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竜の覇者(36)




「サンジがロビンを?」
 糸降りから戻ってみると、大厳洞は不穏な空気で満ちていた。ゾロは汗がこめかみから流れる不快さに顔をゆがめながら、騎乗帽をむしりとった。髪の毛がはりつくのが嫌なので、頭髪はもとから短く刈り込んである。
 そして聞かされたとんでもない出来事に、ゾロはますます顔をしかめた。
「そんなバカな話があるか!」
 一喝して、走り寄ってきた竜児ノ騎士にバシリスの騎乗帯を預け、早口で世話を言いつけるとどかどかと歩き出す。煤とホコリが汗で顔にはりつき、体中から硫化水素の臭いをまき散らしながら歩く様はよく見知っていてもぎょっとさせる雰囲気があった。
「ゾロ」
 不安げな声が後からかけられて、ぱっと振り向くと、マキノが腕で自分の身体を抱きしめるようにして立っていた。
 こんな時なのに、ゾロはマキノが随分小さくなった、と頭の隅で思った。
「サンジが…聞いたと思うけれど、ロビンを襲った容疑で拘束されてしまったの。あの子がそんなことする筈がないし、できる筈がなかったという事実を私は知ってる。だけどそれを言うことができないの」
 そしてさらにぎゅうと自身を掻き抱いた。まるで自分を縮めて小さく丸めてしまいたいというように。
「どういう意味だ? サンジには会えないのか? ヤツと話はしたのか」
「サンジは今、使っていない岩室のひとつに監禁されているわ。誰とも話をさせないように、って近づくことも許されないの…だ、大法廷が開かれるまで、って」
「なんだって」
「次席洞母が首位洞母を手にかけ、その地位を手っ取り早く手に入れようとした…そういうことになっているのよ」
「あり得ねえだろ、そんなことは!」
「そうよ、私とターリー師とシャンクスだけはそれを知っている。だけどシャンクスの言葉でない限り──ハキスの騎士である統領の言葉でない限り、サンジの不在証明(アリバイ)を確立するには皆を納得させるだけの強さがない…」
「じゃあ、シャンクスは何を」
「ただ眠っているだけよ。ただしフェリスの汁を飲物に混ぜてしまったからあとまる一日くらいは起きないわ」
「だけど、シャンクスが目覚めて証言してさえくれれば、サンジは解放される訳だな?」
 それがわかっているなら、一晩くらい不自由な思いをすることは我慢できるだろう。
「そう、サンジはそれでいいかもしれない。だけど、ゾロ、サンジは犯人でないのだから、誰がロビンを襲ったの? 皆サンジがやったと思っているからこの件は終わっていると思っている。だけど、真犯人がいるのよ。そいつはロビンを襲い、その場に居た下働きをも手に掛けている──その人物は何食わぬ顔でまだこの中にいるのかもしれないわ」
 ゾロを見上げた瞳には、確かに怯えの色が見て取れた。
 無理もない。統領には頼れず、首位洞母が襲われその犯人として次席の洞母が監禁されたとあっては、誰しも不安がって当然だ。そして得体の知れない悪意がまだ野放し状態になっているとあっては。
「アンタは今日はもう休んだほうがいい。頭痛がするとか何とか言って、仕事は周りに割り振るか、明日まで持ち越して、自室でゆっくり寝るんだ」
「でも、ゾロ…」
「心配ねえ。俺がついててやるから。どのみち、俺らの部屋は今日は入れねえみたいだし、どっか寝るところを探さなきゃと思ってたところだ。久しぶりにアンタのところで休ませてくれれば一石二鳥だ」
「…そうね」
 疲れた顔でようやくマキノが笑みの様なものを浮かばせた。しかしすぐにそれを引っ込め、険しい顔つきになる。
「でもね、私は次にあなたのことが心配なの、ゾロ。統領が怪我をしたのは事故としても、洞母が誰かに襲われたのは事実よ。そしてその場所が問題なの。あなたとサンジの岩室よ。ロビンがそこへ行ったのはたまたま偶然に過ぎないわ。なら、犯人の本当の狙いは? 物盗りならマシなんだけど、部屋を荒らした跡はない。もしもあなたかサンジのどちらか、いいえ、もしかしたら両方を待ち伏せていたとしたら?」
「俺ぁ生憎、人に恨まれるような憶えはないが──」
「サンジだってそうでしょう。だけど、人間ってわからないわ。ただ男の洞母ってだけで気にくわないという人は未だに何人もいるし、」
 ゾロはむっとした顔でマキノを見つめた。
「なによ、本当のことよ。事実は事実として受け止めなさい。サンジはとっくに受け入れているわよ。その上で洞母としてしっかり立とうとしている…強くなったわね、あの子も。あなたの後を必死でついて回ってたころからすれば、まるで別人だわ」
 ゾロは視線を床に落とした。
「そんなにしょげないの。そういう風にサンジを強くしたのは、他の誰でもないあなたなんだから、もっと胸を張って。で、話を戻すわ。あなたかサンジが狙われている可能性があるってこと。だから気をつけて。大厳洞の中といっても気を抜かないで、自分の身を守って欲しいの。統領、そして洞母二人が欠けて、あとは統領補佐のベンと次期統領のあなただけしかいない。もしそこが崩れたら──」
 一端言葉を切り、声をひそめた。
「ハイリーチェス大厳洞は、終わりよ。大厳洞として機能しなくなる」
「それは杞憂にすぎねえだろ。シャンクスがそのうち復帰するし、ロビンだって重体だけど命はとりとめている。サンジだってシャンクスが覚醒して証言してくれれば解放されるんだろ? な、何も問題はねえじゃないか」
「でもあなたが狙われないという保証もないわ」
「大丈夫だ。誰が襲ってきても返り討ちにしてやる」
「過信は禁物よ。犯人はどこに隠れているか判らないわ。皆、サンジが犯人だと思っているから何の警戒もしていないけれど、どんな顔をしてどこにいるのか何もわからないのよ。だから、ゾロ、」
 そっとゾロに堅い棒状のものを押しつけた。
「持っていて。気休めにしかすぎなくても、それでもあなたを護る助けにはなるでしょう」
 ゾロは手の中に押しつけられたそれを見つめた。
 黒い鞘に包まれた、一ふりの短剣。
「下ノ洞窟ノ長の特権よ。倉庫の鍵は私が管理しているの。どうせどこか工舎からの貢ぎ物で、持ち主は決まっていない」
「あんたは」
「私が狙われているわけではないわ。それにどうせ私が持っていたって使えないし。あなたに持っていて欲しいの。そしてできれば、犯人を見つけられれば…。でも無理はしないで欲しい」
「注文がむちゃくちゃだ」
 ゾロは嘆息する。ため息をつきながら同時に頬がゆるむのを止められなかった。まあいい。養い親として、ゾロが心配なのは本当で、そしてサンジの汚名を雪ぎたいのも本当だ。
「できるだけ善処する」
 ベンの言い方が移っただろうか。
 短剣を鞘からそっと引き抜いて、壁から下げてあるランプの明かりに刀身を掲げた。僅かに湾曲した刀身は、黄色味を帯びた明かりの中で静かにただ輝いていた。
「サンジと話をしてくる」
 短剣をもとどおり黒い鞘に収め、鞘ごと腰帯に差した。色が服と同じせいか、それは目立つことなくゾロの腰にしっくりと馴染んだ。

