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永遠より長く無限より短い一瞬(2)

 




「あなた」
「んん?」
 ゾロは上の空で妻の腰を引き寄せると、軽くその頬に唇を寄せた。妻のアレキサンドラは誰もが目を瞠るようなセクシーな美人だった。豊満な胸、きゅっとくびれたウエスト、そこからなだらかに曲線を描く造形美──
 ゾロは今もって、こんな美人がどうして自分みたいな研究バカを気に入っているのか理解できなかった。アレキサンドラは同じ大学の別学部に在席していたころから、とにかく美人ということで有名だったが、ゾロもまた別の意味で有名人であった。(そのころはまだロボット工学という分野は世間的にマイナーなもので、ロボット自体ようやく社会に認知され始めた程度であった。政府がロボット三原則を発表したのはゾロが学部の三年になってからである。なので、ゾロがロボット工学の第一人者として名を馳せるまでにはまだ数年を待たなければならない)
 ゾロが有名だったのは、工学部にキチガイじみて頭の良い奴がいるということだけではなく、その人物が剣道の全国大会での覇者でもあったからだった。
 鍛え上げられたゾロの肉体は胴着を着けていても匂い立つほどセクシーであったし、時折そんな恰好のまま次の講義へとキャンパスをどかどかと移動する姿に、横目を使う女子学生たちは引きも切らなかった。ゾロは全く気付いてはいなかったが。
 文武両道。ゾロの信奉者は誰しもその言葉をもって彼を称えた。そうしてゾロを見つめる目のひとつにアレキサンドラのそれもあったのである。
 ゾロは飲み会や試合の会場で同じ美人によく会うなあとは思っていたが、そのうちいつの間にかその美人と付き合っていることになっていて、いつの間にか週末を二人で過ごす仲になっていて、そうして彼女の卒業と同時に気が付いたら結婚してしまっていた。
 ゾロはもともとロボットに深い興味をもっていて、自作も何体も持っていたが、ロボット三原則に出会ったことで研究対象が決定的なものとなった。「ロボット三原則の盲点」はそのころ書かれたゾロの論文の一つであるが、それが世間に出回ることで世情に不安を与えることになりかねない、として公式の場には発表されなかった。しかし学者達の間でこっそり目にした者は例外なく、ゾロの底知れぬ才能に背筋を凍らせたのである。
 ゾロは大学卒業後、請われてそのまま研究室に残りロボットの更なる可能性について研究を重ねていった。まだまだロボット工学は未熟な分野であり、その中でゾロはあっという間に頭角を表わしてきた。そうして有名な『ロロノアプログラム』が発表されたのである。
 それからのゾロの生活は天地がひっくり返ったような忙しさとなった。今まででも研究が押し詰まるとそのまま研究室に何日も泊まり込むことがあったが、それに加えて、講演だのテレビCMだの、対談だの、今までの生活にはなかったあれやこれやが加味されて、さらに特許弁理士を通じてロボット製作会社との交渉や顧問料の支払いなどの細々したやりとりもしなくてはならなかった。
 今朝もまたそれらの「研究以外の余計な面倒事」のスケジュールを頭の中に思い描き、いつになったら研究だけしていればいいようになるのか、とため息をひとつついた。昨日会った男も突拍子もないことをゾロに意見してきて、正直うんざりした気分が抜けきれていなかった。

「あなた、今日は早く帰ってこられる? ちょっとお話したいことがあるの」
 ゾロのおざなりのキスを受けたまま、アレキサンドラは表情を崩さずに言葉を続けた。
「そうだな…君がそう言うなら、努力するよ」
 新しい論理回路をテストするのは明日にするか…。ビルの奴に昨日のあのクソったれ野郎とは二度とアポを取り次ぐなと言っておかないと。ああ、アサダに依頼した設計技師の手配も確認しておかなくては。あれはいつ頃と言ってたか?
 アレキサンドラは目を伏せ微かにため息をついた。ゾロは普段は気付かないのに、その時だけは何故だか妻の常とは違う雰囲気に眉を寄せた。
「何だ? どうした?」
「いいえ……同じ家に住んでいながら、話をするためにわざわざアポイントメントをとらなくてはならないんだなあってことに気がついただけよ…。さ、もう行かないといけないのでしょう? 早く行って早く帰って来てちょうだい。でも無理しないでね」
 無理に微笑んだ顔はそれでも美しく、ゾロは何も言えずにもう一度妻を抱きしめて唇を触れさせると、「すまん」とだけ言って家を出て行った。アレキサンドラの唇は冷たかった。
 妻に多少寂しい思いをさせていることは自覚していて、淡い悔悟の念も常につきまとっていたが、家を背後にして車に乗り込むころにはすぐに新しい論理回路のことで頭が一杯になっていた。

