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パラキシャル フォーカス(28)




 夜中。
 ジェイは喉の渇きを覚えてふと目を覚ました。瞬間、自分がどこにいるのかわからずに頭がパニックをおこしかけたが、ぼんやり薄明るいランプの明かりに、緑髪の剣士の横顔が浮かぶのを見てようやく自分の状況を悟った。ここはサングヴィの港町の宿屋。その一室。夕食の後に薄めたとはいえ酒をコップ一杯飲んでそのまま眠ってしまったらしい。この宿まで運んでくれたのは、そうするとこの剣士なのだろう。親切なことだ。カーテンの向こうは真っ暗で、してみると朝まで大分時間はあるのだろう。
 ジェイはそのまま横たわった姿勢でゾロを見た。剣士はテーブルの上に紙を広げて、真剣な眼差しでそれを睨んでいる。そして手の中の何かをじっと見つめる。何だろう、あれは。そのときランプの光に、それがちかりと反射した。
 ちいさなちいさな、あれはエターナルポース?
 剣士の、それを見つめる横顔がぴぃんと張りつめているようで。息をするのもためらわれるほど真剣な表情に、ジェイは視線をはずすことも、目を閉じてしまうこともできずただただその横顔を見つめ続けていた。
 数分か数十分かわからないが、世界中の時が止まっているかのように感じられたその時間が過ぎ去り、剣士が小さく小さくつぶやいた。
「そういうわけなんだな、クソコック」
 それまでの射抜くように怖いばかりの目がふわりとほころんで、意外にも──といってよければ──優しい表情を形作る。先ほどの痛いばかりの空気の呪縛から逃れられて、慌ててジェイはぎゅうっと目を閉じ、ゾロがこちらを見てもただ眠っている様に見えますようにと心の中で祈った。

 不思議な光景が忘れられない。

 ジェイはこの後、なぜだかこの夜のこの出来事はいつまで経っても繰り返し鮮やかに心に浮かび、そうすると心臓がなぜだかわからないがドキドキと脈を打つのを感じるようになるのだが、理由はどうしても何年経ってもわからないままだった。




 翌朝。
 まだ朝もやが毛布のようにねっとりとその腕をまとわりつかせている中を、ゾロとジェイは次の定期船に乗りこんだ。タラップを昇りつつ、ジェイがふと背後を振り返ると、桟橋の人混みの中に昨日手を貸して立たせてくれた商人風の男がいるのが見てとれた。どうにかして彼と話をしなくては。ジェイは心中焦ったものの、具体的な手段を何も思いつかぬまま、タラップを昇り終えてしまう。彼も同じ船に乗り込むのであれば……しかし男はそのままちらりと一度船を見上げただけで、桟橋を戻っていってしまった。だが、その一瞥でしっかりとこちらを向いているジェイの視線を捉え、ジェイが自分を認識していることを確信してきびすを返し、ジェイに見られていることを意識して、背の高い男とすれ違いざま笑顔で耳打ちをし、肩をぽんと叩いた。あたかも友人によい旅をと別れの言葉を言っただけのように。
 そしてその「友人」はそのままこちらへ向かってタラップを昇ってくる。だがジェイへは視線を向けることもせず、そのまますたすたと割り当てられた船室へと降りていってしまった。
 なるほど。彼が追跡者か。そして商人風の男がわざとジェイに見せるために彼と接触したということは、ジェイにその存在を知らせることを許しているわけだ。ということは、ジェイから彼に接触することも可能であり、むしろ隙を見つけてジェイから動くほうが無理がないと踏んだのかもしれない。

 確かに船の上のほうが、それは容易であった。
 ゾロは船の上という閉じた空間ではジェイがどこかへ逃げることができないので、おおらかに、というよりは大雑把にすごしていた。というかほとんど動くことなく甲板で昼寝を決め込んでいたのだが。
 一応、旅の道連れであるので、たわいない会話を交わすこともある。
 ゾロはジェイの生い立ちについてはざっと聞いて知っていたが、ジェイの方はこの三本も刀を腰に差している剣士について六千万ベリーの賞金首ということの他何も知らない。
 日が経つに連れ、ジェイはゾロに対して最初抱いた恐怖心がだんだん薄れてくるのを感じ、それにつれてこの剣士について徐々に好奇心が湧いてきた。よく見ると怖いと思っていた顔は眉間の皺によるところが多く、普段甲板で寝こけている寝顔は案外あどけないというかちょっと意外なほどに若々しい。
 何かの折りに年齢の話題に触れたとき、ゾロはきっと三十四、五歳だと思っていたのでそう告げたらそのとき憮然と「そんなおっさんじゃねぇ」と少々拗ねたような口ぶりで返された。してみると見た目よりは遙かに若いのだろう。

