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永遠より長く無限より短い一瞬(18)







 夢を見ていた。

 これはいつだっただろう。まだ俺がサンジに複雑なプログラミングを載せる前の話しだ。確かどこか海辺の地方の講演を依頼されて出かけたときだった。
 講演会が無事終わり、あとは帰るだけとなっていたが、主役である俺、ドクター・ロロノアを囲んでのレセプションが開かれた。
 地方の名士やらに囲まれて似たような褒め言葉におざなりに返すのが退屈になってきたので、サンジだけについてこいと囁き、そろりと抜け出した。適当にタクシーに乗って夕陽が綺麗に見えた場所で降りた。波打ち際を歩きながらなんとなく始まった会話は退屈を紛らわすためのものだった。

『お前は何でもできるくせに、何も知らねぇんだな』
『汎用データでしたらかなり広範囲に渡って保存しております。私のデータ保存用メモリは───』
『んなことじゃねぇ。自分で、実際に体験したことが少ねえだろってことだ。ネットワーク上からダウンロードしてきた他人の言葉なんてものは、二次情報にすぎねぇ。自分でじかに体験して、感じて、それを自分だけの記憶として抱えて生きていくモンなんだよ、人間ってのは』
『データをシェアすることはないのですか』
『知識を伝えあうことはするさ、もちろん。そういう意味じゃなくてだな、何かを見たり聞いたりするだろ、そのとき『何を感じたか』『どう思ったのか』という心の動きは簡単にデータ化することはできないのさ。だから他の人と分かち合うことは難しい』
 アイツは俺の言葉を噛みしめるように黙って聞いていた。
『芸術家はその感情を作品という形に変えて他人に伝えようとするな。絵画とか音楽とか、歌とか。だけどその時その人間が感じたことは、全くそのとおりには伝わらない。多分唯一、一番近しい者どうしが、同じ景色を見、同じ音を聴いたら、同じような感情を持つことができるんじゃないか、と思う』
『憎しみも、また感情のひとつだ。哀しみも、怒りも。そういった負の感情すら我々は全て抱えて生きてゆく』
 ぽつりぽつりと俺は言葉を紡いだ。サンジは黙って聞いていた。すでに俺の意識からサンジは消えて、ただ独り、波打ち際で思索に耽った。

 ざざん、ざざん、と繰り返す音が耳に心地よい。
(アレキサンドラ、お前は俺に本当は何を求めていたんだ──?)
(こんな半分壊れたような俺を、それでも少しは愛してくれていたか──?)
 疑問は疑問のまま、解けることはなかったけれども。
 繰り返し砂を洗う波の音に、俺はひどく穏やかな心持ちになって、ずっと自分の奥にあった固いしこりがすこしづつほぐれて小さく消えてゆくような気がした。

 空はいつの間にか茜色に染まり、真紅の太陽が周囲のピンクと朱色をひきつれて沈むにつれ、深い藍、群青、コバルトブルーへと段々に空の色が変化する。
 水平線の彼方に視線を固定したまま俺は言った。
『なあ、世界って、』
 ぽつり、と。
『すごく綺麗なんだな』
 返事などはまるきり期待せず、ただそのときそう思ったからそう言ったのだが、それに応える声がした。
 静かに、波の音すらかなわぬほど静かに。
『はい、そう──思います』





 ああ、夢を見ている、ゾロはそう思いながら目が醒めた。ゆっくりと覚醒したせいか、夢の内容を細部まで思い出すことができ、同時に今まで欠片も思い出しもしなかった過去を夢の中でくっきりと思い出したことに驚く。人間の脳のメカニズムは本当に不可思議だ。
 夢の内容にもかなり心を引きずられつつも、脳の機能の解明にはまだまだ先が長いことに軽くため息をつく。
 
