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竜の血脈(16)




「ほうい、ほうい」
 畜獣を追う童子の声が草地を渡っていった。
 それを眼下に見ながら、竜騎士たちは岩棚の縁でうわさ話に花を咲かせている。
「ラティエスの色艶が濃くなってきたな」「そろそろ…か」「今回も公開飛翔にするのかなあ」「まさか、うちの大厳洞の中だけだろ」「どの青銅ノ騎士が名乗りを上げると思う? そして誰が一番有利だと思う?」「そうだな、実力から言えばトムおやじが強いが、おやっさんは出ないと思う。去年も出なかったし」「やっぱ男相手だから勇気が要るってわけかい」「さあなあ。俺はどうせ関係ないから考えたこともないけど」「いずれにせよ、アレックは必死になるだろ。去年の勝ちがまぐれでなかったことを証明しなきゃなんねえし」「おお。一巡年ぽっちの統領なんてのはごめんだよな」「正念場だよ」
 蒼や褐や緑の竜騎士は自分たちには関係ないとばかりに気軽に予想をしたり、果てはこっそり賭けまでしていた。
 雪解けも完全に終わり、草木の色が一層濃さを増して、ハイリーチェスの高地ですら空気が密度を持って来たように感じられるようになった。すでに虫は高地の小さな花々の間をぶんぶんと飛び回り、早くも生き物はその本能の生殖に傾いている。
 あれからサンジはアレックと顔を合わせていない。仕事もなにかと口実を設けては時間をずらしたり、人を介したりして話をしないように取りはからっていた。
(どうしたもんだか)
 交合飛翔はもうすぐそこだ。今日か明日かといった段階に入っている。あれだけ気まずい会話をしたアレックだが、それでも統領で有り続けるためには参加しなくてはならないはずだ。
(さんじ。マタタメ息ヲツイタワネ。何回メ? ソンナニ何ヲ思イ悩ンデイルノ?)
 ラティエスの黄金に輝く皮膚に油を塗っていたサンジは、彼女の心配そうな声にはっと意識を引き戻した。
「ああごめん。大したことじゃないんだよ。ちょっと新種の野菜の種付けの件で農夫ノ頭に相談されていたんだけど、思うようにうまくいかなくて」
 慌てて誤魔化した。特に今のラティエスには余計な雑音を聞かせたくない。アレックがサンジに対してどう考えていようと、ルイスは立派な青銅竜だし、ラティエスには地上のことは何も気にせずに純粋に交合飛翔を楽しんで欲しかった。
(ぞろノトコロヘ行ッテミタラ、気分ガ良クナルンジャナイカシラ。モウ全部塗リ終ワッタデショウ)
 サンジは苦笑した。交合飛翔間近の女王竜に気をつかわれているなんて、騎士として少し情けない。
「ありがとう、お嬢さん。じゃあお言葉に甘えて少し話をしてくるよ。何かあったら呼びかけておくれ」
(何モ起コラナイワヨ)
 ラティエスはゾロとサンジの真実の関係を最初から知っており、それを当然として認めていた。ゾロがこのような事態になってからも、サンジの心の平安はゾロと共にあることを理解していた。
 ただ竜の交合飛翔は全く次元の異なる事象で、竜同士にも多少感情や好悪はあるらしいが、本能が最優先されてしまうため、例えサンジがゾロとどんなに深い結びつきがあり、それが故にサンジが交合飛翔で苦悩していようが、ラティエスにはその現象は理解の枠の外だった。
 逆に言えばサンジにはそれが却って有り難かった。もしラティエスがサンジに遠慮して交合飛翔に飛び立たないとかいう事態になってしまったら、それこそサンジは今以上に苦しんだだろう。
「ゾロ」
「おう」
 ゾロは何代目かのフランキー作移動椅子に座って、左腕を上げ下げする訓練をしていた。単純な動きでも、かなりの時間それを繰り返していたらしく額に汗が浮かんでいる。
「調子はどうだ…って、見りゃわかるか。少し休み休みやれよ? 一気に無理して動かしたって一朝一夕にすぐ動くようにはなんねえだろ」
「…おう、わかってる」
 くぐもった声でゾロが答える。その間もゆっくりと左腕が持ち上がり、ぐっと肘から曲げられ、また伸ばされるという動きを繰り返す。
「焦らなくったって、いつかは動けるようになるって」
「……」
 ゾロはそれには答えず、黙々と訓練を繰り返している。小半時ばかり黙ってじっとそれを見ていたサンジだったが、突然ぴくりと身体を震わせ、続いて空中から何かを聞き取ろうとしているように首を回した。
 ゾロはサンジのその様子を見ると、動きを止め、伴侶ノ竜に呼びかけた。
(バシリス?)
(始マッタヨ)
(そうか)
 ほんの二言三言だけだったが、充分に意味は通じる。
 サンジは落ち着かない様子で立ち上がった。一瞬目を瞑(つむ)って苦しげな顔をしたが、次の瞬間ぱちりと目を開けると、見事に一切の表情を隠してゾロを見た。椅子の上から見上げるゾロと視線が合う。
「じゃあ、行ってくる」
 ゾロは何かを言おうと口を開けたが、サンジは何も聞くまいとするかのようにすぐにくるりと背を向けて部屋を出て行った。
「…行くな、と言えるわけ、ねえよな…」
 閉じた扉に向かってゾロは躊躇した言葉を吐き出した。伸ばしかけた腕はどんなに頑張ってもサンジには届かず、追いかけて押しとどめるための足は萎えて立ち上がることもできない。
「ちっくしょう…」
 強く、強く噛みしめた口の端から血が一筋垂れていった。



