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竜の覇者(12)




「──間隙に入るときは以上の注意が必要だ。必ず、行き先のしっかりとした風景を隅々まで竜に伝えること。そのためには風景を普段からしっかり記憶にとどめておくことだ。それを怠ると、間隙に入ったまま、出てこられなくなってしまう。そういう事故はここ百年がたは起こっていないが、さらに過去には事例がある。最近起こらなかったと言っても、それは今が安全だという保証ではないからな。ほらそこ! ちゃんと聞いているのか! よそ見をするんじゃない! クリュウ、おまえだ、俺が何を言ったか繰り返してみろ」
 指さされた少年はのろのろと地面から腰を上げて竜児ノ騎士ノ長へと気まずい視線を送った。
 そうして、つかえつかえ、彼が言った注意を繰り返す。何度も耳にたこが出来るくらい聞かされているので、一回くらい聞かなくても内容を言うことは出来た。
「…まあよし、しかし俺が話しているときには俺の方を見て、しっかり口を閉ざしていろ。いいか、ただ飛ぶだけならそんなに難しいことはないが、この空は君たちひとりが専有しているわけじゃない。糸胞と戦うときは小隊ごとに飛ぶし、他の大厳洞にだって当然竜がいるんだからな」
 小言を言いながら、ちらとヤソップは注意した少年ではなく、少年がよそ見をしていた先を窺った。そこには黄金竜とサンジが他の竜と竜児ノ騎士たちと同じように神妙に座ってヤソップのほうを注目していた。
(また、サンジか)
 実際、ヤソップは頭が痛い。この期の竜児ノ騎士たちは、黄金竜とサンジが一緒ということでどうしても気持ちがそちらへ逸れていきがちだ。
 初日はそれこそ大変だった。注目を浴びすぎてラティエスが威嚇の鳴き声を上げたため、関係ない他の成竜と竜騎士がそっと様子を見に近くまで降りてきたくらいだった。
 確かにここ何年も黄金竜は生まれていなかったため、久々の女王に大厳洞じゅうが浮き足だっているのは理解できるが──否、喜びと歓迎でそわそわしているの半分、あとは不安と疑念でじりじりしているのが残り半分といったところだ。
(サンジとラティエスにもあまりありがたい状況とは言えないしなあ)
 実際よくやってるとヤソップは思う。あれだけ陰でこそこそひそひそ噂されて、気にならないわけはない。しかしサンジはほとんどの時間口をきゅっと閉じて、世界にはラティエスとヤソップしかいないように振る舞っていた。
 しかしそれでは、ひとりで飛んでいるのと同じことだし、竜同士の連携も教練が進めばいずれ覚えていかねばならない。
 これでは、他の竜児ノ騎士たちにもサンジ自身にもあまりよい結果をもたらさないだろうと思えて、経験豊富な竜児ノ騎士ノ長であるヤソップは長い職責の上で初めてのケースに途方に暮れた。
(後で洞母に相談してみよう)
 とりあえず今現在の状況に注意を戻して、また声を張り上げた。
「いいか、おまえたち──」

 一日の訓練が終わって、サンジとラティエスはゆっくりと与えられた岩室へと向かっていた。ラティエスの水浴びも済ませ、餌もたらふくお腹に入れた後だったので、複眼がゆっくりと回っていかにも眠そうだ。
「疲れた?」
(ホンノ少シダケ。今ハ早ク横ニナッテ眠リタイワ。オ腹モイッパイダシ。さんじノホウガ疲レテイルデショ。アナタモ一緒ニ水浴ビスレバヨカッタノニ)
 ゆったりと満足げな思考がサンジに届けられる。サンジは軽く苦笑した。
「お嬢さん。その提案は魅力的だけど、俺にとってまだあの湖の水はちょいと冷たすぎるな。君と一緒に、ってのはほんとそそられるんだけどね」
(ジャア、モット暖カクナッタラ?)
「そうだね。暑い夏なんかは気持ちいいだろうな。さ、着いた。おっと眠ってしまう前に油を塗ってあげるから、もう少しだけ協力してよ。寝ちゃうと下側に塗ってあげられないだろ?」
(ハヤクシテネ)
「はいはい」
 竜は皮膚を保護するために、身体を洗ったあとは油を塗っておく必要がある。冷たい間隙の中にしょっちゅう出入りするようになると、手入れを怠った場合、皮膚がぼろぼろとはげてしまうからだ。
 生まれたばかりの幼い竜は、それとは別の意味でしょっちゅう塗ってやらなければならなかった。卵から出たばかりの時は、背丈も幅もまだ小さく、伴侶の肩くらいまでしかなかったが、その後の成長が桁外れに早いから、皮膚の保護を怠ると、まだ柔らかい皮膚が引きつれを起こしてしまう。
(ア、ソコ、痒イノ)
 ラティエスもその例に漏れず、しょっちゅう痒みを訴えていた。成長に伴い、皮膚があとからあとから新しいものができてきて、古い皮膚が身体に残っているとそこが痒くなるのだ。だから毎日水浴びをさせ、その後油を塗ってあげるのが、まず竜の伴侶となった者が最初に覚えることだった。
 黄金竜は誕生から他の竜たちより体躯が1.5倍くらい大きかったが、これからどれだけ成長するのだろう。サンジは洞母ロビンのフルールスを思い出して、本当にあそこまで成長するとしたら、それには一体どれくらいの時がかかるのだろうと思った。
 ラティエスの身体じゅうすべて塗り終わって、サンジは一歩下がって満足げに検分した。黄金の皮膚が塗り込んだ油によってぴかぴかに光っている。
「綺麗だよ、お嬢さん」
 本当に綺麗だ。
 しかしその言葉に応えずに、ラティエスはすでに二重の瞼を両方とも下ろし、ゆったりとした寝息を立てていた。
 サンジはそっとラティエスの閉じた瞼に触れると、愛おしげにもう一度全身を眺めてから浴室へと向かった。

