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Holy Night

 



 みぞれ交じりの雨が微かに降っていた。このまま気温が下がると、夜のうちに本格的に雪になるだろう。でも先に雨で地面が濡れてしまっているから、積もることはないだろう。たぶん。
 サンジはいつもの場所に立っていながら、パーカのフードでも被るか、と一瞬考え、しかしその考えを首を一つ振ってあきらめた。
 フードなど被っては、せっかくの自分のセールスポイントである金髪が隠れてしまう。今夜はまだひとりの客もついてない。まだ宵の口でしかないから、もう少し冷たいしずくを我慢して、客を掴まえないと。
 こんな天気ならますます客足が途絶えてしまうしなぁ、と胸の内でひとりごちる。なんとか掴まえたら、うまくねだって朝まで一晩中コースに持って行こう。
 ぶるり、とパーカの中で身体を震わせた。身体が資本だから風邪など引いたらそのまま稼ぎに響く。一瞬、今日はもうあきらめて汚いねぐらに戻ってすごそうか、と思った。しかし実はついこの間まで酷い風邪を引いてしまって何日も寝込んで、おかげで今ふところが厳しいのだ。もう何日もまともに食べていない。てっとり早く客を掴まえて現金を手にしないとならなかった。

 サンジは男娼だった。街角に立って客をとって、毎日の食い扶持を稼いでいた。自分自身、いい加減この商売から足を洗いたいと思ったことは何度もあったけれど、まともな教育を受けたことがなく、ほとんど文盲に近い自分に他の仕事ができるとは思えなかった。
(でも客がつかなくなったら)
 自分の容姿がまだ若い今のうちはいい。しかし年をとって肌がなめらかさを失って、雨の中でもけぶるように輝く金髪もその色が褪せてしまっては、そのときまだサンジを買う客が現れるかどうか疑問だ。
 そうなる前になんとかまっとうな職に就いて人並みの暮らしがしてぇなあ、と今まで何度も思ったことを繰り返す。しかし思っているだけでその方法が思い浮かばないのだ。だから今日もこうやって街角に立っていた。

 はぁ、と吐いた息が白くけぶった。やべ、そろそろ本格的に雪に変わるぞ、こうなったら大抵の人間は男娼を買うよりは暖かい自分の家へ向かうことで頭がいっぱいになる。しょうがねぇ、収入がないのは痛えが、今夜はあきらめてねぐらへ戻るか、そう思ったところだった。

「ねぇ、おにいさん、僕のママ知らない?」

 くい、とサンジのパーカの裾を引っ張った手があった。


 なんだなんだ? なんでこんな裏通りにガキがいるんだ?
 サンジはいきなり降って湧いた状況にうろたえた。
 ここ一帯のブロックは、連れ込み宿や、ポルノショウの店、出会いバーなどがひしめくいわゆる色街で、表通りにはそういった派手派手しいネオンの店が並んでいるのだ。まず子供がふらふら迷いこむような場所ではない。そしてここはさらに裏通りで、男娼が立ち並んで通りかかる人間の袖引きをしているようなところだった。まっとうな男女のセックスを嗜好する人間はここへは来ない。娼婦たちはまた別の通りにその縄張りがあった。
 つまりここを通る人間はゲイと呼ばれる人種で、男を買う目的でやってくるか、もしくは男娼という人種を眺めて自分たちとどう違うのか興味本位で通るひやかし目的かだった。

