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クロース・トゥ・ジ・エッジ(1)




 青白い月の光に照らされて、甲板もマストもたたまれた帆も、肋材もシュラウズも全てが青白く見えた。
 その中心に彫像のように佇む痩身も、また──

 後甲板で月光を浴びながら、サンジは何やらうつむいて顔を擦るような仕草をしたあと、月を振り仰いで右手を──正確には右手の中にあるモノを──かざした。
 静かな夜だった。世界はひっそりと静寂のままにその息をひそめ、あらゆる生きとし生けるものはビロウドのような優しい夜のしじまに包まれて今日の疲れを癒し明日への活力を養うために、規則正しく寝息を立ててやすらいでいる、そんな夜だった。
 波も風も穏やかに、あやすようにゆったりと揺れ、そのリズムは吐息のようで、波や風ですら眠っているかのように感じられる。
 そんな静寂な夜に、眠りという万物平等の癒しから背を向けてサンジは立っていた。青白くあたりを照らす月に透かすように手の中のものを視る。
 ──エターナルポース。
 普段はサンジの左目の義眼として、その場所に在るモノ。
 サンジが子供のころに無理矢理嵌められたそれは、ある事件によりおそらくオールブルーという奇跡の海を指し示しているのだろうと発覚した。
 以来、サンジは儀式のように夜中にこうやってその義眼を取り出しては中の指針がどこか特定な場所を指さないか、繰り返すようになった。
 
(……ったく)
 ひっそりとその身をキャビンの影の中に同化するように置いて、ゾロはそんなサンジの挙動を観察しながら内心で呟いた。
(今日も特段、何事もなし、のようだな)
 別にゾロはサンジの様子が気になるわけでもないし、ましてや心配なぞしているつもりもない。
 こうやってサンジを見ていることも、本人に隠しているわけでもない。ただ何となく、二人で酒盛りをした後とか、もしくはもっと特殊なコトの後とかに、ふらりとサンジが甲板に出てするようになった『癖』のようなものを黙って見ているだけだ。
 サンジもゾロも、この『癖』のようなものについては何も言わない。
 サンジが義眼を取り出す、月が出ていれば大抵月に、そして真に闇の夜はほの暗いランプの光にかざして、中の小さな小さな指針がゆらゆら揺れながらゆっくりと回るのを確認する──
(それだけだ)
 だが、もしもその指針がぴたりと止まって、一方向を指し示すようになったとしたら──
 そんな時がいつか来るのだろうか──いや、そんなことがあり得るのか──あのエターナルポースが単純に壊れているのではなく、その「別次元の入り口」を指し示すのだという確証はないのだ。
 あれ、がコックに託された、というよりは押しつけられた状況と後から発見された手記だけでただそう判断しているにすぎない。

(まあ、ヤツが何を考えているのかは知らねぇが)
 好きにするさ、俺には関係ねぇ。
 ゾロはがしがしと頭を掻いてサンジから眼を逸らすとその場を後にした。





 小さな海賊船は穏やかな港に浮かんでいた。島の名前はナイジェル島というそうだ。比較的大きめの島で、交易もそこそこ盛ん、気候も穏やかで島の住人たちも活気があふれて笑顔が多く見受けられる。
 いつもの麦わらを被ったドクロマークの帆はとうにたたんで倉庫にしまわれ、何の変哲もない生成(きなり)の帆が帆桁にきっちり畳まれている。彼らは今回長めの滞在を見込んで港湾管理部に偽造書類を提出し、しっかり交易船ゴーイングメリー号として港に繋留していた。
 港湾管理料の支払いは、ほんの少しナミの眉根をひそめさせたが、それでも目の前に広がる賑やかな街並みに最終的には渋々ながらも必要経費として制服を着た管理人にきっちり七千ベリーを支払ったのである。

