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竜の血脈(35)




「はあっ…!」
 サンジは何回目かの熱い息を吐き出した。相変わらず心臓はドクドクと煩(うるさ)い鼓動を繰り返し、そこから流れ出し体内を巡ってまたそこへ流れ込む血は熱く、末端まで痺れるような欲情を掻き立てている。それをサンジは意志の力を総動員させて押しとどめていた。こんな、こんな形で交合飛翔が始まるなんて──。これではラティエスを抑え、制御するどころかただ闇雲に解放するだけにしかならない。それに、ゾロはどこだ? 交合飛翔は番う相手の青銅竜と競って飛ぶのが通例、通常だが、長年連れ添った伴侶ノ騎士とはそれを助け合いながら制御し、互いの竜たちをできるだけ長く遠くへ導くことができるようになる。サンジはゾロとそういう形での飛翔を経験していたし、そうなると完全に他の騎士たちの介在を許さなくなる。それができるようになったところでのゾロの怪我だったのだ。
(ゾロが戻ってくるまで…)
 なんとか持ち堪えることができれば。そうすれば無制御で危険きわまりない飛翔をとにかく抑えることができる。交合飛翔を「共に導く」とはそういうことだ。
 ラティエスが畜獣の首に噛みついて、悲鳴のような咆哮を挙げた。可哀想なラティエス。騎士の俺がもっとしっかりしていれば、こんな無秩序な様相にはならなかっただろうに。
 またラティエスが畜獣にかぶりついて、血を啜った。サンジは口の中に暖かい血の味を覚え、反応した身体がびくりと跳ね上がった。
「洞母。交合飛翔が始まったんだね」
 岩室に誰かが入ってきた。
「何だかいつもよりラティエスが興奮しているようだが…。そろそろ制御を解いて飛ばせてあげてもいいんじゃないかな?」
「……ぬかせ……まだ…だめだ……こんな危ない飛翔させられるか…」
「まさか、君はゾロを待ってるのかい? ゾロが救ってくれると? 残念ながらゾロは間に合わないよ。大厳洞から離れてどこか遠くへ行ってるから、今から呼んだところで間に合わない」
「まさか…お前が…ゾロに何かしでかしたのか?…」
 サンジには話している相手の顔は見えていなかった。視界がラティエスのそれと重なるのは常の交合飛翔と同じだが、今は更に自分の周囲がぐらぐら揺れている。そんな状態でも、入ってきたのがアレックだとサンジは直感していた。
「人聞きの悪い。俺はただゾロに糸胞の痕跡らしきものの調査を依頼しただけだよ。彼が不在の間に交合飛翔が始まるなんて、誰に判る? 君も知ってのとおり、そんな徴候はなかったじゃないか」
 果たして答えたのはアレックだった。彼は勝利を確信してそこにあった椅子にゆったりと座り、脚を高々と組んで苦しむサンジを見下ろした。
「…ふざけろ……お前が画策したに決まってる……確かに交合飛翔がこんな急に始まるなんて、伴侶の俺でも分からなかったが…」
(くそう…思考が上手くまとまらねえ…だけどこんなにヤツの都合よくコトが運ぶ筈がねえ…何か変わったことがあった筈だ…なにか…)
 苦しい息の下、それでも深呼吸を繰り返し、なんとかサンジは記憶の糸をたぐり寄せることに成功した。
「…てめえっ!…俺に一服盛ったなっ!…いきなりこうなるなんておかしいにも程がある…!」
「おやおや、何を言い出すかと思ったら。そんな証拠がどこにある? それは言いがかりというものだ。俺は君に手も触れていないじゃないか」
「……あの、飴だ!…」
「飴? 何のことかな?」
「…こんのヤロオオオッッ!…」
 怒りがサンジを苦しめていた欲情から瞬時解放した。頭は怒髪天を衝(つ)く勢いで煮えたぎり、身体を巡る血はカッと燃え上がって、じりじりと全身を苛(さいな)んでいたむずがゆいような痺れを吹き飛ばした。
 しかしそれが裏目に出た。サンジが今まで全身全霊を掛けて抑えていたラティエスが、一瞬意識がアレックに飛んだ隙にさっと飛び立ってしまったのだった。
「ああ…っ!」
「くっ…ルイス! 急いで後を追うんだ!」
 ルイスを始めとして、ラティエスの動向をじっと窺(うかが)っていた青銅竜たちが一呼吸置いて一斉に飛び立つ。サンジは再びラティエスに意識を同調させて今度は懸命に高く早く遠くへ飛ぶようにと急き立てた。
 がっくりと膝を突く。しかしそれでもサンジは諦めていなかった。こうなったら本当に青銅竜とラティエスとの根比べに賭けてやる。最後の最後まで望みは捨てるものか──。