「ねえ、僕のママ…」
 またしてもその子供は切れ長の目をサンジに据えたまま、言った。
 サンジは助けを求めるように通りの左右を見渡した。しかしこの子供の母親らしき人どころか、女性はひとりだって視野に入ってこなかった。
「コゾウ、どこから来た? ここにゃあおまえの母親はいねぇぞ? 迷子になるにしたって、ずいぶん場違いなトコロに来ちまってる自覚はあんのか?」
 サンジは子供に服の裾を握られた状態のまま、視線だけを落として言った。
「場違いなとこ…? おにいさん、ここ何てところ? 僕迷子なの?」
「おお、しっかりくっきりはっきり迷子だ。ここは…まあ説明したってわからねぇか…とにかくおまえなんかがふらふら紛れ込んでくるようなところじゃあねぇ。ええと、おまえは歩き出す前は何してたんだ? 飯か? 観劇か?」
(それにしたってこんな時間にこんな子供が…?)
 サンジの商売にしては宵の口だが、こんな子供にしたらしっかり夜更けといっていい時間だ。着ている服もしゃべる口調もまともな一般人の子供だと判る。子供は半ズボンにそろいのジャケット、足には革靴を履き、ハンチング帽まで被っていた。ジャケットは厚地のツイードで、全体的に上品で、いいとこの坊ちゃんという雰囲気だ。
(どうみても親とレストランで食事してました、って格好だよなあ)
 してみると、この子供はレストランの中からてくてくと歩いてここまでやってきて、そしてようやく自分が見知らぬ場所に来てしまったと自覚したということらしい。
(とっとと警察(サツ)に渡してお引き取りねがおう)
 そして今日はもうこのままねぐらへ戻って寝てしまおう。どうせ今夜は看板にするつもりだったし。
 と決断して。
(こんなガキがくっついてたら、ますます商売にならねぇよなぁ)
 サンジは思って、そこで初めてしゃがみこんで子供と視線の位置を合わせた。
「あー…、じゃあ、優しいオニイサンが君のおかあさんを探しに行ってあげよう。で、おかあさんはどういう感じの人なの? 髪の色は? 目の色は? 服はどんなの着てる?」
(あれ?)
 おかしいな。さっさと警察(サツ)に引き渡すつもりだったのに、俺は何でこんなこと言ってるんだろう、と頭の隅で思ったが、多分脳の大部分ではこの子供のおっとりとした様子や仕立てのよい服をとっさに値踏みしてそう言葉にして発したのだろう。
(もし送り届けたら何らかの謝礼をもらえるかも)
 生きてゆくのに常に最善の選択をしようと立ち働く頭が、知らず素早く計算をしていたのだった。

「髪は栗色、つーのかな、濃い茶色。んで目の色もおんなじ。服は…スカート履いてる」
「そんだけ? 服の色とかは?」
「ええと、茶色…だったような? あれ? 緑色だったっけ? ちょっと待って、黒だったかも」
(おいおい)
 サンジは大きくため息をついた。髪と目の色も平凡すぎるくらい平凡な色で、服の色も判らない。いくら子供だからと言って、覚えが悪すぎる。
(やっぱ警察(サツ)に渡すか)
 そう思って子供に、「なぁ…」と呼びかけた瞬間、子供がきゅっとサンジの手を握りしめた。
「ごめ…覚えが悪くてごめん…だけどお願いだから一緒にいてよ…だって…」
 うつむいて何か言っていたようだが、尻すぼみに声が小さくなって聞こえなかった。
「おいおい、別に俺ぁ泣くようなこたあ言ってねぇぞ? コゾウ」
 言いながらうつむいてしまった子供の顔を下からのぞき込む。その子はサンジが指摘したとおりにぼろぼろと涙を流して嗚咽をこらえていた。

 まだ5、6歳くらいだろうか。自分をとりまく世界はまだ母親中心な頃だろう。サンジは既にそのころは母親という存在はいなかったが、それでも娼婦のおばちゃんたちに目をかけてもらった記憶は手放せない。
「しょうがねぇなあ。いいか、コゾウ。男は泣いていい時は一生にたった二回しかねぇんだ。一回は財布をなくしたとき。もう一回は母親に死なれたときだ。てめぇは財布をなくしたわけじゃあねぇだろ。母親はこれから探しに行くとこだ。だから、泣きやめ。でないとおめぇがちゃんとその目で見ないと、おまえのママかどうかがわからねぇだろ」
 うん、とこくりと頷くと、その子供はなんとかしゃくり上げるのを止めようとしていった。
 だんだんと声が落ち着くのを待って、サンジはまた立ち上がる。
「さ、それじゃあ行くか。で、おめぇの名前は? なんてんだ?」
 小さな子供はまだ赤い目でサンジを見上げて一言、言った。
「ゾロ」