 一歩通路へ出ると、地の底から響き渡るような竜たちのうなり声が疑いようがなく聞こえてくる。サンジは胸の奥からざわめくような焦燥感と、逆に頭の芯からはすうっと冷えるような平静さを同時に感じていた。
(ラティエス、どこだ?)
 思考を形作る間もなく、彼女が岩室の縁からさっと飛び出し、畜獣の群れの中に突っ込んだのが見えた。
 あわてて身を乗りだし、その姿を見下ろしながら心のうちで強く制止をかける。今の彼女は本能が最優先し、血を啜り肉を喰らって本能が誘う飢えを満たしたい一心で動いている。しかしサンジが強くその心を引っ張って押さえ込み、噛み砕こうとする顎を止めた。
 サンジ自身もラティエスの本能に引きずられ、胃が引きつれるような飢えを感じていたが、歯を食いしばって耐えた。
 ぐっと握る手に力が籠もる。口の中はからからに干からび、息をする度に喉が引きつれた。
 ラティエスのきらきら光る複眼が金色を帯びた虹色に輝き、ぐいと首をもたげたかと思うと、一気に飛び上がった。心をラティエスのそれと繋ぎ合わせているサンジもまた一緒に空中へ駆け上がる。
 地上に残されたサンジの肉体はゆらゆらと揺れている。だれかの手に引かれ、どこかの部屋に引き入れられると、周囲を青銅ノ騎士たちがぐるりと取り囲んだ。サンジはそれを硝子の水槽越しに見ているようにどこか現実感を失って感じていた。誰がそこにいようが変わりはしない。それよりラティエスにがっちりと沿って共に飛び続けていることのほうが肝要だった。
 それからは長い間、ラティエスは飛び続けた。若く精力に溢れた黄金竜は追従者たちを完全に振り切らないで、時折からかうようにスピードを緩めたり、いきなり制動をかけて逆方向に飛んでみたり、急降下や急上昇をしてみたりと放埒の限りを尽くして楽しんだ。
 それもいずれは終局を迎える。ルイスの尾がラティエスの尾を絡め、二頭は繋がったまま飛んだ。サンジは自分の腕をアレックが取るのを感じていた。
「結局、こうなるのさ。俺を無視できやしないってことをわからせてやる」
 そのまま乱暴にサンジの身体を引き寄せると、骨が軋むほど強く抱きしめる。
 そして、アレックは竜の本能に進んで全てを委ねた。

 交合飛翔の翌日、サンジは久しぶりに熱を出した。しかし黙って療法師の処方した解熱剤と鎮痛剤、消炎剤を飲み下すと、すぐさま起きあがってふらつく足で仕事へと向かった。周囲の者は皆サンジに休むようにと促したが、サンジは熱で頬を紅潮させながらも頑として聞き入れようとしなかった。
(負けるものか)
 何故だか今寝込んでしまっては負けを認めたような気になって、震える腕を押さえ、よろめく足を叱咤して、サンジはひたすら目の前の仕事をこなし、なんとか一日を終えると倒れ込むように寝台に転がった。
 そのまま死んだように眠りに落ちたが、夜半、熱にうなされて目が覚めて、火照った身体を冷まそうと月明かりが満ちるテラスにふらふらと出た。
 同じこの場所で、その昔夜明けの光をゾロと一緒に見たことを思い出す。サンジはゆっくりと膝を抱えてその上に突っ伏した。
 その奥から静かに嗚咽が漏れる。誰にも泣き言を言うつもりはなかったが、さすがに今回のこれは堪えがたく精神(こころ)が悲鳴を上げていた。

 アレックはひたすらサンジを蹂躙した。
 互いになだめあい、慈しみながら共に駆け上がる営みとは全く異なり、一方的に精神も肉体も痛めつけられ、最後は力づくで屈服させられた。
 忘れたい。そして二度と同じ目に遭うことは耐えられない。
 しかし、その保証は何もないのだ。また来年の春、同じことを繰り返し受ける可能性は充分にあり得るだろう。
 そのとき、身を縮こまらせてその場に凍り付いたように座り込んだサンジの耳に、その声は柔らかく響いて届いた。
「こんなところで何をなさっているの?」

 

  

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