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クロース・トゥ・ジ・エッジ(17)




 ぼおおおぉぉん……。
 風に乗って遠くから聞こえた鐘の音にサンジは物思いに沈んでいた意識をはっと引き上げた。
 裏手から大きく迂回してきたため、昼間とは異なるシルエットの領主館が暗い夜空にそこだけ黒く切り取ったようにそびえている。
 目的の場所は一体どこだ?
 あまり時間をかけてはいられない。全部の部屋を見て回るなんてことはとてもできない。
 少しだけ思案して、とん、と軽く地面を蹴る。塀の上にその身を移動させて全体を眺めた。そう大きい館ではない。三階建ての石造りで、中央の玄関から左右に長い長方形をしている。正面が南、向かって左が西で右が東というわけだ。今は裏側から見ているから方角は逆になるが。
 昨日最初に辿った経路を目を閉じて思い返す。
 館の正面の門からまっすぐに道を辿り、伝統的な樫の木材の扉を開けるとそこは小ぶりながら品のあるエントランスホール。左右に扇形に広がる階段を上がって二階の廊下を東側に折れて、二個目か三個目のドアが確か執務室──。
 そして夜に連れてこられた時は、一階のホール奥、西側すぐの部屋だった。
 この館は本館西側から渡り廊下を伝って別棟が繋がっていて、おそらく別棟は使用人たちの居住区だろう。公共に使用する部屋が一階二階とすれば、当然私室は三階。
 しばし考えて、二階東側からあたりをつけて見て回ることにする。
 ちょうど具合良く二階の窓近くまで枝を伸ばしている木に登り、そこからひょいとまるで体重などないかのように窓の庇に飛び移る。それから手を伸ばして用意しておいたガラス切りで鍵の近くに小さな穴をあけ、あとはそうやって開けた窓から悠々と部屋に降り立った。
 おそらく陽当たりがいい東側の部屋、そして冬に暖気が上がってきて暖かい二階以上──そう踏んでいくつかからっぽの部屋を見回った後に、小さな常夜灯が点いている部屋に行き当たった。
(ビンゴ)
 胸のうちだけでそうとなえ、するりと部屋の中へと忍び入る。部屋の大部分を占めるのが天蓋付きのベッドで、誰かがその中に横たわっているのが雰囲気で見て取れた。
 あたりを漂う消毒薬の匂いに、サンジは自分が目的地に着いたことを確信する。
(俺ぁコイツの臭いはどうも馴染めねぇ)
 僅かに顔をしかめるがすぐに気を引き締めた。
 さあて。
 夜闇に溶け込んだ黒猫さながら、音をたてずに足を踏み出した。




 同じころ。
 暗闇の中に昼間と同じ体勢で座ったまま、ゾロは目を開けて、明かり取りの小窓から時折漏れる月を見るともなしに見ていた。
 昼間にさんざん惰眠をむさぼっていたせいか、今は眠りが訪れてこない。
 身じろぎをしたら脇腹がズキンと痛みを訴えた。眉をひそめ、そっと触るとなんだかシャツの下がかすかに濡れているような感触がする。
 まずいな。
 囲まれたときに、少しだけ躊躇したのがアダになった。
 その気になれば、全員を血の海に沈めて包囲を突破することはゾロにしてみれば容易なことではあったのだが、問題はその気には全くなれなかったということだった。興奮はしているものの、どうみても専門の訓練を受けたような人間には見えなかったため、どうしようと一瞬だけ逡巡し、適当に相手をしてやって隙を見てまた逃げだせばいい、と結論したのがほんの少しだけ遅れてしまった。
 たまたま背後からヤリを突きだしたのが普段荒事には全く慣れていない男だったのも輪を掛けて災いした。殺気が全くこもってなかった上に、手の震えるままひょいと突きだしたそれが、予期していなかった動きでゾロの脇腹をかすったのだ。
 それでもそれが敵の海賊船の甲板の上だったとしたら、平素のゾロなら痛みを、いや、傷を受けたことすら無視して戦い通したところだったが──。
(ま、これもアリってことだ)
 他にもその後捕まったときにあちこち擦り傷と切り傷を作ってしまい、傷自体は大したことがないのだが、そこらじゅうぴりぴりして痛痒い。そちらは綺麗に無視できるとしても、脇腹に受けた傷のほうは、簡単に布で縛っているものの、それだけでは充分ではなかったようだ。自分ではよくわからないが、チョッパーなどはいろいろ文句を言いそうな気がする。
 牢に入れられてからすぐ、傷を縛る布だけ要求したが、ゾロの表情があまりに平然としていたために大した傷ではないと判断されたのかもしれない。もしくは、どうせあと少しで死んでしまうヤツにきちんとした治療を施すのは意味がないと思われたのかもしれない。
 どちらにしろゾロにしてみれば、自分の体をあまり他人にいじくられるのは好きではなかったし、とりあえず動ければそれでよしと考えていた。
 まる一日ほど経った現在、まだ血が完全に止まっていない、イコール傷がふさがっていない、というのは計算外だったが。
 まあなんとかなるだろう。
 昼間に退屈しのぎか弱い者苛めか解らないが、見張り当番にあたった男が、こちらから尋ねもしないのに「お前は二日後には処刑される予定なんだぜ。せいぜいココで余生を楽しめや」と言い、下卑た笑いを投げてきた。
 それをゾロに告げてどうなるものでもないハズだが、ゾロがうろたえて取り乱す様を見たかったのかもしれない。ゾロはというと、視線だけで「それがどうした?」と冷ややかな反応を返しただけであったが。それが面白くなかったのか、その男はなおも、
「てめぇ、解ってねぇだろ! 二日後っつったらあと二回朝日を拝むだけなんだぜ! 二日後の正午、てめぇの首は胴体からサヨナラするってこった! へ、せいぜいスカシた顔をしてろ! その時になったら今のすました顔が泣き喚くのが今から楽しみだぜ!」
 とゾロに向かって喚いた。ゾロは男のつばがこっちまで飛んできやしないかと少し顔をしかめたのだが、それをようやくゾロが見せた怯えだと誤解した男は満足してその口を閉じた。
 へえそうかい。
 俺の命はあと二日なのか。
 男の口調と態度が気にくわなかったので、ゾロは口に出さずに心のうちだけで返事した。そりゃあ大したコトだなぁ。急いで生きなきゃなるまいよ、と。