「ログは一週間で溜まるんですって」
 早速情報を仕入れてきたナミがクルーに告げた。
「ま、そうは言っても一週間かっきりで出航する必要もないし、ここしばらく落ち着かなかったからここではゆっくりしましょうか。海軍が常駐するほどの規模でもないけど、その割には物資が豊富みたいだし、久しぶりに文化の香りがするわ。ああ〜〜、私、美容院だけじゃなく、ネイルサロンもエステもしばらく遠ざかっていたから、絶対ここで磨いてこなくちゃ。ロビンも行く?」
 ナミはオレンジの奔放な眼と髪の色が示すように、性格、言動もよく言えば溌剌(はつらつ)で快活、悪く言えば放埒(ほうらつ)で気まぐれであった。それと対称的にロビンはその黒髪と大きく黒曜石のように濡れたような瞳にともすれば冷たい印象を与えられるが、奥底には穏やかな仲間への配慮と思慮深さをたゆたわせている。
 そんな対照的でどちらがどちらに優っているとは決して言えない二人の美女を視界に入れて、サンジは心の底から幸福感を味わっていた。
(俺ってば、この船に乗って本当に正解っ! いいよなァ、ナミさんもロビンちゃんも。ナミさんが大輪のバラとしたら、いやいやカトレア、いやまて蘭の方がいいか、そしたらロビンちゃんはさしずめ雨に濡れたあじさい、いやしっとりとした百合、いやいや月の光で咲く月下美人かなあ)
「おい、クソコック」
(ふたりともでも全然か弱いところもなくて凛としてて。いやもちろんレディは弱くても俺がきっちり守ってさしあげるから全然構わないんだけどよ、でもこう、美しさにますます磨きがかかるってゆーか)
「おい」
(やっぱ、レディはそこに居るだけで、いいもんだよなァ)
「おいって、聞こえてんのか、クソコック。いつまでも鼻の下伸ばしてあっちの世界に行ってないで、いい加減帰って気やがれ」
「………」
「ん?」
 ぎろり、と向けられた目が、片方だけでも妙に迫力を増してゾロを睨みあげた。
「るっせーってんだ!この絶世の美女おふたりとしばしお別れする前にシアワセ気分満喫しているとこを、邪魔すんじゃねー!」
「何言ってんだ、お前? 俺ぁ少しの時間でもこいつらと離れられるってんで開放感いっぱいだけどな。どうせまた航海始まれば毎日いやってほど顔突き合わせるのに。見てるだけでシアワセになれるなんて、お手軽だなー、お前。触らないで見てるだけでイけるくらい溜ってんのかよ。」
「な、なんちゅーコトを言うんだ! このクソアホマリモ!」

「う、る、さ、い!!」
 がつんッと両手の拳骨が二人の頭上に容赦なく落とされる。きゃしゃな女の手といえど、こういう時にはなぜかがっちり分厚い野郎の手と同じかそれ以上に痛い。
 うう……と頭を押さえる二人を醒めた目で見ながら、
「ほーんとにいつもいつも、つまんないことで言い争いしてないで。ぎゃーぎゃーわーわー、傍にいるコッチの身にもなってほしいわ。仲がいいのは結構だけど、度を超すと迷惑だわ」と言い放つ。
「ど、ドコが仲がいいって?!」
 異口同音に声を上げ、まったく同じ様に目を剥いて反論しようとする二人を、ナミはああもう、と手で制し、
「はいはい、もういいから。とにかく私とロビンはちょっと街へ行って来るから。夕食は要らないわ。最後の人は鍵締めるの忘れないでね」
 ひらひらと手を振り、ロビンをうながせて立ち上がると、二人はラウンジのドアを開けて出て行った。
 桟橋へひらりと降り立ち、船から離れるにつれ、ナミはついぽろりと口からため息とともに言葉を落とす。
「まったくもう…」
「ふふ。可愛いじゃない」
 ちょっと早足ぎみのナミに歩調を合わせながら、ちらりとロビンは横目でナミを見やった。
「可愛いって、私も早くそう思えるようになりたいわ。すごく正反対の性格でいながら似たもの同士なんだから手に負えないったら」
「ふふ。妬ける?」
「どこが!鬱陶しいだけよ。あれで自分たちは仲が悪いとか気が合わないとか思ってるのが許せないだけ」
「そうかしら。本当は彼らだってわかってるのじゃなくて?」
「…まあ、そうね。わかってる、とは思うんだけど。敢えて背を向けて認めようとしないところが気にくわないのよ」
「でも、そうやって彼ら自身、バランスをとってるのかもしれないじゃない?」
 その問いに、ナミは答えを返すことはしなかった。長いこと沈黙を続けた後に口を開いて出た言葉はそんな話題はさっさと頭から追い出すが吉、とばかりに全く関係ないものだった。
「あっちの角を曲ったあたりがメインストリートみたい。洋服も買いたいし、久しぶりにコスメもたくさん見たいわ。いいお店あるといいけど」
 そして以後綺麗さっぱりその話題は二人の口から出ることはなかった。