 天気もよく、日差しもうららかで風も一定して吹き、航海は予定通り順調に進んでいた。
 どこまでも青い空と海が広がる平和な光景。その昼下がりに暇つぶしになんとはなく会話する。

「なぜ剣士になったの」
「なぜかな。今となっちゃわかんねぇな」
「子供のころから、今みたいになりたかった?」
「ガキの頃は毎日毎日ただ強くなりたかったな。果てがねぇ。そんで今はガキの頃よりは強くはなったが、まだまだもっと強くなりてぇ。目指す果てはいっくら行っても近づいた気がしねぇな」
「海みたいだね」
「はっは。てめぇうまいこと言うなァ」
 そう言って笑ったゾロの顔は確かに若かった。
 あ、こんな風に笑うんだ、この人。
 時折口の端をくいと上げるだけの皮肉めいた笑いしか見ていなかったので、こうやって顔全体で笑うことの出来る人だとは、正直この時までは思っていなかった。
 へぇ、と思ったときに、
「お、てめぇ、そんな顔して笑えンじゃねぇか。やっぱガキはそうやって笑ってるほうがいいぞ」
 と言われたので心底びっくりした。だって笑ってるのはあんたの方じゃないか、そう言おうとしたが。
 ゾロの笑う顔を見たことで、自分も知らず笑顔になっていた。
 そしてゾロはそんな自分をにやにやしながら見下ろしている。
 なんだか妙に胸がくすぐったくなってきて、いけない、と思いつつも自分も口が緩んで止められない。いやいや、この人は自分たちと敵対しているんだからこんなに気を許しちゃダメなんだ、と思って手すり越しに海面を見るふりをして顔を逸らした。そんなジェイの心情を知らずにか、それとも気が付かないふりをしているだけなのかはわからないが、ゾロは何気なく会話を続ける。

「てめぇこそ、どうして奴らと一緒にいるんだ。なんとかバイン、って会社の社員なのか、てめぇは」
「ううん。オレは、この航海の少し前に拾われたんだ。道ばたで腹減らしてたところへ、オキーフさんが通りかかって、やぶれかぶれで声かけたら……雑用係として拾ってくれた。それだけだ。それだけだけど……。母さんが病気で、弟も妹もまだ小さいし。オレがなんとか金つくんなくちゃ、みんな凍えて飢えて死んじまう。ホントはさ、母さんに会いたいし、弟にも妹にも会いたい。この航海が終わったら、みんなノースへ帰れるから、早く終わらせたい……」
 ゴーイングメリー号で、またサングヴィの街の飯屋で話した生い立ちをなぞってはいるが、今自然にジェイの口から語られる話はジェイの心情も素直に述べていた。気を許しちゃダメと思いながらも、すでにこの剣士に対して黙して語らないことはできなくなっている。そしてついつい言葉に感情を交えてしまうようになっていることも。

「あのコックさんの髪がね、そっくりなんだ、母さんのと。綺麗な金髪で、きらきらしてるんだ。オレのは少し薄いだろ。オレは少しそれが悔しかったけど……。でもコックさんの髪はホントに母さんそっくりで。だから最初にアンタたちに捕まった夜ね、母さんを思い出してすごくすごく懐かしかった……」
「ヤツは男だぜ?髪の色がいくら同じっていっても、お前のおふくろさんとは似たところなんてないだろうが」
「そりゃそうなんだけどさ……」
 ジェイはまた視線を海面へ戻して言いよどんだ。
 あの夜のコックさんはなんかとても──優しかったんだよ、オレに。
 確かに母さんみたいな優しさじゃあなかったんだけど。
 上手く言葉にできないし、言葉にして説明しようとも思わず、ただあの不思議な一夜を思い返して黙り込む。
 ゾロはそんなジェイに胸をつかれた。
 髪の色だけで。こいつはこんなにも思慕を募らせるのか。確かにかなりしっかりはしていてもまだほんの小僧だ。何ヶ月も故郷を離れて大人達に使われている生活は、本人は言わないだろうが、辛いことのほうが多いのだろう。自分とは違って故郷の家族を食べさせるために出た航海だ。前へ進むことしか考えてねぇ俺らとは違う。何とかしてやりたいが。
(くそ)
 今はダメだ。コイツを仲間の元へ返すにしても、そう簡単にはいかねぇ。それに───
 コイツらの仲間がノースへ帰るということは、目的を果たしたということだ。それはあのクソコックが捕まって奴らの探す「鍵」を差し出すということに他ならない。そんなことはできないし、それをさせないために自分は動いているのだから───