 それが今日の昼間のこと。
 今は牢の中は暗く、天井近くの小さな窓が唯一ぼうと四角く浮かんでいる。雲が早いらしく、月明かりが強く弱く、めまぐるしく移ろっている。厚い雲に覆われたか、長い間真っ暗になったかと思うと、次の瞬間ぱあ、と明るい光が射す。
 まるで。
(気分屋のアイツみてえ)
 ゾロは死刑執行の宣告にも動じることはなかった。何とかなるさ、何とかならねぇ場合はしょうがねぇから死ぬだけだしな、と思っただけだ。
 ただ退屈なのと閉じこめられている不自由さには苛々させられる。暇をつぶそうにも刀も取り上げられ、出来ることと言えば腕立て伏せのような単純な運動だけ。話し相手は時折巡回してくる見張り役しかいないが、それもまともに話をしたいような相手ではなかった。
(一昨日の夜は満月だったか─?)
 よくは憶えていないが、とても綺麗な月夜だった。今日もたまに牢を照らす月明かりは鮮やかなものなので、かなり月齢が高いのは間違いない。
 一昨日の夜の、サンジとのやりとりを思い出す。
 ついヤツのキレた言葉にのって、言わずともいいことまで言ってしまった。
『そんないきあたりばったりで運任せのやり方で本当に見つかるのか?』
 バカなことを言った。そんなことはヤツだってとうに承知していることだというのに。挙げ句の果てに、
『てめぇにゃ関係ねぇこと』と言い切られてしまうとは情けない。
 だがな、コック。
(関係ねぇなんて言葉で簡単に切り捨てられると思うな、俺を)
 胸のうちでつぶやく。

 それにしても、暇だ──今は。
 顔に月光を受けて、静かに目を閉じた。





 夜がその底を白々と返し始めて、ようやくサンジは夜闇を追いかけるように暗い森の中をノービイの待つ家へと走っていた。
 その相貌は暗く、口元は堅く引き結ばれていてその夜の探索行の結果をうかがい知ることができる。

 急がねぇと。
 ヤツはとんでもねぇ長い期間をかけて周到に準備してやがったんだ。
 たまたま俺らがやってきたから、プランに手を加えて変更したんだろうが、基本的にはもう何年も前から仕組まれていたんだ。
 くそう。
 あと二日、いやもう夜が明けるからあと一日のうちにヤツの計画を覆すだけの証拠を手に入れないと。
 時間がねぇ、時間が。
 うるせぇ。
 誰かあの時計を止めてくれ。
 サンジの走るその後を追いかけるように、時計塔の鐘が夜明けを知らせる雄鶏よろしく高々と鳴った。
 チッ、と走りながらも器用に舌を鳴らし、最後に時計塔の方角を一瞥する。木々の間からでも一層高くそびえ立つ石造りの塔。文字盤は常夜ライトアップされていて、まだ闇がそこかしこに残る中、そこばかりがボゥと明るい。
 ──ん?
 サンジは目の端にちらりと光が弾けたような感覚を感じ、立ち止まってもう一度その方へ目を凝らした。時計塔の下付近。
 ──気のせいか? 
 先ほどの弾けたような光はもう見えなかったが、今度はもっと小さく弱々しい光が見えた。それはあまりに小さく、あたりがまだこれだけ暗くなければけして見えなかっただろうほどに微(かす)かに光っていた。サンジがその場に固まって目を凝らして見続けること数分。その光は少し大きくなったりか細くなったりを繰り返した後に、唐突に消えた。
 サンジはその光が消えたあともまだ光が見えた方向を見続けていたが、自分が口元を綻ばせていることには気付いていなかった。


 

  

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