 世界中を震撼させた宇宙ステーションのテロ事件から四十九年。既に事件はニュースではなく歴史となっていた。来年にはちょうど五十年を迎えるとのことで、当時の生存者が現在どのような生活をしているかといったノンフィクション特集番組のため、ゾロもインタビューを受けたところだ。多分そのせいで夢を見たのだろう。
 五十年前、ゾロはオルビアから得たデータで、サンジを乗せたシャトルはまた地球の軌道付近まで戻ってくると判明したときは、長く暗いトンネルの先に見た一条の光のように感じたものだ。ただそのトンネルはゾロが思っていたよりは遙かに長いものだったが。
 それからのゾロは、今までより一層熱心に研究に没頭した。かといって「サンジが戻るまでに自分が生存していない可能性」を忘れているわけでもなければ、単にサンジのことをもうなかったことと自分の中から切り離したわけでもなかった。

「おい、今度のは大丈夫なんだろうな」
「ええ、何度もテストして確かめたわ」
「そっか、じゃああと三分後に初めてくれ」
「わかったわ」
 ゾロは背後の黒髪の背の高い女性を少しだけ長く見つめると正面のモニタに視線を戻した。
 赤ン坊だったロビンがオルビアに抱かれてゾロのこの家に初めてやって来てからどれくらい経つだろう。ニコ・オルビアは最初に会ったときから気の強い女だとは思っていたが、さすがのゾロもロビンを抱くオルビアに話しを聞いて「そこまでやるとは思ってもみなかったぜ」と苦笑めいた感想を漏らしたのだった。

 オルビアはロビンを自身のクローニングによって誕生させたのだ。
 人間のクローニングは倫理的な問題で未だに法律で禁止されている。しかし遺伝子工学、生物情報学がもともと専門だったオルビアにとって、精子ドナーから精子を提供されて生み出すより、自分で創り上げたほうが安全だったということなのか。
 理由はゾロにもわからない。ただ、オルビアはゾロにロビンの後見人になってほしい、と頭を下げたのだった。ゾロを選んだ理由は、多分自分と同じような思考の持ち主であるからだろう。世間一般の基準と、オルビアやゾロの基準とはかなり隔たりがあったのだった。──命、というものに対して。
 クローニングによって生み出された命ということで拒否反応を示す人間がいる可能性を慮ってのことだ。もちろん可能な限り隠蔽工作はしているけれどね、とオルビアは目尻にできた皺を歪ませて笑った。
 ロビンが誕生した時すでにオルビアは五十歳を超えていただろう。初めて会った時は気付かなかったが、オルビアの指には結婚指輪が光っていた。が、その後何度か会ったりヴィジフォンで話をしている時も、夫や家族についての話題がオルビアから出ることはなかったので、ゾロも敢えて何も言わなかった。
 それが久しぶりにやって来た時には赤ん坊を腕に抱いて、その子供の後見人となることをねだったのである。
 多分、オルビアはその時すでに自分が長くないことを悟っていたのだろう。ロビンが十五歳になった時、オルビアはあっけなく逝った。

 オルビアの葬式は質素なものだった。研究室の同僚や上司がほとんどで、親類縁者はなく、ロビンひとりが肉親であった。ロビンはオルビアに連れられてちょくちょくゾロには会っていたし、最初から何かあったら頼りなさいと言い含められていたので、葬式もゾロが一切を取り仕切るのに任せきっていた。
 葬式が済み、一段落ついたところでゾロは今後どうするかをロビンと相談したところ、母親と同じ切れ長の黒い瞳を真っ直ぐにゾロに向け、学ぶことを続けたいとだけ告げた。
 その後全寮制のハイスクールからカレッジへ進み、それも飛び級を何度もしたため若干二十歳で大学の修士課程まで修了してしまい、そのあたりから週末にはゾロの研究室へ来てはゾロを手伝うようになった。
 ロビンは遺伝子上ではオルビアと全く同じであったため、容姿は完全にオルビアと一緒といってよかったが、ただ髪の毛がつやつやと濡れたように黒かった。いや、それはオルビアの髪がもともとその色だったということなのだろう。オルビアの髪はプラチナブロンド──というか白髪だったので。
 その一点を除けば確かにロビン=オルビアと言ってもよかったが、ゾロは別にそのことがなくてもロビンとオルビアを同一視することもなければ、ロビンにオルビアを重ねることもなかった。やはりロビンは彼女だけの生を生きてきて、その経験によって性格も言動も「ニコ・ロビン」という個を確立させているからに他ならない。ゾロはロビンの誕生の経緯がどうだったか、彼女の遺伝子がどうであるのかということには知っていてもそこは拘らなかった。ゾロのそういう性格を見越してオルビアは彼にロビンを頼むと頭を下げたのだった。
 ゾロとロビンの関係は法的には後見人と被後見人ではあったが、彼女がゾロの研究を手伝うようになってからは同じテーマを追う研究者として、徐々に博士とその助手、そしてロビンが幼い頃から垣間見せていた学問の才を開花させてからは同僚に近いものに変化してきた。いつしかゾロと対等に意見を交わし合うようになったとき、ゾロは自分達の関係をひとことでいうならば「共犯者」という言葉が一番的を得ている、と思った。