 表通りをゾロの手を引いてゆっくりと歩く。みぞれは予想どおり雪に変わり、ちらちらとネオンの光の中を煌(きら)めきながら落ちてきた。サンジはパーカのフードを被り、前もぴったりかき合わせてできるだけ冷気が身の内に入らないようにしてみたが、もともと素材から薄い服なので寒さはしのぎきれずにサンジを苛んだ。ただゾロと握りあった手の部分だけがほっこり暖かく、ふり積もる雪片もそこだけ避けてくれるような錯覚に陥る。
 さすがに色街のメインストリートはこの天候でも人通りが絶えず、雑踏の中を若い母親らしき人影を探して何度も往復する。念のため通りに面している酒場やバーなどの飲食店ものぞき込んでみたが、どこにもそれらしき女性は見あたらなかった。
 やがて、ゾロの足取りが重くなってきた。サンジがはっと気づいたときには、かくりと膝が落ち、支えてやらなければそのまま地面に倒れてしまったところだった。
(無理もねぇ。小さい子供にはもう体力の限界だったな。夜も遅いし)
 抱き上げた子供は軽く、サンジに完全に身体を預けてすうすうと落ちついた呼吸を繰り返している。
(おいおい、眠っちまうなんてそりゃあねえだろう…)
 サンジは半ば呆れながらも顔の脇で無防備になっている子供の寝顔を見て、くすりと自分も笑みを漏らした。
(弱ったね、どうも)
 空いている片手でぽんぽんとハンチング帽に積もった雪をはらう。いつの間にかうっすらと自分にも子供にも薄い膜のように雪がヴェールを掛けていた。
 警察に届けるべきだ、とさっきからサンジの理性はそう告げていたが、目が覚めたときに自分がまたひとりぽっちで放り出されているのを知ったら、このコゾウはまたぼろぼろ泣くんじゃないだろうか、と思ってためらわれた。
(ほんと、しょうがねぇ)
 サンジはゾロを抱えて、くるりをきびすを返した。



「ん…ママ…どこ? ママ…」
(寝ぼけてンのか)
 サンジは自分がねぐらにしている廃ビルの一室にゾロを連れてきていた。もう今夜は親探しはあきらめるしかない。明日、明るくなってから警察に届け出るのが一番だろう。そう思って自分のベッドにゾロを横たえ、自分は廃品置き場から引きずってきたぼろいソファに寝ころんでいた。
「ママ…」小さい手がシーツの上に出てきて、あちこちさまよっている。それを窓からの雪明かりでぼんやりと捉えて、サンジはむくりと身を起こした。
(一体ドコまで面倒みりゃいいんだ、俺ぁ)
 胸のうちでぶつぶつ文句を言ってみても、誰も聞いてくれる人がいるわけではない。ソファから抜け出て数歩の距離を裸足で歩くと堅い床が驚くほど冷たくて、半分眠っていた頭が完全に覚醒してしまう。自分が使っていたブランケットを身体に巻き付けてベッドに近寄り、シーツの上の小さな手を柔らかく握った。
 するとその手はぎゅうと握りかえしてきて、そればかりかぐいぐいとベッドの中へと引きずり込もうとした。
 もうサンジも驚かず面倒を嘆きもせず、その手に引かれるにまかせて自分もするりとベッドの中へと身をもぐりこませた。ブランケットは器用に二人の上に拡げる。
(あったけぇ)
 ほんの数歩の距離を歩いただけなのにサンジの身体は冷えていて、子供の高い体温で暖められたベッドの中は楽園のように感じられた。もぞもぞと身体を動かし、一番楽な姿勢をとる。
 ゾロはサンジの手を握り、新しいぬくもりが傍にやってきたのを感知したら安心したらしく、さっきまできゅっと締まっていた口元が軽くゆるんで、見ようによっては笑っているともとれるような表情になっていた。
 すうすう、すうすう。
 規則正しい寝息を聞いているうちに身体も自然に暖まって、徐々にサンジも深い眠りの淵に落ちていった。



「うわあ、よーく寝た」
 久しぶりに気持ちのよい目覚めだった。こんなに深く眠れたのはいつ以来だろう。
 大抵サンジは夜に働いて明け方帰ってくる。帰路、開き始めた店で食材を買い、それを抱えて戻るのだ。
 戻ってきてもすぐには眠らないで、客のところでシャワーを使っていても使っていなくても、もう一度丁寧にシャワーを浴び、自分のために軽く料理をして、ゆっくりと腹に入れる。
 食べるのが好きというわけでもないが、こうしてきちんと食事を摂らないと体調にすぐ響くのだ。
 仕事に出る前、普通の人間なら夕食時に大量に食べるわけにもいかないし、昼間は眠っている。なので、こうやって寝る前の決まった時間にきちんと食事をすることにしていた。
 すぐに眠ると消化に悪いので、少しの時間、拾ってきた新聞や雑誌を眺める。まともな教育を受けていないせいで、読むのにはかなり時間がかかるが、それでも最近はなんとか書いてあることの意味がわかるくらいにまで読めるようになってきた。
 その後にカーテンをぴったり引いてベッドに入るのだが、いつもただ疲れをとるためだけに寝ているだけだった。目が覚めるとぼんやりとした頭を熱いシャワーの下に突っ込んでまた新しい一日を始めるのだ。
 それが今朝は違った。いつも夜に仕事をして、朝になってから寝る生活に慣れているはずなのに──夜はもうかなり以前からサンジの身体にとって活動時間として刻み込まれているはずなのに、ぐっすりと眠ってぱちっと目が覚めた。

