違うわ! 私が知りたいのは、あなたとサンジが離れない理由よ!』
『そうカッカするな…俺はアイツが、サンジがもしだれか好きな女性と所帯を持ったとしても、それはそれで受け入れる。アイツの人生だ、アイツが選んだことに文句なんて言わねえし、俺が縛り付ける資格なんてねえ。もしアンタがアイツの子を産みたいって言うんなら俺は邪魔はしねえよ』
『違うって言ってるでしょ! そんなんじゃないってば! そうじゃなくて、じゃああなたは、サンジが他の女性と関係を持つことを許容しているの?』
『アンタ、若いなあ…そんなことを臆面もなく正面から聞いてのけるなんて、誰かを自分よりも大切に想ったりしたことはねえんだろうなあ…』
『誤魔化さないで! 私が未熟だからわからないって言いたいの? バカにしないでよ! もうじきにこのデュラメスだって飛翔ノ儀を迎えるんですからね!』
『そっか…交合飛翔をね…。それは悪いことを言ったな。すまん。黄金ノ騎士は自分の好き嫌いは関係なく、交合飛翔がついて回るんだよな…。アイツも最初の飛翔ノ儀の前はかなり悩んでいたっけ…』
『アイツって…サンジのことよね? 彼があなたと飛翔ノ儀を導くのを苦しんでいたっていうの?』
『それに答える義務はねえな。例え黄金ノ騎士でも』
『でもなぜ? いやいやあなたと大厳洞ノ伴侶でいるのなら、普段は別に女の人と暮らしていたっていいじゃない! そしてあなたとは割り切って交合飛翔だけを付き合っていればいいのに…どうして…』
『だからそれはアイツの意志だろう』
『そんな筈はないわ! だって、母さんは──!』


 ゾロは怒濤のように頭の中に浮かんできた過去のあの日の記憶に圧倒されていた。『だって、母さんは──』と半分泣きながら、あの娘は自分にむかって突進してきた。大きく振りかぶった手は怒りと哀しみとで震えながらゾロに向かって振り下ろされた。彼女の目に涙の膜が張り、それが落ちてゆく残照を捉えてきらりと光った。
 それがゾロがあの日に見た最後のものだった。彼女の複雑な表情に一瞬避けるか受け止めるかの判断が遅れ、ゾロはバランスを失い、後ろ向きに倒れて頭に衝撃を受けるや、意識も視界も真っ黒に沈み込んだ。

「もうすぐだわ。ラティエスがまだ飛び立っていないといいんだけど」
 黄金竜の背からこちらを振り返って娘は不安げな顔を見せた。その目は確かにあの日最後に見た色をたたえている。夜明け前の空の色。サンジのそれと同じ色だ。
「──ファイエラ?」
 まさかと思いつつもその名を口にする。あり得る筈がない。今彼女はまだ一巡歳にも満たない赤ん坊で、ベンデン大厳洞にいる筈だ。
 ゾロの小さなつぶやきは忠実な竜によって彼女に伝えられ、彼女は微笑むことでそれを肯定した。
 ──しかし、なぜ、どうやって? そして何故彼女はわざわざ俺に今の状況を教えてくれる?
 疑問は次々と浮かぶが、ゾロは見慣れたハイリーチェスの峰が目の前に現れたため、全てをぐっと呑み込んだ。
「聞きたいことはたくさんあるが、全部後回しだ。とにかく礼を言う。飛翔ノ儀が近い黄金竜が近くにいるのはよくねえから、アンタはこれ以上大厳洞には近づかねえ方がいい」
「…わかったわ。じゃあ」
 ファイエラは大きくデュラメスを旋回させ、ゾロと離れていった。ゾロはそのまま弾丸のように鉢ノ広場へと飛び込んだ。


 

  

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