 サンジが監禁されている岩室は監視が外の廊下に立っていて、誰も近づけさせまいとあたりに気を配っていた。
「ちょっと下がってくれ」
「だめです。例え誰であっても洞母と話をさせてはならないと──」
「おい、誰に向かって言ってるんだ? その命令をお前に出したのは一体誰なんだ」
 ゾロは軽くその男を睨んだ。男はゾロの強いまなざしに会って言葉を失ってしまう。ゾロは統領シャンクス、統領補佐ベンの次に重要な人物だった。騎士でもないその男にとって、逆らうどころか普通なら軽々しく口をきけるような相手ではない。
 狼狽えている男に向かい、ゾロはがらりと口調を変えて、やんわりと言い聞かせるように言う。
「別に中に入りたいと言ってるわけじゃねえさ。俺は扉のこちらに居て、ほんの少しの間話をしてえだけだ。お前はちょっと二、三歩離れていてくれさえしたらいい。もちろん見えるところでだ」
 男は視線をあちこちさまよわせ、迷っている様子をありありと窺わせた。ゾロは重ねて言う。
「何もしねえ。ファランスの卵にかけて誓う」
 最初の竜の卵にかける誓いの言葉は、竜騎士にとっては名誉をかけたのと同等の意味を持つ。男はほっと息をつき、ゾロに向かって言った。
「わかりました。私はそこの角まで下がります。でも一部始終を見ることは止められませんよ」
「感謝する。それでいい」
 男が数歩距離を置いたのを目の隅で確認しながら、ゾロは扉についた明かり取りの隙間ごしに声を掛けた。