 このころゾロはすでに八十歳を越えていた。高齢化が進む社会でそれは別段珍しい年齢でもなかったが、さすがに「若い」とは言えない年だった。だがゾロは目尻や口元に隠しようがない年齢を刻んではいたが、上背はピンと伸び、動作もきびきびしていて、せいぜい五十代くらいにしか見えない。肌も、若者のように瑞々しくはないが、なめし革のように張りがあった。これもクローニング技術の一環で、細胞活性化措置を受けているからだった。この技術は当初は「これこそ究極の若返り方法!」といったふれこみで怪しげに取り沙汰されたものの、一たびその効果が確認されると爆発的に広まって、今では誰しもが気軽に受けられる技術となって世間に定着した──金額が膨大にかかることを除いては。
 ゾロはそしてそれだけの大金を気軽に支払うことができるひとりで、すでにこれまで何度も施術を受けていた。

 今もゾロは相変わらず大きくてごつい手を器用に端末の上に走らせながらロビンに指示を出していた。「限りなく人間に近い感情を持ったロボット」は既にゾロの研究テーマではない。サンジという完成品を、それと気付くことなく手元から失ってしまったことで、再度同じものを作り出す気力も興味もゾロから完全に失われてしまったのだ。
 その後ずっと何十年もゾロは一から始めた研究に時間と資金と己の能力を費やしていた。今までとった特許と、時折手慰みに組み上げるプログラムとでおつりが充分にくるくらい生活にはゆとりがあった。いや、余計な遊興などで使わない分、黙っていても口座に預金は貯まってゆく一方だった。
 ロビンの学費や生活費はオルビアが充分以上に遺していたし、このごろはロビン自身も何やら学生のネットワークを介して少しづつ小金を稼ぐ術も身につけたようだった。その点、幼いころからオルビアにつき従って大人社会の中で生きてきた分、したたかであったのだろう。母ひとり子ひとりで、それも聡明に生まれついて同じ知性を持ったものが向き合った生活は、多分日常会話も高度なものだったかもしれない。しかしそこに愛情が伴っていなかったとはゾロは欠片も思ってはいなかった。オルビアがロビンを連れてゾロを訪問した時に、オルビアがロビンに向ける言葉は少ないものの、そっと肩や髪をなでる手は優しく、幼い娘を見る眼差しは暖かかったのを見ていたからだ。

 ロビンを振り返ってひとつ頷くと、実験がスタートした。小さなマウスが台の上に留められている。そこから伸びる何本もの極細のケーブル。それは途中から太さを変え、いくつもの中継器(リレー)を経て脇のコンピュータへと繋がっていた。
 マウスがぴくぴく、と痙攣する。眼前に浮かぶいくつもの三次元モニターを素早い視線で同時に眺めながらゾロの両手はもの凄い勢いで端末の上を走っていた。
「────ッ!」
 突然モニタを流れてゆく数式のスピードが落ち、途切れた。不審に眉をひそめたロビンが見やるとゾロの手が停まっている。
「博士、どうし──」
 呼びかけたロビンはゾロが左手で右手を押さえているのに気付いた。ゾロの顔を見ると蒼白になって額に脂汗を浮かべている。
「ロビン……とうとうきやがった……」
 ゾロは息を殺しながら囁くような低い声で言った。
「腕が……動かねぇ」





 

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