パラキシャル フォーカス(19)
■朝もやの中
霧が出ていた。
朝まだき、東の空がようやく白みを帯びて、闇をあたりから追い払い始めたが、船は今度はミルクのような濃厚な白闇に包まれていた。
(これは、ちっと。具合がいいんだか悪いんだか)
サンジは足音を忍ばせて甲板を歩く。じっとりとした空気が皮膚にまとわりついて、少し厭わしい。
白い毛布のような先を、見透かすように目に力を込めて船首を見、そして船尾の彼方を見やった。
(風が、来る───か?)
羊頭の船首像はうっすら霞んで見えるが、その先の陸地は何も見えない。が、段々と白んでくるその明るさに太陽が昇りかけていることが知れる。
来た───。
太陽が出たのだろう。じっと目を凝らしていると、だんだんと気温が上がるのに伴い、背後の海から風がゆっくりと動いて来て、白いカーテンを揺らし始めた。海軟風だ。
あまり時間がない。
サンジは出来るだけ振動を与えないようにゆっくりとマストを昇り、見張り台へ到達する。
案の定、そこには緑頭が背後の壁にもたれかかって寝息をたてていた。
(おい、一応不寝番のはずだろ)
まあ、でも。
コイツってば殺気とか、知らねぇ気配には信じられねぇほど敏感だからなぁ。その勘に頼るクセがついてるからしょうがねぇか。
(───しかしこうやって俺の接近を易々と許してしまえるってのはどうなんだよ、おい)
しばし、見入る。
浅黒く張りのある肌とか、直線で造形されたような顔だちとか。シャツをかたどるその下の皮膚、さらにその下の筋肉。呼吸とともにゆるく上下する胸。そして腕組みをしていて半分隠れている大きい手。
目が。
開かないで欲しい、と思う。そして次の一瞬には開いて欲しい、と思う。
あの目が見たい。だけど見たらこれからしようとしている決意が揺らいでしまうのがわかっているから。
ほんの数瞬、ゾロの目が開くかどうかにサンジは自分の全てを賭けた。
数秒後、止めていた息を細く細く逃がし、まだゾロの閉じた瞼を見つめたままゆっくりと手をジャケットの内ポケットに入れ、軽く握ったままゾロのハラマキの中に押し込めた。
(運があれば。また会おうぜ、クソダーリン)
──コイツはてめェに置いていってやる。
そして、細心の注意を払ってゾロの腕に巻いてある黒いバンダナを解く。
(悪ぃな。代わりといっちゃなんだが。これいただいてくな? 怒んなよ?)
そうしてまた来たときと同じように、ゆっくりゆっくりとマストを降りていった。
それがゴーイングメリー号を去る前にサンジがとった最後の行動だった。
■ 目撃者
あの妙な海賊船からこっそり逃げ出したはいいが、見つかって連れ戻されはしないかと、ずうっとびくびくしていたので、船の姿が見えなくなると、ジェイは一気に安心してその場所にへたりこんだ。
捕まって、寝床と食事を与えられ、いろいろ尋ねられてそのときは緊張していたけど、体調は万全とまではいかないまでも、少なくとも空腹と長時間同じ姿勢で見張っていたことからくる筋肉痛は大方回復していた。
(ヘンな奴ら)
海賊っていうから、もっと恐ろしげな人間を想像していたけど。取り仕切っていたのは若い女だったし。ターゲットは船長なのか?あれで? ……でも賞金首だって言ってたな。 とても一億には見えないけど、オレたちがこれだけ懸命に捕まえようとしているんだから、やっぱそれくらい価値があるのも不思議はないのかも。
しばらく息を整えて、そして誰もジェイを追いかけてこないことを確かめたところで、ジェイは頭の中で何をどう報告したらいいか考え始めた。
それから二日。あの後オキーフの元へ戻って彼ら麦わら海賊団のメンバーの名前と顔かたちをとりあえず報告したところ、別にジェイの一晩の不在は問題視されることもなく、真面目に情報収集していたこととされ、あまつさえ「お前も案外役に立つな」という思いがけない言葉まで掛けられたので、ジェイは実はその海賊たちに捕まって取引めいたことをしたなんて絶対に漏らすわけにはいかなくなった。
つまりはそれは、何かの折りにふともっと詳細な情報、船内まで入り込まなくては知り得ないことがらをうっかり口にしてしまったら、ジェイはなぜ故意にそれを言わないでいるのか、その理由を追及されることになり、それはジェイの立場を非常に危うくするという意味を持つ。
(でもあの女(ひと)は、『正統な取引』って言ったけど)
余計なことを「言わない」ストレスと罪悪感をナミの言葉で相殺しつつ、それでもうっかり「言って」しまったりしないように、ジェイは出来るだけ仲間たちとは距離を置くように心がけた。
それでもやはり、当初の目的を果たさない限り故郷への帰国はあり得ないし、一宿一飯の恩義はあっても、もともとジェイはノースブルーから何ヶ月も一緒に過ごしたのは海賊たちではなく、彼らであったから、とりあえずできることとして積極的に見張りを続けていた。
そして今朝、というか前夜から同じ場所に陣取って間断なく彼らの船を観察している。
慎重に姿を隠した場所は、船上からは見えないはずだ。
夜明けと同時にジェイは起きていた。しめった霧がかぶっていた毛布を湿らせ、寒さで目が開いてしまったのだ。その霧も徐々に吹いてきた風によって追い払われ、周りの空気が昇ってきた太陽によって暖められてゆく。
彼らの船は正面を陸に向けて停泊しており、羊頭の船首像が朝日に照らされて真っ白に光って見える。
と、誰かが船側の縄ばしごを下りて、繋いであった艀に乗り込んで船から離れた。
(誰だろう?)
双眼鏡をぎゅうっと目にあてて背を向けて漕いでくる人影に焦点をあてる。金髪。あのコックだ。サンジ、と呼ばれていた。
買い出しかな?あれだけしっかりとまともな食事を三食きっちり出すとなると、かなり豊富な種類と量の食材が必要だろう。
ジェイはほんの二日前に供された朝食を思い出して、口中にあふれそうになった唾液を飲み込んだ。美味しかったなぁ、あれは。
そう言えば、その前の夜に出されたスープもすごく美味かった。綺麗な金色で。
思い浮かべるとまたしても唾液が湧いてきてしまい、起きたばかりのはずの胃がきゅるる、と存在を主張する。ヤベ、でも───もう、食べられないだろうな、あんな美味いの。
そりゃそうだ。彼らはオレたちの獲物なんだもの。一緒に何かを食べるなんてことはあっちゃならないことだし。
何でかわからないが、ジェイは胸の中にも風が吹いているような気持になって、俯いてしまいそうになる。
(ばか。何考えてんだ、オレ。あたりまえのことだろ)
ぐるぐる考えているうちに、金髪頭は艀を岸につけて飛び降りた。もやい綱を持って船と岸を見比べてしばし何かを思案しているようだったが、ひとつ肩をすくめるとそれを大きめの岩に結びつけた。
それがすんで、くるりと振り返るともう船は顧みないで下生えの中の細道をざっかざっかと歩き出す。
真っ直ぐに近づくその顔には──。
───あ。
黒い布が斜めに巻かれていた。
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