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竜の血脈(17)




「あら、貴方──」
 サンジはびくっと身体を震わせた。交合飛翔を終えたばかりの洞母がこんなところで蹲(うずくま)っているなんて奇妙に過ぎる。顔は伏せたままだったが、サンジの金髪は目立つ。
 しかしその女性は声音に何も不審がる気配をみせずに続けた。
「寒いのかしら? 春といっても夜は冷えるわ。月見をしたい気分はわからないこともないけど、こんなところにいたら身体を壊してしまうわ。さ、中へ入りましょう」
 言いながら、肩に掛けたショールをするりとはずし、サンジの頭上からふわりと包み込む。サンジは甘く漂ってきた香りと共に微(かす)かに染料の臭いを嗅ぎ取って、このショールの持ち主は何の工師だろうとふと思った。
 それでもサンジはその場に根を下ろしたように固く縮こまっていた。少し困ったように沈黙したその女性は、そのまま立ち去るのかとサンジが思ったのもつかの間、サンジの隣にすとんと腰を下ろしてしまった。
「私には貴方がここにいる理由も何も知らないけれど」
 そっと女性が手を伸ばして膝を抱きしめているサンジの腕に乗せた。
「辛いことがあったのなら、ひとりで抱えていてはだめよ。男の人って全部自分で背負ってしまいたがるけど、それでは傷はいつまでも癒えないわ」
「…いいんだ。別に誰かに傷を舐めて欲しいなんて思ってねえ。放っておいてくれないか」
 ようやくサンジが押し殺した声で応えた。女性の手がぴくりとする。
「そうねえ、貴方はただここに月を見に来ているだけ、なのね。ならいいわ。私もなんだか月を見ていたくなっちゃった」
「…どこか別の場所でも月は見えるだろう。お願いだから放っておいてくれ」
「ここから見える月がとても綺麗なの。貴方は見ていない癖に」
 しかしそう言った直後、女性は小さくくしゃみをした。慌ててサンジは顔を上げ、掛かっているショールをはずして女性の肩に掛けようとした。二人の視線が合った。
(見られた)
 サンジは内心舌打ちをして、ぷいと顔を逸らす。どうせ今更だが大厳洞を預かる洞母がこんなところで落ち込んでいたなんて知られるのは非常にばつが悪い。
「ここは冷える、ってアンタが言ったんだろ。ちゃんとそれ巻いて、暖かい部屋の中へ戻れよ」
「貴方も一緒にね。目の前で身体を壊されては堪らないわ。ではこうしましょう。私はもう寒くて立てないわ。誰かが部屋へ連れて行ってくれないとこのままここで凍え死んでしまうかもしれないわ」
「何を寝ぼけたことを」
「でもそうなのよ。私を助けると思って、さあ」
 ゆっくりとその女性は立ち上がり、サンジに向かって手を伸ばす。サンジは下から見上げる形でその女性の顔をまじまじと見た。
 素晴らしく整った造作というわけではない。それでも大きな瞳とふくよかな唇が目を惹いた。そして何より、月明かりのせいで正確な色は定かではないが、腰までゆるく波うたせながら流れ落ちる髪の毛は、月光の艶を帯びて非常に美しかった。
 通常、竜騎士たちは騎乗帽を被るせいで髪は短く整えるのが習わしだった。他の大厳洞民たち、主に下ノ洞窟ノ女人たちも、作業しやすいようにと長髪でも普段は編んだりくくったりしている。この女性も昼の時間はそうなのかもしれないが、今は小さな顔を包み込む髪の毛はふんわりとしていて、そのままくるくる波打ちながら拡がっていた。
 ようやくサンジは立ち上がり、叱られた子供のようにその女性の前に顔を伏せて立つ。すでに顔は見られてしまっているので、これは単なる照れ隠しだった。
「ではこちらへどうぞ」
 女性はサンジの手をそっととると、確かな足取りでそこを離れた。