(そのとおりだ、諦めるにはまだ早え)
 落ち着いた声が頭の中に響いた。
 その声に一拍遅れて弾丸のようにバシリスが飛び込んで来て、まるきりスピードを殺さないまま地面に触れるかどうかすれすれのところを滑空し、そのまままた高度を上げて飛び去っていった。バシリスの背から転がり落ちるようにしてゾロが降り立つと、そのまま唖然と見ていた人々を尻目に、立ち上がって駆けだした。
「(ゾロ!!)」
 サンジの声が耳からと頭の中の両方で鳴り響く。普段の時でもたまにサンジは自分の「声」をゾロにだけは通じさせることがあったが、今は交合飛翔と薬のためにその能力が倍増していた。
 岩室に飛び込んできたゾロをアレックの呆然とした顔が出迎える。
「どうして、どうやってアンタが戻ってこられたんだ…」
「さてね。まあ、日頃の行いの善さがモノを言ったのかな」
 とぼけた調子でゾロは言うと、もうアレックはちらとも顧みなかった。
「サンジ」
「………」
「なんてえ顔してやがる。ほら、手え出せ」
 ゾロはサンジの手をとり、自分の手で包んだ。
「俺たちで彼らを高みへ導くぞ。そして安全に大厳洞へ戻らせてやるんだ」



(間に合って、よかった)
(あの娘が、教えてくれたんだ。アレックの企みでお前が窮地に陥ってると──)
(あの娘?)
 ゾロと感覚や思考を同調させたサンジは、ゾロの脳裏に浮かんだファイエラの姿を感じ取った。
(よかった…やっぱり来てくれていたんだ…)
(一体何がどうなっているんだか、さっぱり判らねえ。まだあの娘はベンデンで赤ン坊をやってる筈だろう?)
(はは。答えは解ってるだろ? 成長した彼女が黄金竜に乗って飛んできたんだ。時ノ間隙を飛んできたのさ。俺らがまだ迎えていない未来の時代からね)
(そうよ)
 突然、二人の会話に思念が割って入ってきた。しなやかな若木のように瑞々(みずみず)しく、その分真っ直ぐで脆(もろ)さも感じさせる若い思念だ。
(ファイエラ…どうやって?)
(デュラメスに中継してもらって、あなたに呼びかけてたの、ずっと。ようやく繋がったわ)
(そうか…君も黄金竜ノ騎士だったよね──…)
 サンジの思考は複雑な色を帯びた。誇らしさや嬉しさ、哀しさなど相反する感情が混ざり合っている。
(今、あなたがたの邪魔をするつもりはないの。ただこれだけは言っておこうと思って。私、あなたの手紙を受け取ってから、ずっと悩んだわ。怖かった。最初ゾロを怪我させてしまったことの責任を迫られると思ったから。でも信じて。私、けしてそんなつもりじゃなかったの。あんな風にぴくりとも動かなくなるなんて…)
(それで怖くなって黙って戻ってしまったんだね)
(…ええ。青銅竜にゾロを乗せたら、竜はすぐに飛び去ってしまった。私は後を追って、その怪我の原因は自分だと名乗りを上げることがどうしても出来なかった…)
(気にすんな。どうせそこに居たって怪我がよくなってたわけじゃねえし)
 ゾロがあっさりとファイエラの自戒を差し止めた。彼にとっては他者をさっさと締め出して本格的にサンジとの思念融合に掛かりたいと思っていた。サンジはそんなゾロの感情を見透かして苦笑した。
(本人がああ言ってるし、君はもう本当に気にすることはないよ。そろそろお帰り。本当は君の顔をきちんと自分の目で見たかったけれど、あまり長居をして余計な人間に見られるのはまずいだろう)
(そうね、わかったわ…そうする…。ゾロ、あなたには取り返しのつかないことをしてしまって本当に申し訳なく思ってる。会ってきちんとお詫びしたかったわ…ごめんなさい)
(…詫びるなら、俺だけじゃねえだろう。だが、まあ、今はもういい。無事に帰って、今のアンタがすべきことをちゃんと果たせばそれでいいさ)
(ありがとう…ねえ、また日を改めて来てはダメ?)
(ダメだ)(やめろ)
 同時に双方向から強い否定の意志がファイエラに向けられた。彼女は気持ちの上でも身体上も首をすくめる。
(もともと不自然なことだから、これ以上異なる時の人間と接触するのは危険だ。ゾロの一件で学んだだろう?)
(…わかったわ…でもあなたと話せてよかった…やっぱり私あなたの血を引いているのね…あなたほどじゃないけれど、私も他の騎士より、能力が強いみたい…)
(そうかもね。こんな遠くまで時ノ間隙飛翔をやってのけるなんて、そしてその方法も、正直そのことに思い当たったとき驚きのあまりぞくぞくしたよ)
(…恐ろしい?)
 おずおずと思念が細く問う。
(いいや、誇らしく思うよ。お戻り、ファイエラ。誰も君のことを怖いなんて思っていないよ。君自身だって誇らしく胸を張っていい)
(…──ありがとう……お、お父さん…)
(気をつけてな)