 ゾロがその日、多忙なスケジュールをこなして帰路についたのは夜中の一時を回ったころであった。ガレージに車を入れ、玄関ドアを開けたときに今朝家を出たときに交わした妻とのやりとりを思い出した。慌てて家の中にアレキサンドラの姿を探すが、この時間では既に眠っているだろうと思いなおして足音を潜めてそうっとベッドにもぐり込む。しかしながら、広いベッドの反対端にはそこで寝息を立てている筈の妻の身体はなく、シーツが冷たく閉じているだけだった。
「──?」
 さすがにこんな深夜にどこへ行ったのかと不審を覚えて、ゾロはシーツを跳ね上げた。寝入るのは人に誇れるほど早いが目が覚めるのも早い。
 手元のリモコンを操作すると部屋が一気に光を溢れさせ、ゾロは目をしばたたく。白く染まった部屋の反対側の椅子にアレキサンドラが彫像のように腰掛けていた。彼女はゾロを見ていた。なんと今まで真っ暗な中、じっと座ってゾロを待っていたというのだろうか。
「…どうした? そんなところに居るなんて」
 ゾロは妻の常にない雰囲気を嗅ぎとって用心深く声をかける。そうっと近づいてアレキサンドラの目の前に立った。
 彼女は見上げるような恰好になったが、ゾロの顔を直視しながら平坦な声で言った。
「私たち、もう別れましょう」
「───!?」
「もう無理。あなたにとって私は単なるお飾りにしかすぎないわ。最初からあなたに近づいたのは私。あちこち誘って連れ出したのも私。優しいあなたはそんな私に付き合って、結婚までしてくれたけど、それは私を愛してくれていたからじゃあなくて、単に便利なだけだっただけ。都合がよかったの。私も学内での有名人と付き合っているのは結構自慢だったけれど。でも私にもプライドはあるわ。私を見ていない人を追いかけ続けるのはもう正直疲れたの」
「サンドラ…、サンディ」
「…そう呼ばれるのは随分久しぶりだこと。最近ではあなたは私の名前すら失念してしまったのかと思っていたわ」
「そんな、そんなことない、俺は」
 何を言いたいのか、何を言うべきなのかわからない。それどころか一体何が起こっているのかもわからない。
「本当はこんな話をしたかったわけじゃあなかったわ。まだあなたは私のことを気に掛けてくれているんだと思いたかった。ねぇ、今日が何の日か覚えている? ──私たちの結婚記念日だったのよ。もう昨日になってしまったけれど。きっとあなたは今日ぐらいは早く帰ってきてくれて、昔の話とか楽しかったことをいろいろ話して、そうすれば私もあなたが私を愛してくれているんだ、と幻想を抱いていられたでしょうに。
 だけれども、ここであなたをじっと待っているうちに──真実が見えてきた。あなたは私を愛していない。昔も今もこれっぽっちも。だから、私たち、もう別れましょう」
「待って! 待ってくれ、それはあまりにも唐突すぎる、せめて──」
「せめてどれだけ待てばいいの? 私はもう充分すぎるほど待ち続けたわ。あなたが私を正面から見てくれるまで。そうね、あなたがこの話に混乱するのはしょうがないと思う。あとで離婚届は送りますから、サインをして弁護士に渡してちょうだい」
 ゾロは反論しようと試みたが、口を開けただけで何も言えないまままた閉じざるを得なかった。何故か。ゾロもまた彼女の言うことが真実だと知っていたからである。
「さようなら」
 ゾロの沈黙を肯定と受け取って、アレキサンドラは寝室を出て行った。少ししてガレージから車が発進する音が微かに空気を震わせて、そしてまた何もない静寂が訪れた。





「ロロノアさん!!」
「ロロノアさん!!」
 何だ。煩い。一体誰がドアを叩いているんだ。玄関ドアにはチャイムがついているのに。ああ、さっきから鳴っているのはこれだったか。
 放っておいてくれないか。俺ぁ昨晩妻に愛想をつかされ、逃げられた哀れな男なんだ。仕事? 研究? そんなものクソ食らえだ。フラレ男は放っておいてやるってのが人情ってモンだぜ。

「ロロノアさん!! いないんですか? 返事をしてください!! 奥様が!!」
 がばっと起きあがる。サンドラが何だって? 
 ベッドから玄関までどうやって行ったのか覚えていない。すぐ目の前に見知らぬ男が息を切らせて立っていた。
「ロロノアさん──どうか落ち着いて聞いてください。奥様が──亡くなられました」





 葬儀の間はこれまた忙しかった。会葬客の相手をしなくてはならず、またどこからこんなに見知らぬ人がやってきて俺に向かって「ご愁傷さまです」なんて心にもないことを言うのかまったく解らなかった。多分サンドラの知り合いなのだろう、と思うことにした。でなければ自分みたいなつきあいの悪い人間にこんなに弔問を言いにやってくる人がいるわけがない。彼女の関係者ならば特に失礼のないようにせねば。