「サンジ。俺だ」
 ごそごそと部屋の内部で動く気配がした。そして扉のすぐ内側で応えがあった。
「ゾロ。ロビンの具合はどうなったか教えてくれ」
 サンジは自分の悲運を嘆くでもなく、無実を主張するでもなく、まず真っ先に重体と言われたロビンの様子を尋ねた。尋ねられたゾロもそれが当たり前のように答える。
「マキノさんの話では、あまり芳(かんば)しくないようだ。何か鈍器で頭を殴られて昏倒──ただ運のよいことに、外傷はそれだけだから、時間が経って意識を取り戻せばおそらく回復は早いだろう」
「そうか…それだけが気がかりだったんだ。とりあえず命に別状はないんだな? ならいい」
「おう。お前の方はどうだ。シャンクスが起きてくれればなんとかなるって話の様だが?」
「ああ、そうだ。だから別段気にしちゃいねえ。ラティエスの世話がちゃんとされていれば、俺の方は一泊ぐらい寝床が変わったところで何てこたあねえ」
 サンジは話しながら、扉に開いている明かり取りに顔を寄せてゾロの姿を見た。三十センチ四方程度の明かり取りには鉄の格子が嵌っていて、頭を突き出すことは出来ない。廊下の灯火に照らされたゾロは腕組みをして壁に寄りかかっているが、角度の関係でその組んだ腕より上しか見えなかった。
「俺のことより、ゾロお前。糸降りから帰ってきてまっすぐここへ来たろう。すごい汚ねえぞ。おまけにここまで火焔石の臭いが漂ってくる。とっとと帰って風呂入れ。俺は大丈夫だから」
「それのことだが」
 ゾロは慌ててサンジの声にかぶせた。マキノに警告された犯人の話をしなければ。
「もしかすると、犯人はロビンでなくてお前か俺を狙ったのかもしれねえって──」

 言いかけたとき、大厳洞全体を糸胞接近の警告音が鳴り響いた。
「うっそだろ? だってさっき終わったばかりじゃねえか!」
 ゾロは言い捨ててくるりときびすを返す。ただでさえ手が足りないところへもって、皆さっきまで闘って帰ってきたばかりだ。疲労した身体、火傷や傷を負った者、全てもう一度まとめ上げて空へと飛び上がらねばならない。
「悪いな、サンジ。帰ってきたらまた寄るから!」
 肩越しに怒鳴って走り去る。サンジは驚いて鉄格子に顔をぴたりと着け、ゾロの後ろ姿を見送った。そのとき、サンジはゾロが身体をひねった瞬間、腰帯に黒い短剣がささっているのを見た。

(まさか)
(あれは、確か、そう、昔──)
 そんな筈はない。ゾロは、ゾロは、だって、ゾロは──

 ゾロ、なのか?

「行くな!」
 すでにゾロの姿は消え、今更サンジがどんなに声を張り上げても聞こえる筈がなかったが、サンジは必死で怒鳴った。
「行くな! 行くんじゃねえ! ゾロ!」

 狭い廊下にサンジの声が反響して、少し距離を置いていた監視の男が慌ててすっとんで来る。
「静かにして、静かにして下さい!」
 監禁対象とはいえ、相手はまがりなりにも洞母で、黄金竜ノ騎士だ。どうなだめたらよいものやら男は判らずただおろおろと同じ言葉を繰り返した。
 ようやくサンジが黙り込み、あたりに静寂が戻ったとき、男は心からほっとした。

 扉の内側ではサンジがずるずるとへたりこみ、ぽつりと一言漏らした。
「行くんじゃねえ…だけど行ったなら、絶対帰ってこいよ、ゾロ…」


 

  

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