 サンジとゾロの思念が緩(ゆる)やかにファイエラと離れて行った。ファイエラは自分の伴侶のデュラメスを介していたとはいえ長い思念連結から戻ってふうっと緊張を解いた。
「ありがとう、二人とも」
 改めて声に出して言う。この声はもう二人には届かないが、きっと解ってくれている。
「さあ、じゃあ急いで帰らないと。デュラメス、戻ろう。私たちの本当の『時』へ」
(ソウネ。私ハアナタガ居レバドコダッテイイケレド、アナタガアナタラシク居ラレル処ガキット一番居心地ガイイワ)
「ええ、今となっては早く私たちの大厳洞へ戻りたい。私たちの岩室で、ゆっくり湯殿に浸かってのんびりしたいわ。隠れていた部屋は随分ほこりっぽかったし」
(ワタシハ、るあさノ高地ノ湖デ水浴ビシテ、ソレカラ岸辺ノ岩デ日ナタボッコヲシタイワ)
「まだ水浴びには早いでしょう。身体が冷えて皮膚にひび割れができてしまうわよ」
(ソンナコトナイワヨ。モウ十分日ハ伸ビテイルンダシ。ソレニアナタが油ヲ塗ッテクレルデショ?)
 デュラメスの声に甘えたそうな調子を聞き取って、ファイエラはくすりと笑った。
「さ、望みばかりしゃべっていないで、さっさとそれを実現させに戻りましょう。この時代も嫌じゃないけど、やっぱり私たちの『時』じゃないわ。知った顔がいない…いえ、いるのでしょうけど、皆やたら若いか子供に過ぎないのだから」
 自身はまだ赤ん坊に過ぎないことは棚に上げて、ファイエラは少しだけ考え込んだ。
 結局サンジとは思念で話をしただけで実際には会わないままで別れた。彼女にほんの少し勇気があったなら、昨晩まっすぐサンジを訪ねてゆっくり話ができただろう。もしくは今日ほんの少し余裕があったなら──いや、いけない。「もしも」の数を数えるとまた時ノ間隙飛翔をしたくなる。しかしそうやって何度も重ねたらいつか手痛いしっぺ返しをくうだろうことは頭のよいファイエラにとって自明の理であった。通常の間隙飛翔であってもミスをして戻ってこない事故が数年間に何件かは起こるのだ。さっきもゾロとサンジの二人から再度の訪問についてかなりきっぱりと否定された。残念ではあるが、今回を最後にしなければならない。
 後ろ髪を引かれる思いでファイエラはぐずぐずと辺りを見回した。何の変哲もない殺風景な眺めだったが、これが「この時代」なのだ。風がひゅう、と通り過ぎ、しびれを切らしてデュラメスが鼻を鳴らした。
「わかったわ。行くわよ」
 先ほど彼女たちはハイリーチェスの峰が見えはじめたところでゾロと別れ、近くの岩山の陰にその身を潜めていた。ファイエラはデュラメスの背によじ登って騎乗帽を被った。
「さて、まずはこの時代のベンデンまで行きましょう。それから時ノ間隙を飛ぶわ。毎度キツイ飛翔だけど、しっかり頼むわ、お嬢さん」
(アナタコソ、座標ヲ間違エナイデネ)
 緩やかに飛び上がる。まずはハイリーチェスを大きく迂回するコースをとった。それから他の竜や人に見られないように高度を徐々にあげてゆく。
(あら?)
 遥か遠くに何かが太陽の光をあびてキラッと光ったのを認めた。


 

  

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