(あれ?)
 ベッドの中に暖かいカタマリがある。
(あー、そういや昨日拾ったんだったっけ)
 バッと重なったシーツだのブランケットだの引っぺがし、出てきた小さい身体がいきなり冷たい空気にさらされてぶるっと縮こまったのを
(おもしれ)と見ていた。
「おい、起きろ」
 軽く揺さぶる。ゆっくりと目が開いた。
(お)
 昨晩は暗かったせいでよくわからなかったが、ゾロの目は深い緑色で、それだけなら珍しくはないが光彩に金色の筋が入っていた。
(なんか、綺麗だなぁ)
 サンジはじっとその目に魅入っていたら、ゾロもまた自分を見つめていることにしばらく気づかなかった。
「きらきらしてて、すごい綺麗」
 一瞬、何を言われているのか理解できなかった。ゾロがそっと手を伸ばして、サンジの顔に触れてきた。
「おにーさんの目ン玉、まるでビー玉みたい。光ってる」
 昨晩一晩じゅう降り続いた雪はやみ、太陽が照っていた。さんさんと差し込む日の光はうっすらと窓辺に積もった雪を乱反射させて、室内じゅうに光をまき散らしていた。
 サンジの目はそれを映し、いつも暗い室内だと黒に見える瞳の蒼が、澄みきった朝の空気の中で光をはじいて美しく輝いていたのだった。
 金髪碧眼はサンジの持って生まれた唯一の取り柄だったかもしれない。少なくともこの商売では。細くさらさらとした金髪が汗や精液に濡れるのをほとんどの客は喜んだし、金色の睫毛にふちどられた目が潤むのも好まれた。
 綺麗なものを汚す快感というものがあるらしい。サンジはそれを経験によって知っていて、食べるために大いに利用していた。
 しかし今のように純粋に綺麗と言われたのはずいぶんと久しぶりのような気がする。大昔、子供のころ、娼館の娼婦たちにそう言われたことはあったが、今にしてみれば、それも少し同情めいた響きがあったように思う。
「…てんしさま…?」
 ゾロはさらに手を伸ばしてサンジの金髪に触れた。
「光が当たってるとこ、輪っかみたい」
 にこり、と笑う。
 サンジはどう切り返したらよいかとっさに声を失った。言うに事欠いて、天使とは。俺なんかをたとえるのに、一番遠い言葉じゃねぇか。天使なんてぇのは、もっと純粋なモンだろうが。俺は底の底までどろどろだ。毎晩野郎どもの汗と汁にまみれて。
「…おめぇのほうが、天使だろーがよ…」
 真っ直ぐ目をのぞき込んで首をかしげる、その無邪気な笑顔はどうだ。世の中の汚いモン何も見ていないんだよな、この目は。
 そう思ったとき、すいと自分から視線を逸らした。
「昨晩は途中で眠っちまったんだぜ、おまえ。覚えてる? だからここへ連れてきて寝かせた。今日は警察へ連れてってやるよ。きっとおまえのお母さんもおまえのこと探してるから、警察に連絡がいってるだろ。その方が確実だ。とりあえず起きて顔洗ってこい」
 バスルームの方向を指し示して、サンジも手早く服を身につける。何か食うモンあったっけ。そういや昨日はコイツを抱えていたから、何も食料を買い込んでねぇ。まああの時間に開いている店もあるはずがなかったが。
 これも廃品置き場から無断で持ってきた冷蔵庫に首をつっこんで中身を見渡す。生鮮モノはほとんどない。卵が数個。あと牛乳のパック、しなびたニンジン、じゃがいもなど。
 ニンジンとジャガイモをさいの目に切り、軽くゆでる。卵を全部ボウルに割り、ゆでたニンジンとジャガイモを混ぜ、さらに牛乳を少し入れ、塩こしょうで味をととのえたものを、熱したフライパンに一気にあけてオムレツを作った。
 じゅううっというフライパンの音に、バスルームからひょっこりとゾロが首を出す。
「わ、いい匂い」
 またしてもにっこりと笑う。ああ、子供ってのはホント天使だよなぁ、とサンジは思った。どんなことにでも素直に感情を表して、あたりに振りまくんだから。
「とりあえず、メシを食うぞ。そうしたら出かけるから」
 サンジは言って、ほかほかと湯気を出す黄金色のオムレツを皿に盛った。自分のとゾロのと。
 カトラリーは1セットしかないから、ゾロにスプーンを渡し、自分はフォークをとって、ソファに座る。テーブルがないから、座るところはソファかベッドしかないのだ。皿は膝の上で、食べにくいのはわかっているがどうしようもない。
「あ、そうそう」
 サンジは冷蔵庫から飲みかけのワインボトルを出して、コップに注いだ。うーん、と考えてガラスのコップに8分目ほど注ぎ、マグカップには2分目ほど注いだ。マグカップのほうにはさらに砂糖と、冷蔵庫の隅に奇跡的に転がってたレモンをカットし、半分から絞り汁を入れ、半分は大きめにスライスしたものをそのまま入れ、その上から熱いお湯を注いでゾロに渡す。
「ほんのちょっぴり、な。身体が温まるぞ」
 さあ、食べるかとフォークを手に取ったら、ゾロが神妙な顔をしてサンジを見ていた。
「何だ。こんなモン食ったことねぇのか? ありあわせで悪ぃけどよ、ちゃんと食えるぜ」
 ううん、とぶんぶんと首を振る。
(??)
