こちらのプルダウンボックスで読みやすいスタイルをお選び下さい。





永遠より長く無限より短い一瞬(6)

 





 その日は結局明るいうちから大いに酒を飲んでは学生時代の思い出話ばかりして残りの時間を過ごした。エースはなぜかサンジのことをいたく気に入り、最後は傍に座らせては「オレの酌が飲めねえってのかー」だの「こら、ロボットだからといってひとりで落ち着き払ってるんじゃねぇ」だの「お前も飲め。酔ってこんなアホウマリモのことなんか忘れてオレについてこーい」だの、散々に絡みまくった。
 サンジはさすがにこういった事態は初めてだったので、どう対応してよいかわからずに半分硬直してはゾロの指示を仰ごうと「マスター」と繰り返していた。しかしゾロは酒のせいもありエースという久しぶりに気の置けない相手がいることもあって、ただニヤニヤとサンジの困った様子を見て楽しんでいた。どのみちサンジがどのような反応を返そうとも、二人は全く意に返さずに全て酒の肴にしていたのだが。

 翌朝エースが痛む頭を抱えてゾロの家を辞去し、ゾロもまた「起こすな」とだけサンジに言いつけてベッドルームへUターンした後、サンジはひとりでいつもの仕事にとりかかった。
 まずリビングとゲストルームを片づけ、エースが暴れたせいで動いてしまった家具類を元の位置に戻し、家中にクリーナーをかけ、リネン類を洗濯し、バスルームを磨いた。その後庭に出て花々に水をやり、庭木を見て回って剪定が必要なものについては今度必要な道具を買ってもいいかどうかマスターに尋ねなければ、とメモリに記憶する。
 リビングの外にはバラの生け垣があった。サンジがこの家にやって来たときには病気にかかり、ほとんど枯れかかっていたが、サンジが病気の枝葉を取り払い、毎日肥料をやったり虫をとったりとまめに世話をしたのが効を奏して、今ではすっかり元気を取り戻し、蕾が大きく膨らんでいる。
 ひととおり全ての仕事を終えた後、ゾロの様子を部屋の外から窺って規則正しい寝息がするのを確認し、サンジはキッチンの隅にある端末の前にやってきた。
 この端末は日用品や食料などの配送注文や、ゾロのスケジュール調整のためにサンジが使っているものである。サンジは端末を起動させると、白く細い指をキーボードの上に走らせ、異常なほどのスピードで次から次へと画面を切り変えては流れる文字列を追った。

 そのまま数時間が過ぎた。いつの間にか午後の日差しがゆっくりと傾いてきたころ、真っ直ぐ伸びた背中がゆらりと揺れ、身体ごとゆっくりと振り返る。いつの間にかゾロがそこに立ってサンジを見ていた。

「……何をしている……」

 サンジはゾロの剣呑な様子に気がつかない、か、気にもかけない様子で淡々と答える。
「マスターの記憶が無くなるきっかけとなった過去のニュースを検索しておりました。たった今見つけたところです」
 ゾロの身体がぐらりと揺れた。
「……!! なんでそんな余計なことを!」
「マスターが記憶を探るおつもりのようでしたので、お役に立てばと」
「それが余計なことだって言ってんだ!! 俺の許可なく俺の過去をこそこそ暴くような真似するんじゃねぇ! そもそもお前はそんな過去の事件までさかのぼれるアクセス権はねぇだろう」
「お気に障ったのでしたら申し訳ございません。方法としましては警察の当時の記録にアクセスしました」
「法を侵すのは禁じられているはずだ」
「別段法律で禁じられているわけではありません。警察の記録自体にはアクセスできませんが、そのタイトルまでは閲覧可能でした。それと、当時の新聞記事は全く禁止事項ではありませんでした」
 そっとサンジは身体を脇にずらして、端末の画面をゾロにも見えるようにした。そこに映っていた文字は、おそらく当時の新聞見出しそのままだろう。太字で強調されたタイトル群は毒々しくゾロの目に突き刺さってきた。

『実の母親が我が子を手にかける!』
『精神異常か? 腹を痛めた子供を虐待の末、絞首』
『紙一重の生還! あわや窒息死』
『衰弱激しい体、実母の指のあとがくっきり』

「マスター、あなたが夢に見るという白い腕はあなたのお母様であることが判りました。あなたは幼い頃、お母様に首を絞められ殺されかけるといった体験をした。それが今夢の中で腕に追いかけられるという形で思い出しかけていると思われます」
 
