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パラキシャル フォーカス(11)




■ホットミルク



ジェイは名前を告げたあと、それ以上の追求に備えてできるだけぐっと目に力を込めてナミを見つめかえしたが、早朝から空腹を抱えての緊張続きの一日だったうえ、仕上げに夜の海を泳ぎゴーイングメリー号に乗り込もうとして誤って頭を打って溺れかけたところを運良く拾ってもらえたわけで、もう少し発見が遅ければ確実に夜の海どころか星空の上へ昇天していたくらいだったので、実際のところは自分が見張るべき海賊達に取り囲まれている緊張感のおかげでなんとか意識を保っている状態だった。

「───ナミ」
そんな状態のジェイをチョッパーは誰よりも先に気付いて、ナミを牽制するべく声をかけた。
「わかってるわよ」
ナミもしぶしぶながらチョッパーの口調に頷く。
「で、どこに置いておく?この子?」
「どっちみち、見張り役は必要でしょうね。それに容態をチェックする上でも誰かは傍についていたほうがいいでしょう。で、場所は男部屋にする?それともココかあとは格納庫か……」
女部屋は端から候補に挙がっていないところがナミらしい。
そこで今まで黙っていたサンジが声をかけた。
「いいよ、ナミさん。オレが見てるから。ココに寝床適当に作って寝かせておけばいいさ」
「あら、サンジくん。いいの?そうね、じゃあお願いしようかしら」
正直、航海中でないので常に全員がいるわけでないこの状態で常時見張りを貼り付けておくのは厳しい。目の前に上陸する陸地があって、船長のいわゆる「冒険」だの何だのができる貴重な時間と場所があるのだ。誰だって羽を伸ばしたいし、それなりに用事もある。
(サンジくんは食料調達という、正に一番重要な用事を抱えているのだし、とりあえず今夜のところは彼の申し出に甘えるとしても、朝になったら誰か交替要員を探して割り当てないと。頭の痛い問題だわ)
ナミは目を閉じ、頭をひとつ振って立ち上がると、でもその問題は明日起きてからにしましょうと結論づけてラウンジを後にした。今日は朝から接岸の指揮をとって忙しく働いたし、上陸してトラブルに巻き込まれたり、一日分としての出来事は充分以上だ。
「じゃあね、おやすみ、サンジくん、チョッパー」
「おやすみなさい、ナミさん」「おやすみ」

ナミがラウンジを出て行くと、サンジは黙ってどこからかマットレスや毛布を運び込み、ラウンジの隅に即席の寝床をこしらえ、チョッパーに向かって告げた。
「お前ももう寝ていいぞ、ドクター。今日のところはただ寝かせておけばいいんだろ。あとは俺が見てる」
「でも……」
「大丈夫だって。ついでに外のヤロウどもにもそう言っとけよ」
ぽんぽん、と小さな肩に手をかけて、そのまま背中を優しく押した。
「じゃあ、また明日な」「おう」


しばらく周囲を沈黙が支配する。サンジはさぁて、と新しい煙草に火をつけながらちら、とジェイに目を移したら、上目遣いにばっちりとこちらを睨む目とかちあったが、虹彩がもうふらふらしていて心許ないことこの上ない。
無表情のままくるりと背を向け、しばらくしてからまたジェイの方を向いた時には両手に湯気のたつマグカップを持っていた。
「ほれ、これ飲め。ドクターにはあまりたくさんはだめって言われたけどな、これくらいならいいだろう」
おずおずと手を伸ばして受け取ると、ふわりとした甘いにおいが鼻をくすぐった。ホットミルクだ。
(ホットミルクなんて、最後に飲んだのはいつだったっけ)
甘いにおいが急激に過去の記憶を呼び覚ます。
(たしか、オレが風邪引いたときに、母さんが作ってくれたんだよな……)
黙ってふぅふぅとマグカップの中味を啜りながら、涙がこぼれそうになるのを必死でこらえた。
サンジも自分用に作ったこちらはホットウィスキーをちびちびと舐めながらそんなジェイを観察していた。何歳くらいだろうか。がりがりとまではいかないが、年齢の割に頬の線とか首のあたりとかが少しぎすぎすして見える。目の回りにはうっすらと隈が出来、顔色も悪い。最初気が付いたときはびくびくとただ警戒をしているといった雰囲気だったが、今は油断なく気を張っているようだ。そうそれはまるで─触られるのを厭う猫のよう。だがそれも段々と疲労と緊張のあまりに目から力が抜けて行っているのが見て取れる。
「さぁて」
ぼんやりと空になったマグカップをまだ両の手で包んでぬくみを感じていたジェイは、その穏やかなテノールに緩みかけた意識を向けた。
「お前サン、寝相はいいほうか?わからネェ?んじゃ壁側に寝ろ。オレはこっち側に寝るから」
さっさと簡単に作ったマットレスの寝床に横たわる。
(え?寝るの?オレ、コイツと一緒に?)
ジェイは意味が掴めずまだマグカップを手の中でころがしてぼんやりとサンジを見ていた。
意外な表情をサンジも見て、僅かに眉根を寄せる。
「……ばーか、だって寝床はこれっきゃねぇもんよ。我慢しろよ。俺だってガキとはいえ男と添い寝するのは趣味じゃねぇんだぜ?ほれ、ちゃっちゃとこっちこい」
それでもジェイは初めて会ったばかりの男、それも海賊に近寄るのは恐ろしく、身体は確かにもう指さえ動かすのすら困難なほど疲れ切っていたが、座ったその場所から動くことができずにただその金色にランプの光を弾く頭を眺めていた。
「そ。じゃあいいや。オヤスミ」
それ以上特に無理矢理誘うこともせず、サンジは灯りを消すとマットレスに横になって毛布をかぶった。
(え?見張りとかって言ってなかった?いいの?)
しかしそんなジェイの心の声を見通したように、
「……あー……。でも俺が寝たからって逃げようなんて思うなよ?外にも見張り番はちゃんといるんだからな。怖いオニイサンが刀振り乱して追いかけてくるぜぇ?」くっくっと楽しそうに喉の奥で笑う。いや、オニイサンでなくてありゃオッサンだな、とトーンを下げた声がつぶやくように続いた。
ジェイは立ち上がって逃げ出すことも出来ず、さりとて横になって寝てしまうことも出来ず、ただその座った姿勢のまま、じぃっと声がしたほうを見ていた。灯りが消えた後も、残像のように金色の丸い頭がマットレスの上とおぼしきあたりに見えるような気がしたのだ。その辺りをじっと見つめて暗闇の中で目を凝らす。あの金色は……母さんと同じ……い……ろ…………。
いつしか膝をかかえて座っていたジェイはその膝の上にがっくりと頭をたれて、すぅすぅと寝息をたてていた。
舷窓から欠け始めた月が僅かばかりの光を投げかけてその小さく小さく縮こまった姿を浮かび上がらせると、そうっとサンジは起きあがってジェイの身体をゆっくりとマットレスの上に横たえた。