 ゾロが何を言わんとしているのかわからなくてサンジもフォークを宙に浮かせたまま言葉に詰まった。
「あのさ、お祈り…は?」
 ああそうか。こいつはいいとこの坊ちゃんなんだった。きっと毎日敬虔な両親のもとで食事ごとに祈りを捧げているんだろう。
「あー…、うん、ああ、お祈り、ね」
 自慢じゃあねぇが、俺は食事の前にお祈りなんてしたこたあねぇ。何を言ったらいいか全然わからねぇ。とりあえず、それっぽいことをひねり出すしか。
「あー…天にまします我らの神よ、今日のか、糧を与えたもうことをカ、カンシャします。ね…ねがわくは…」
 何を言やいいんだっけ。願わくは? 言葉に詰まったサンジの後を、自然にゾロが引き継いで言った。
「…願わくは、僕とママが無事に会えますように。おにいさんと全ての人が平安で安らかな時を過ごせますように。この聖なる日にこのように綺麗で優しいおにいさんに出会えたことを心から感謝いたします。エイメン」
「──エ、エイメン」
 つられてサンジも唱和したが、まだ目の前の子供が言ったことに思考がついていっていなかった。
 そしてぽかんとしたサンジを見て、ゾロはまたしてもにっこり笑った。そしてそのままぱくぱくと皿の上のものをほおばる。
「美味しい! 僕こんな美味しいオムレツ食べたことないよ!」
「え? ただのジャガイモとニンジン入りオムレツだぜ?」
「でもすっごくふんわりしてる。中身はほくほくしてるし。おにいさん料理上手いんだねぇ! コックさんなの?」
「え? 俺ぁ…」
 違う、と言いかけてそのまま黙った。そうしたらゾロは次にそれなら何? と聞いてきそうな気がしたからだ。そんなカタギの仕事につけたらどんなにいいだろうなぁ、けど俺ぁただ身体売ってるだけの男娼だからよ。けどそれをこんな子供に言ってもわかるまい。
 そうだコックだ、と嘘をつくこともできたけど、このまっすぐ自分を見つめてくる子供に嘘はつきたくなかった。
「まぁだそこまでいかねぇよ。ただコックを目指してるだけだ」
 するりと口をついて出てきた。そうだよ、これから目指せば嘘じゃあないよな。
 とっさに誤魔化したいいわけめいた言葉だったが、存外この考えは気に入った。いいかもしれねぇ。コックか。さっきゾロが美味しい! と言ったとき、正直どきりとしたのだった。今まで具合のいい身体だの舌使いが上手いだのといった褒め言葉はベッドの上ではたくさん言われてきたけれど、どろりと情欲にまみれた声で紡がれたそれは、一度としてサンジの胸を響かせはしなかったのだ。
「すごいね、未来のコックさん。お店決まったら教えてね。僕、絶対食べにいくから!」
 にこにこにこ、と満面の笑みで言う。ああ、いつか絶対そうしよう。自分の店を持って、大勢のお客さんに自分の料理をふるまって。そしてみんなにこんな笑顔になってもらいたい。
「…ありがとうな。うん。必ず俺の店に来てくれ。俺はサンジって言うんだ。サンジの店、って言えば誰もが知ってるようなおいしい店にしてみせるから」
「うん、サンジ。僕、絶対行くよ。来年か再来年?」
「うーん、そんなに早くは無理だろうなあ」サンジは苦笑する。なにせたった今コックを目指すと決めたばっかりなのだ。たくさん勉強して、どこかの店に雇ってもらって、それからだ。
「じゃあ、僕が大人になるころ?」
「そうだなあ、それくらいかもしれないなあ」
「じゃ、僕が大人になったら、毎年の今日、サンジの店に行く! そしてとびきり美味しい料理を食べる!」
「毎年の今日? そういや、おまえさっきお祈りで『この聖なる日に』って言ってたっけ。今日何か特別な日だったっけ?」
 ゾロはあんぐりと口と目をあけてサンジを見た。信じられない、といった顔だった。
「…ホントに、今まで気がついていなかったの?」
「う、うん」
 何だったっけ、と頭の中をさぐる。先週は風邪をこじらせてほとんどベッドの中で過ごしていたし、昨日が正直久しぶりに通りに立った日なのだった。客を含めて誰ともしばらく口をきいていない。
 ゾロは床の上に皿を置いて、ソファから立ち上がるとサンジの傍まで歩み寄った。そうするとベッドに腰掛けたサンジとほとんど目線が並ぶ。
「…メリークリスマス。あなたに神のみ恵みがありますように」
 そっと、サンジの頬にゾロの唇が押し当てられた。
 サンジは息を呑んだ。いままでこんなに真摯に、こんなに純粋なキスをしてもらったことはない。
 肌に触れる他人の感触が、昨日からずっと心地良いと思えてしまうのは初めてのことだった。
「どうしちゃったの、サンジ。僕何か悪いこと言った?」
 ゾロが心配そうな顔をしてのぞき込んでいた。なに、と思ってふと気づくと知らぬうちに涙が頬を伝っていた。
「何でもない、何でもないよ。ずっと独りでいたからね、クリスマスも気づかなかったし、クリスマスにこんな素敵なプレゼントをもらったのは初めてだったから…」
 ぐい、と涙をぬぐう。本当にこの子は天使かもしれない。俺に人生の目的をくれ、喜びを思い出させ、慈しまれる暖かさをくれた。