 アレキサンドラは夜道を飛ばしすぎて、カーブでハンドルを切り損ねたのだそうだ。常に冷静な彼女らしくない、と彼女を直接知っている人々は口を揃えてそう評した。そうだ、サンドラはいつも冷静だった。あの夜も。
 ゾロはサンドラが最後まで怒鳴りもせず、声を荒げもしなかったことを思い出す。彼女は泣いていたんだろうか? 記憶にない。だが彼女はとてもプライドが高い女性だ。泣いて取り縋(とりすが)るなんてことはとうてい耐えられないだろう。それよりは冷静に、無表情に通告を突きつけるほうがよっぽど彼女らしい。
 くく、とゾロの喉の奥が鳴った。
 本当に最後の最後まで「らしい」を貫いたってのはすげぇ。ただ運転ミスで逝っちまったのはいただけねぇなあ──。
 ゾロはサンドラの死に顔は見ていなかった。残念ながら頭から突っ込んだせいで遺体の損傷が激しかったらしい。最後はどんな顔をして逝ったのか知らないままでいられたことをゾロは感謝した。

 葬儀を終えてようやく家に戻ったところへ、見知らぬ男がゾロを訪ねてきた。
 ダークスーツは一応身内を亡くしたばかりのゾロを気遣ってのものだろう。過去に会った記憶もないが、このところ葬儀関係で初めて会う人間ばかり応対していたので、このときもまたパターンと化した挨拶を繰り返した。
 男は自己紹介した後で、職業を監察医だと名乗った。
「交通事故なので検視だけで済ませることもできたのですが、ただ状況が状況なので、何か薬物反応などが出ないか確認するために簡単に司法解剖を施したことはお聞き及びと思います」
 リビングに通され、ソファに腰掛けるや男は前置きもなく話し出した。
「ああ、だが死因に不穏なものは何も出なかったと聞いていますが。単純なスピードオーバーによる運転ミスということだと」
「はい、それは確かにその通りです。その点について新たに問題を提唱するつもりは全くございません。私が本日こちらへうかがったのは」
 そこで男は初めて言いよどんで視線をゾロからはずした。
「──?」
 ゾロは黙ったまま男の次の言葉を待った。何がこの男の口から出ようと、サンドラは死んでしまったのだ。聞いても聞かなくても今更サンドラが戻ってくるわけではない。
「──お伝えするべきかどうか、正直迷いました。もしかして奥様だけが知っていた可能性、おふたりとも知っていた可能性、またもしくはおふたりとも知らなかった可能性を考えて、このまま書類の上だけに記して終わりにしようと何度も思ったのですが」
「何をおっしゃりたいのでしょう」
 奥歯にモノが挟まったかのような言いようにさすがにゾロは苛々し始めていた。元々気が長いほうではない。さっさと言いたいことを言って、俺を一人にさせてくれ。
 男はここに至ってまだ迷いを捨てきれない様子で、しかしゾロの強い視線に促されてようやく口を開いた。
「奥様は妊娠していらっしゃいました。胎児はまだ二ヶ月程度でしたが…──お悔やみを申し上げます」

 監察医へどう答えたのかはわからない。男は何やらまだいろいろなことを話していたようだが、ゾロは適当に相づちを打つだけで、内容は一言も頭に入ってこなかった。適当にあしらった後、ようやく一人になれてからゾロは頭の中をぐるぐる回る言葉の意味を考えた。
 サンドラが妊娠していた──? 彼女は新しい命を宿していた、ということなのか──?
 そのことを彼女は知っていたのだろうか。それが理由でゾロとの別れ話を切り出したのか?

 ゾロの子供である筈がなかった。何故ならここのところ何ヶ月もサンドラとは肌を合わせていなかったからだ。広いベッドの端と端で、手を伸ばせば届く筈の距離を詰めることもなく、互いの体温を感じることもなかった。
 ならば、一体誰の子供か──。
 混乱する頭を抱えて、考えに考えた。サンドラはゾロの愛が欲しかったと言い、それをどうやっても得られないからと別れていったはずなのに。彼女の真意はどこにあったのだろうか。わからない。
 少し離れてお互い頭を冷やせば、やはり彼女も自分も互いが必要だと判るのではないか、と考えていたのに。
 彼女は俺を裏切っていたのか。あの美しい顔の裏で。綺麗にカーブを描くあの唇で、ゾロの愛が手に入らないと責めたあの時すでに俺を裏切っていたのか。
 ゾロは終わりのない思考の螺旋をいつまでもいつまでも辿っていた。





 

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