「とりあえず、暖まるものを少し飲みましょうか」
 染色師、というか絵付け師ね、とその女性は自分のことを指して言った。女性の部屋はあらゆるところに描きかけの絵や壺や食器が並んでいて、踏み込んだサンジは思わず部屋中をじろじろと見回してしまったのだった。それを見て女性はまず自分の職業から名乗った。
「ごめん、君のこと思い出せないや。うちの大厳洞にそんな専門の工師はいなかったと思うんだけど…」
 洞母の自分が知らないことがあるなんて、とサンジは内心ショックだった。
「ううん、私はマキノさんから打診を受けていたのよ。古い知り合いのつてでね、これから夏にかけて宴席が多くなるから、それ用の食器をと請われて来たところ。まだ来てから三日目よ。本当は交合飛翔の宴に間に合うように、ってことだったんだけど…」
 サンジの肩がすっと強張ったのを見て、それ以上の言葉は尻すぼみに消えた。
 いきなり落ちた沈黙に耐えきれず、サンジはつと手を伸ばしてあちこちに散らばっている彼女の作品のひとつを取った。
「綺麗だ。これは──ハイリーチェスの稜線?」
「そう。私は図案を描くより、もともと風景画をそのままモチーフにするのが好きなの。だから本当はこういった食器なんかより、大きな飾り皿とか壺とかにダイナミックな風景そのものを映した作品が得意なのよ」
「へええ…」
 サンジは感心して他の絵皿や花器などをひとつひとつ見始めた。そう言われるとどれも繊細な筆遣いで森や山、街の遠景などが描かれている。
「大したモンだ。見たところまだ君は若いけど、その年で工師?」
「残念ながらまだ師補よ。でも割と最近、私の作品の評判が徐々に伸びてきてるから、頑張ればあと数年くらいで工師になれるかも。──私ね、今回ここの大厳洞に来てしばらくかかりきりで仕事をして欲しいという話が出たとき、本当に飛び上がって喜んだのよ。だって、私の夢は竜を描くことなんですもの。工舎にいたら、こんなに近くでそれも毎日竜を見られるなんてことはないわ。だからここに来られて本当に幸せよ。これからたくさんの竜を見て描いて、そしていつか私だけの作品に仕上げたいの。できれば──大きく壁一面を飾るような」
 目を輝かせながら語る彼女に、サンジは久しぶりに暖かい気持ちを味わっていた。最近自分自身がぴりぴりしていたせいか、周囲の人間も気を遣って遠巻きにしていたような気がする。内側から輝くような笑顔なんて最近見た覚えがなかった。
 ふと、彼女がサンジから視線をはずし、手の中の硝子杯を握りしめた。
「だから…だから私、昨日は本当に感激したわ。竜の交合飛翔を見ることができて。女王竜は本当に光り輝いて、他の全ての竜を圧倒していた…! 青銅竜もとても立派だったけれど、彼女の堂々とした美しさに比べたら、やっぱり一歩譲らざるをえないでしょう…ねえ、」
 そして顔を上げるとサンジを正面から見た。
「貴方は、あんな素敵な竜と一緒に飛べるのでしょう? なのになんでそんな辛い顔をしているの」
 サンジは声を失った。確かに普通の人間から見たら、そう見えるのがあたりまえだろう。サンジの苦悩なぞ、絶対にわかりはすまい。
 かたりと椅子の音をたてて立ち上がった。
「葡萄酒、ありがとう。ごちそうさま。身体が温まったよ。素敵な夢も聞かせてくれて楽しかった。君の夢はできるだけ叶うよう、援助すると約束するよ。──洞母として」
「待って──」
 慌てて立ち上がって、出て行こうとしたサンジの腕をとり、その腕を抱きしめた。
「気に障ったならごめんなさい。私、けして貴方を傷つけるつもりはないの。ただ不思議だっただけ。あんな素敵な竜が──いいえ、それももう言わないことにするわ。だけどさっきの貴方はどうしても放っておけなかった。私、わかるの──私ね、人が傷ついているのがわかってしまうの」
「──?」
「子供のころからね、遊び仲間が転んで怪我したり、苛められて泣いていたりすると、一緒に胸が痛むのよ。これっておかしい?」
 サンジはちょっと目を瞠(みは)って、でも穏やかな声で応えた。
「いいや。おかしくはないよ。声が聞こえるまではいかなくても、感情を共感することができるってことだろう。大厳洞に生まれ育っていれば、竜騎士になれたかもしれない」
「それを聞いて嬉しいわ。けどダメ。私ね、これのせいで人が怖いのよ。だから幼い頃からひとりで絵を描いているのが好きだったの。今はそれなりに大人になって絵付け師という生きがいを手に入れて落ち着いているから、今回この大厳洞に来てもちゃんと人と接することができるけれど、自分がここの中心になって大勢の人を取り仕切ることを考えたらとてもダメ。やっていけるはずがないわ」
 そう言って、ふと今自分が暗に示唆した洞母という存在が目の前の人間だったことに気づく。
「ご、ごめんなさい、私ったら…」
「何で謝るの」
 二人の目がふいに合った。そのまま硬直したように押し黙る。サンジは目の前の女性が手で囲えるほど傍にいることに気づき、自由な方の腕でそっと押しやろうとした。しかしその腕をやんわりととられ、逆に引き寄せられる。サンジの頬がさっと紅くなった。
「……ダメだよ、俺は」
「いいの、いいのよ。貴方は何も考えなくていいの。ただ貴方の傷ついた心を慰めてあげたいだけ」
「……でも」
「──もう何も言わないで。私が、そうしたい、だけだから──」
「──ひとつだけ。まだ名前を訊いていなかったよ。なんて呼べばいい?」
 返事はかなり後にぽつりとひとことだけ返ってきた。
「………シリル………」
 二人の影が重なった。


 明け方。
 サンジは眠るゾロの傍らにたたずんでいた。
 ゾロは意外と彫りの深い顔立ちをしている。額が広く、だからからか眉間に皺を寄せると、一瞬でかなり「いい」面構えになる。
 今はその広い額も穏やかで、健康な寝息をたてている。深い眠りに落ちているのだろう、サンジが傍に立ち、手を伸ばしてそっと頬に触れてみても何の反応もなかった。

「あのさ、俺…子供つくってみても、いいかな? ゾロ…」
 そっとサンジが呟いた。ゾロは何も応えない。
 夜明け前の蒼い光だけが窓から二人を覗いていた。


 

  

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ここで前編が終了です。一息ついてゆっくりお休みください。