 その途端、ゾロの脳裏に封じられていた記憶が洪水のような勢いで湧き起こった。
 恐怖。恐怖と生存への本能。
 生きるための本能は、どんなに酷い扱いをされようとも目の前の親に縋るしかなく、殴られ、蹴られる痛さと怖さを必死で無視することが幼いゾロの世界の毎日だった。
 飢えは常に身体の内にあり、ゾロはもう慣れっこになっていたが、痛さや寒さは無視するには難しかった。何をどうしても毎日殴られるので、出来る限り部屋の隅で小さくなって目につかないように蹲っているのが常だった。それでも「彼女」の機嫌が悪ければ引きずり出されて殴られる。酷いときには煙草の火を押しつけられた。あまりの痛さに泣き声をあげると、ウルサイとまた殴られた。
 ある時などは酷く腹を蹴られ、暫く血の混じったおしっこが止まらなくて、怖くて怖くて眠ることもできなかった。
 それなのに、たまに、ごくごくたまに「彼女」はゾロをぎゅっと抱きしめて、小さな頭を抱えたまま眠ることがあった。
 幼いゾロは飢えと恐怖のただなかで、気まぐれに与えられる「愛情のようなもの」に縋って、ただ毎日を生きていたのである。
 そして。
 それはもう何故そうなったのか理由はわからない。
「彼女」はもう気まぐれにでもゾロに愛情のカケラを与えることを不要と判断して、その小さく細い首を締めたのだ。それはもうニワトリを絞め殺すがごとく簡単にできたことだったろう。小さく、衰弱しきった体は抵抗のしようもなく、ただ弱弱しくあがいていたはずだ。もう少し腕の力が強かったならば窒息する前に首の骨が折れて全て終わりになっていたかもしれない。一体何が起こって助かったのかは呼び起こされた記憶の中にもなかった。あとはただぼんやりと霞んでいて、次の記憶はゾロがエースに語った養父母との出会いの時となる。


「──────!」
 ゾロはその時の感触をなぞるかのように、ゆっくりと手をあげ指先を自分の首にあてた。何十年も経ているというのに、まだそこに締められた痕跡がのこっているような気持になり、おそるおそる皮膚をなぞる。
 ごくり、と喉が鳴った。
『お前なんか、生まれてこなければよかったのに』
『お前がいるからいけないんだ』
『辛気くさいツラしやがって』
『ああ、わたしは──』
 なんて不幸なんだろう、なんて哀しいンだろう、誰も助けてはくれないの、それもこれもコイツのせいで───。
 そうだ、あの時「彼女」はそう言っていた。幼いゾロは恐怖と諦めとが交互に身体を支配している中でそれを聞いたのだった。

 その時、ゾロの喉の奥から低いうなり声が出てきて、それは段々に音量をあげ、家中を揺るがすほどの咆吼となった。
「……ぉぉぉおおおおおおおおおっっっっ!!」
「マスター? ご気分が──」
 サンジが声をかけようとしたところを、ゾロがその顔面に肘を叩きつける。ロボットとはいえ見かけは完全に人間を模したサンジはたちまちバランスを失って後ろにすっ飛んで、強かに食器棚に背を打ち付けた。その勢いで中の食器が派手に音を立てながらサンジの上に降り注ぐ。
 ゾロは端末用の椅子をがっしと掴むと、その椅子でもってそこら中を破壊し始めた。床は食器の破片が飛び散ってすでに酷い有様だったが、そこへ壊れた端末がコードを引きながら飛んでゆき、飛んでいった先で窓ガラスを割り、ゾロが振り回した椅子も破片をまき散らし、壁紙はやぶれ、調理器具はひしゃげ、冷蔵庫も大きく床を響かせながら転がった。
 さながら阿鼻叫喚の図。一体これほどの破壊衝動が普段モニタと端末ばかり相手にしている人間のどこにあったというのか。
 割れた食器か何かが飛んできたのだろう、ゾロの額からは血が流れ、だらだらと頬を伝って衿を赤く染めていた。
「マス、ター……。怪我をします。おやめください」
 第一原則に従って、サンジはゾロの血を見るとすぐに抑制の言葉を発した。ロボットは人間の危機を見過ごすことはできないからだ。声をかけるだけではなく、ゾロを抑えようと手を伸ばす。しかしゾロはサンジの手首をひっつかむと、ひとまとめにしてだん!とサンジの身体ごと床に叩きつけた。
「マスター、何を」
「るせえ。黙ってろ」
 命令に従ってサンジは口を閉じた。ゾロの身に危害が及ばない限りは、第二原則が効力を発して命令に従う。

 ゾロの胸の中は暴風が吹き荒れていた。ねっとりとした闇に浮かぶ白い腕は何重にもゾロを囲んで絡め取ろうとしている。大昔にゾロの首を絞めた「母親」。奇妙なことにゾロは彼女の顔はどうしても思い出せなかった。
 ただ声が。『お前がいなければ』という声ががんがんとこだまする。
 ウルサイ。
 気がつくと、母親の顔の部分はアレキサンドラになっていた。その顔で言う。
『あなたは私を愛していないのよ』
 ああそうか。俺は愛することができないんだ。だって愛するってどうすればいいかわからない。
『私の赤ちゃんを殺したのはあなたよ』
 ほら、とアレキサンドラが腕の中に抱えた赤ん坊を突きつける。その子供はゾロの顔をしていた。

 女は。
 わからねぇ。産む性のくせに、産んで、そして殺すのか。
『愛なんてなくて結構』
 これはどちらが言ったのか。
 そして、闇──────。







 

(5) <<  >> (7)