 ふたりはそのまま夕食時まで手すりのむこうの海原を見つめ続けていた。





「今日はどうだ」
 船倉の隅、樽やなんかの物陰に隠れてジェイは背の高い男とこっそり会っていた。
 毎晩、ゾロが甲板でひとりトレーニングしている時間にするっと抜け出してこの男に報告するのが、船に乗ってすぐに日課となった。
「特に何も」
「まだ、行き先はわからないのか」
「だって、海図もエターナルポースもあの人、いっつも肌身離さず持ち歩いているんだ。あのハラマキん中。それにオレ海図見たって全然意味わかんねぇし……」
「なんでもいい。何か島の名前でもわかればいいんだが……先回りできるからな。あと、できればそのエターナルポースを手に入れたいところだが…」
「でも、もしとることができても、なくなったことに気付いたら、一番にオレが疑われちゃうよ。それなら何の意味もないし」
「怖いか」
「怖いよ!そりゃ最近、普段はそんなに怖いことはなくなったけど。だけどオレ、一回あの人が血相変えたトコロ見たことあるんだ。多分本当の本気にはなっていなかっただろうけど。オレなんか刀抜く必要もないくらいあっさりやられちゃう。オレはよくわかんないけど、剣士って……だけど背中にも目があるみたいに歩くんだ、あの人。一緒に歩いてても、オレなんか全然無視してるみたいでさ。けど、ちゃんといる、ってこと判ってるみたいなんだ」
「──そうなのか」
「うん。寝てる時とかもすぐ手の届くところに刀置いてるし」
「まあ、この剣士がエターナルポースを隠し持ってるってことがわかっただけでもめっけもんだ。オキーフさんに報告したら喜んでいたぞ」
「ホント?」
「ああ。目的を果たす日も近い、ってな。だからお前もあの剣士にうざったがられない程度に張り付いて、できるだけ情報をとれ」
「うん。わかった」
 応えながらもなんとなく気分が沈む。
 ジェイは段々にゾロに対して警戒心を解くようになり、自分の感情も素直に吐露するようにはなったけれども、それでも自分の立場というものは忘れたわけではなかった。
 それに──だって。
 別に悪いことしているわけじゃあないし。このひと達はなんといったって海賊だし。まああんまり悪人には見えないけど。
 でも、ゾロと過ごす穏やかな時間が──そう、信じがたいが今までの忙しない雑用の毎日と、怒鳴られ続ける日常とはかけ離れて穏やかであったのだ──重なってゆくにつれ、なんとはなし胸がちりちりするのだった。

 今夜も報告をすませたあと、甲板へ出てみたら案の定、ひとり黙々とトレーニングに励むゾロがいた。既に筋トレは一通り澄ませたようで、びっしりと汗をまとっているようだが、暗いのでよく見えない。ただ近づくと風にのって汗の臭いがするのでそうとわかるだけだ。
 ひっそりとその場にうずくまり、膝を抱えて壁に背をつく。
 船室の舷窓から漏れる灯りが、刀をきらりと反射させる。ゾロは今度は刀を抜いて、構えていた──しばらくその場に静止していたかと思うと、次の瞬間、旋風が舞った。
 剣舞のよう、とジェイがもし知っていたならそう思ったかもしれない。けれどもゾロが成し得た動きは剣舞のそれよりももっと攻撃的で、型のない、それでいて優美な動きだった。
 風が動く。風が止まる。それにのってキラキラと刀が光をはじく──。
 腕の動きも身体の動きも見えはしないが。
 何か、が。
 闇の向こうで何かが舞を舞っている──
 ジェイはいつまでも闇の中の見えない舞を見つめていた。




 

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