 ありがとう。昨日こんな素敵な迷子を俺のところに届けてくれた何か──。

 ぽんぽん、とゾロの頭に手をやって軽く撫でる。短く刈った髪の毛だけど、まだ幼い分見た目よりずっと柔らかくてふわふわと手に馴染んだ。
「よし、じゃあ行くか。きっとおまえのお母さんすっごく心配してるぞ。イヴのディナーの席から突然消えてしまって、そのまま一晩帰ってこないなんて、人騒がせにもほどがあるってな」
「大丈夫だよ。だって天使と一緒だったもんって言うから」
 だから天使はおまえだよ、とサンジは心の中で言って、勢いをつけて立ち上がった。
 俺はもう男娼じゃねぇ。コック志望の男だ。たとえ何年かかったってかなえてみせるぜ。

 足どりは軽く、背もピンと伸ばし、あごを上げたその顔はクリスマスの朝にふさわしくにこやかに輝いていた。

「──あのね、ママに会ったらね、…」
 ぱたん、とドアが閉じて話し声が遠ざかっていった。


End.

 

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後書き:

いっぺんやってみたかったんです。シーズンものSS。そして本日1日限りっていう限定もの(笑)。12月25日の始まりから終わりまでの24h限定で晒しておきます。その間はDLFです。ご報告は要りませんが、していただけると嬉しいなー・・・。
でも一体こんな僻地にこの限られた時間でやってくる人なんてどれだけいるのか・・・。まるきりの自爆企画だとはわかっているのですが。  (2007/12/25)

というのを半年前やったんです(笑)。もう半年経ったし、プチオンリーの記念にアップいたします。
いやー、これあと10年後くらいの続編書きたいなー。   (2008/6/29)