───ふわふわと、どこか暖かくて柔らかい場所を漂っている。あたりはホットミルクの色だ。甘い香りで満ちている。
泳ぐとも歩くともつかない感じで漂っていると、前方が柔らかく光を放ってきた。
ああ、あの色は母さんの色だ。弟も妹も、母さんの髪が自慢だった。北国の弱い日光でもキラキラと綺麗に反射して輝く金色。どんな人混みでも母さんの髪の毛は間違いようのない目印だったんだ。故郷では金髪はとても多かったけれど、母さんほど綺麗な色をしている人は滅多にいなかった。
母さん。この仕事が終わったら、オレは帰るからね。帰りたいんだ、母さんと弟妹のあの小さくても暖かい家へ……。
「……かあ、さ……」
小さく小さく漏れた一言は、誰も聞くはずのないものだったけれども。
漏れた声が求めた人物と同じ色の金髪を持つコックは黙ってその一言を胸にしまった。
肩肘ついて脇にねそべり、ジェイの小さな寝顔をしばらく眺めていたが、そうっともう一方の手があがり、ジェイの頭の上で一瞬躊躇ったあと、小さな頭に触れておずおずと二、三回なでた。
ジェイの髪もサンジより僅かに薄い、金髪だった。



ホットミルク色した霧だか靄だか分からない場所は、なんだか暖かくて柔らかくてずっと漂っていたかったけれど、そのうちに乳白色の靄は煙草の匂いを伴い、それを知覚したと同時に靄は紫煙へと姿を変えてたなびき始めた。
うっすらと目を開けたら、月光の中に浮かび上がる金色が目の前に優しく輝いていたので、ああまだ夢なんだ、オレは母さんと夢で会ってるんだ、なんていい夢なんだろう──とふわふわと意識を遊ばせて、
(母さんの顔が見たいなぁ)
ちょっと瞼に力を込めて、ぼんやりとした金色の輝きの輪郭をもう少しはっきりとさせてたどる。
さらさらの髪の間からこれも金色の眉と、その下のこれも金色に縁取られた薄い瞼、すっきりと伸びた鼻梁が見て取れた。
(あれ、母さんて)
ちょっと間違えちゃった。オレってば夢の中で母さんの顔を変えるなよぅ。
これはヘマして捕まっちゃった海賊船のコック。夢の中まで出てこないで欲しいなぁ。いくら母さんと同じ色の髪をしているからって。
さっきはろくに顔見なかったけど、この人、両方とも眉尻がくるんとしてるんだ、面白いなぁ。女の人は眉毛を剃ったり筆で描いたりするけど、この人もそんなことしてんのかな。でもわざわざくるくるなんて描かないよねぇ。
右手をそうっと毛布から出して、不思議な眉の形を辿ろうと人差し指を伸ばす。僅かな身じろぎがマットレスを伝わったのか、
「寝てろ」
ふいに聞こえた、テノール。
あれあれあれ?夢じゃあないの?
「眠れないのか」
一瞬前は穏やかに閉じていた瞼が両方とも開いていた。刹那、視線がかちあったがあまりの至近距離にどぎまぎとして、今度はジェイの方がぎゅうっと目を閉じてしまう。 
夢じゃない夢じゃない夢じゃなかった。ここは海賊船で。あの金色も母さんじゃなかった。
固く目を閉じたまま、ぐるんとコックに背を向けてそのまま丸くなる。もう一度夢の中へ逃げて、この場所から消えてしまいたい。でも、そうさ、ここはグランドライン。ノースブルーは遙か遠い。夢でだって遠すぎて帰れないんだ───
固く閉じた瞼の際から涙がにじみ出てきたので、ますますぎゅっと目を、そして口も閉じて、自分の体が石にでもなってくれないかとひたすら願った。
 
そんなジェイの震える背中をサンジはただ黙って見つめていた。




 

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