「…おい」
「んだ、クソミドリ」
 確かにナミとロビンがさきほどそこにいた時とは少しだけ違う雰囲気がラウンジに漂っていた。いや、正確にはラウンジという場所ではなく、二人が少しだけ違う空気をまとっていた。別に今まで演技をしていたわけではなく、また二人ともそれが素の状態というわけでもないのだが、「つとめて仲が悪い顔」でもなければ「仲間としての信頼を置いた顔」でもない。フラットな、感情を綺麗に拭ったようなそんな坦々としたな雰囲気となっていた。
 呼びかけたはいいが、実は用事があったわけではない。先ほども、妙に意識が浮きまくっているサンジのツラが気にくわなかったから呼びかけたにすぎない。別にいつもならそんなことは放っておいたはずなのだが、なんとなく久しぶりに島に着いて、ゾロも海の上とは違う気分になっていたのかもしれない。
 呼ばれたサンジはゾロの次の言葉を待ったが、ゾロも口をつぐ噤んだままだ。耐えかねて、
「何の用だ」
 と重ねて尋ねてみたが、もとより用があったわけではなかったので、
「いや、何でもねぇ。邪魔した」
 ゾロはくるりと背を向けてラウンジを後にする。
 サンジを視界に入れていると、何と名付けたらいいかよくわからない感情が時折湧き起こる。この気の強いコックとは以前より躯を重ねる間柄で、その点で言えば他の仲間よりは少しだけ近しい位置にいると言えるのかもしれないが、かといってそれが心の内までも近いと言えるのかどうかは甚だ疑問に感ずるところでもあった。
「…変なヤツ」
 ゾロが消えたラウンジの扉をほんの一秒注視したものの、サンジはすぐに買い出し予定のメモの作成に精神を集中させた。
 その晩、ゾロは船へ帰ってこなかった。

 翌朝。
 心なしか肌の艶が増したナミが朝食の席でそういえばね、と言い出した。
「昨日、サロンで聞いたんだけど」
 優雅にクロワッサンを二つにちぎりながら話し出したことは、全員の関心を一気に惹き付けた。
「ほら、ここナイジェル島からちょこっと離れたところに、小さな島が見えるでしょう。あの島ってね、ログポースが狂うんですって」
「ええっ、そんなコト聞いたことねぇけど、ホントかよ?」
「うん、よくわかんないけど、なんでも島自体が火山性の島で、ものすごく強い磁気を帯びていて、通常のログポースはそっちの磁気にやられて狂ってしまうのだって。だからログを溜めて次の針路を決める私たちみたいな旅行者は、親島にあたるこっちの島でログを溜めて、あっちの島へは行かない方がいいよ、って聞いてきたのよ」
「へーえ、じゃあ、あっちの島には人が住んでいないのか?」
「いいえ、ちゃんと住人はいるんですって。あそこの島の特殊な土壌にだけ生育する野菜とか花とかを月に一回こっちの親島に売りにくるらしいわ」
「じゃあ、ログはなくても行き来はしてるんだ。まあ目に見えるくらい近いからな」
「だけど、そんな近くて月一回しか行き来がないのか?」
「そうよ。やっぱりそう思うでしょ。私もそう思って聞いてみたんだけどね、あの島に入れるのが月に一度だけなんですって。なんでも島の周囲にすごく複雑な海流が渦を巻いていて、普段ならとても近づけないのだけれど、大潮の日だけは渦が相殺されるか何かで、島に入れるのだそうよ。本当ならもっと頻繁に出入りできればお互いの島民にとっても交流が盛んになっていいのだそうだけど」
「へーえ、うまくいかないもんなんだねぇ」
 皆が不思議がって感心している中、黙って聞いていたサンジが初めて口を開いた。
「ナミさん、その島の名前は?」
 ナミは振り向いてその大きなオレンジの瞳をサンジの青いそれと交わらせた。
「ええと、確かラッセル島」

 

  

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