 サンジとラティエスに割り当てられた岩室には奥に浴室が併設されていた。しかしそれは特別なことではなく、ほぼすべての岩室が同じつくりになっている。
 自然の岩の造形を上手く利用して作られた浴槽は、手前の方が浅く、奥へ行くに従ってだんだんと深くなっていた。サンジは服を脱ぐと、天然の岩盤でできた棚に置き、ざぶざぶと浴槽へ入っていった。深い方へ行くと立っているだけで湯が首の上まで浸るくらいの深さがある。ラティエスの身体じゅうを磨いたことであちこちの筋肉が軽くこわばっていたので、ゆったりと熱い湯につかるとじんわりと身体じゅうにしみわたる気がした。
 体中の力を抜いて、浮力にまかせる。底の方から熱い湯があとからあとから湧いてでてくるのが足の裏にあたる感触でわかった。ぐうっと伸びをして、ふうとため息をつくと肩、腕、首を自分の手でもみほぐす。
 ふとその手をそのまま脇腹に沿わせ、そっと下方へ伸ばしかけてやめ、ぐっと自分で自分の両肩を抱いた。

 数日前のことだった。大厳洞ノ療法師と師補、そしてその後ろからシャンクスが珍しく複雑な表情でサンジのもとへとやってきたのである。
『悪ぃなぁ。どうにもこうにも頭の堅い人間がいてなぁ。ま、一度だけだから勘弁してやって?』
 シャンクスの言葉に一体全体何を自分に求めているのだろう、と目をぱちくりさせたのだったが、続く療法師の言葉に完全に言葉を失った。
『…あー、黄金竜を感合したということは、もしかしたら騎士の方が男児ではないのではないか、という意見が出てね。あり得ないとは思うし、私も君がここへ来た日から何度も診ているからそんなことはないと反論したのだが、見かけだけで判断できるものかという論争になって…。そういう訳だから、統領立ち会いのもとで一度きちんと白黒つけることになったのだよ。気分のいいものじゃないというのは重々承知だがね、少しの間協力して欲しい』
 何を始めるのかうっすらと理解はしたものの、サンジは感情がついていけずに後ずさった。と、背中がとん、と先回りしていた師補にあたって、この検査はサンジの意志はどうあれ、逃れられないのだと知った。
『い、いやだ。なに、なにを』
 サンジは身をひねって逃れようとしたが、両肩をがっちりと捕まえられて、背が高く筋肉質のその師補からはどうあっても逃げ出せなかった。きっとサンジがそうやって暴れるであろうことを見越して師補のうちでも一番力の強い者を連れてきたのに違いなかった。

 浴槽から出て、備え付けの椅子に座ると洗い砂をひとつかみとって、手のひらの中でこすり合わせて泡を立てる。あの後のことは正直思い出したくなかったが、こうやって独りでいる時にどうしてもあの屈辱と恥辱の一時が浮かび上がってきてサンジを悩ませるのだった。
 体中を洗い砂でごしごしとこすり立て、這い回る手の感触の記憶を拭い去ろうとする。一度ゆすいでまたこすり、二度三度と繰り返した。さすがに皮膚が赤く染まり、ひりひりしだしたのでまた浴槽に身体を沈めたが、さっきはあれほど気持ちのよかった熱い湯がぴりりと肌を刺した。

『悪かったな、いや、ホント』
 さすがのシャンクスも言葉にキレがなく、憮然とした面持ちでそそくさとサンジの岩室を後にしていった。療法師とシャンクスの声をひそめた会話がぐったりと寝台に身を横たえたサンジの耳に微かに聞こえていた。
『まだ十四巡歳だろう。心に傷を負わないといいが』
『うーん、気の毒とは思うが、これからまだまだ立ち向かわなきゃならんことが出てくるだろうしなあ。実際のところ傷ついている暇も──』
 遠ざかる声は呆然としたサンジの耳にはただの音としてしか届いていなかった。

「ちくしょう!」
 がつん、とこぶしを浴槽の縁に叩きつける。「ちくしょう! ちくしょう! くそったれ!」サンジは一体何に対して怒っているのかわからないまま、ただこみあげる怒りのやり場がわからず、こぶしを打ち付けた。滲む涙をぐいと痛めたこぶしでぬぐう。
 そのうちに、高ぶっていた感情が徐々に鎮(しず)まり、かくりと肩を落とす。ラティエスを起こしてしまうかもしれない。せっかくたくさん食べて気持ちよく昼寝しているというのに。
 ラティエスのくるくる輝く目を思い出すと、いつだって安らかな気持ちになれた。あの目に見つめられ、いつまでも色あせぬ愛情を確かめたい。それを思うとすべてのものがどうでもよくなってくる。今でも穏やかに眠るラティエスの存在を隣室に感じられて高ぶった自分をなだめた。


 

  

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